ノーボール・フリー・フォール

 視界が開けた。

 夜空に浮かぶ5つのリングの光と、グランマリーナ・ブリッジの明かり。

 上空に点在する第六から第九のチェッカーリングは順不同だ。すべてを通過したら、最後に第十チェッカーリングを目指す。

 湾には遊覧船が出て水面は明るい。上位の選手が描くばらばらの軌跡が目に入る。

 集団の先頭だ、細かいことは考えるな。プラン通りに。

 ノーズアップ。高度を上げて最初のひとつをめざす。


 チェック。ワン、ドリフト。

 チェック。ゴー。ワン、ツー、パワーカット。

 ダウン、チェック。ターン。パワーフィード。

 アクセル、アクセル、チェック。

 衝突。


 第九リングを通過した直後、上空からエッジー・リリーが降ってきた。

 何位にいたのか知らないが、ファートにやられたと思われた。スピンしながら必死に持ちなおそうとしていた。それが見えた時には回避不能。

 お互いに箒のシャフトを相手から避け、スーツの防御機構に魔力を振る。息が詰まる衝撃。左足に嫌な圧迫を感じた。

「悪い!」とリリー

「事故!」と返す。

 お互いしゃべる時間は惜しい。第十リングへは既に何本も光の筋が走っている。再加速。並走するようにグランマリーナ・ブリッジをくぐって第十リングを通過。表示は19十九 /ぶんの 19十九、最下位だ。

 そのままコースは旧市街に入った。

 家の物干し場に出てきている住人。屋根に梯子をかけて観戦している老人。屋上に臨時で設営されたビアガーデン。通行止めの幹線道路は観客でごった返している。その上、地上10メートルほどを飛ぶ直線で、リリーから離されだした。

 左腿がおかしい。サドルを挟む力が緩む。シャフトの振動を押さえきれず、推進力が逃げる。

 リリーがちらりと振り向いた。彼女の後ろについて、回復をはかる。ファートアタックを警戒して、時々ノーズを振って軸線を外す。さらに距離が開く。

 レースも後半、ゴール前の残りチェックは4つ。レッグ・オブ・タワーとグランド・トライアングルだ。

 その4つが遠く感じられた。幹線道路の向こうには旧市街にそびえる白の電波塔、地上600メートルが未来感たっぷりに光っている。この塔を下から上へ昇り、三角を描いて降下せねばならない。

 スタミナは人よりあると自負している。けれど、負傷を抱えた今、その道のりは遠く、体は重く感じられた。

 あの600メートルを、昇り切れるのか……?

 リリーが鋭く斬り上げるようにレッグ・オブ・タワーのチェックを通過し、俺も1秒遅れて続く。

 体幹の筋肉をぎりぎりと稼働させ、慣性で滑りながら箒を立てる。

 滑る俺の視界の中に、姉がいた。


 夫に付き添われ、車いすの上で、うつろな顔でぐにゃりと座る姉の姿が、観客の中にあった。

 あの事故以来、姉は表情を動かすことも、喋ることもできなくなった。

 言語機能にも障害が出て、コミュニケーションもほとんど不可能になった。

 その姉の目が。

 夫に付き添われ、車いすの上で、うつろな顔でぐにゃりと座る姉の目が、俺を追った。


 時間にしてみれば、0.5秒か、それにも満たない時間だったと思う。

 昇る。昇る。落ち着かない箒をどうにか押さえ込んで、巨大な塔の白い鉄骨に沿って、ちっぽけな羽虫になった気分で昇る。一度意識してしまった疲労は、しつこくまとわりつく。

 昇る、昇る。

 リリーの尻を追って昇る。


 タマを取って、箒の選手になった時、俺のことは姉と関連付けて語られることが多かった。ルールの隅をつつくような形で選手になった俺にとって「箒メーカーの不祥事で障碍を追った姉の跡を継ぎ選手になった弟」というストーリーは有利に働いた。

 俺もこれを利用した。利用したんだよ、姉さん。

 俺は、自由に飛べる箒乗りたちがうらやましかった。飛べる可能性があるというだけで、女たちがひどくうらやましかった。街を歩いていれば、自分の頭より高いものなんていくらでもあって、屋根でも、樹でも、クレーンでもなんでも、高くて手の届かない所に近寄れる特権が欲しくて欲しくてたまらなかった。

 あんたが障害を負った時、俺は思い付いたんだよ。この物語は利用できるんじゃないかってさ。

 

 客席の姉が何を思っていたのかはわからない。

 ただ、見ていた。目が合った。意思を持って見ていた。

 ああ、ほんとうに、あんたはいつも輝いていて、本当に妬ましかったよ!


 バルルルルと箒のシャフトが震える。両腕を巻き付けて押さえ、右足をあぶみに踏ん張る。箒を前後に引っ張って、乱れる推進力の軸を無理やり固定する。

 電波塔の先端に光る12番目のチェッカーリングへ、リリーが飛び込む。

 ワン、ツー、ドリフト!

 垂直方向へドリフトし、俺は軸線を合わせる。

 グランド・トライアングルの一つ目と二つ目の頂点を結ぶ直線上に箒を合わせ、酸素と魔力を吸い、へその下10センチで魔力を回す。

 あんたはそこで見てろ。見ていてくれ。姉さん。


 ブースト、アンド

 リリース。


 箒を放った。

 俺の視界に「19十九 /ぶんの 19十九」の表示がポップした。

 一つ目の頂点を貫き、箒は二つ目の頂点へ向けて飛んでいく。

 慣性と重力にしたがって俺は放物線を描いて落下する。落下する先には、グランドトライアングルの三つ目の頂点。

 

 この技に名前は無い。フラッシュボルト・フリーダが21歳の時に一度成功させたきりのバクチ技。

 ブルームアウトでチェッカーを通過すべきは、選手ではなく、箒だ。

 俺は切り返しが弱い。それは、魔力の瞬発力が弱く、体が他の選手より重いからだ。

 箒単体なら、切り返しも加速も、誰よりも早い。

 スタートのさらに倍、600メートルを落下する視界にポップ「19 / 19」。

「来い!!」

 箒を呼び、俺は大三角形の最後の頂点へと落ちていく。魔力と酸素を取り込んで、備える。

 失敗すれば、地面の電磁ネットに引っ掛かって失格。電磁ネットといえど、600メートルの落下をチャラにしてくれるかどうかは、わからない。

 オリーブグリーンの尾を引いて俺の箒が飛んでくる。


 ワン、ツー

 キャッチ!


 左足があぶみにはじかれた。

 斜めになった箒にしがみつき、無理やり最後のチェッカーを通過。

18十九 /ぶんの 19十八


 はっきり歓声が聞こえた。今までのレースで一度も聞いたことが無いような歓声だった。

 成功だ、成功だ、成功した。

 ブルブル震える手で箒にしがみついたまま、ゴールまでの直線を飛ぶ。たいしてスピードを上げられない俺を、エッジー・リリーが追い上げてくる。

 酸欠と魔力欠乏で、頭の後ろにびりびり痺れるような感覚があった。

 まっすぐ飛ぶ、もうそれ以外の事は考えられず、なにも目に入らなかった。


 前へ、前へ、前へ。

 

 ゴールしたと分かったのは、係員が俺を箒から外そうとしているのに気が付いたからだった。

 我に返って俺は炭素箒カーボンブルームを外し、立ち上がろうとして、左足の激痛によろめいた。


「あんたら姉弟きょうだいは、そろいもそろってアタシに倒れかかって来るんだな」


 胸のあたりから、迷惑そうな声がした。

 姉が倒れた年のブルームアウトで2位だった選手。倒れる前の姉とデッドヒートを繰り広げた選手。

 エッジー・リリーが俺を支えてくれていた。


姉弟きょうだいそろって勝ち逃げされちゃたまんないね。来年の出場権もとれよ。アタシも絶対取ってやるから、決着つけようじゃないか」

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