047 約束
旧アジトの小さなバルコニーで、メアは夜を見上げていた。手元にはいつも通りの大嫌いな液体がこれまた大嫌いな香りを上げている。最後の一杯。もう挽く豆は無い。
枝木に遮られた月夜の中に菱形の城。あまりにも遠すぎるその場所を睨みつける。
託されたブルームーンストーンに触れた。
「もうちょいだぜミラーラ。あと一日だけ耐えてくれ。俺が必ず――」
呟いた時、珈琲が取り上げられた。シーナがあちち、と慌てている。
「……てめぇまだ寝てなかったのか。泣いても笑っても明日は作戦当日だ。早いとこ休んどけ」
「ガイコツ起きてるじゃん」
「俺ぁいいんだよ」
珈琲を取り返そうとしたが避けられた。
「もうしつこい! アタシが飲んでやる!」
そう言って彼女は一思いにコップを傾け、中身を空にしてしまった。すると案の上。
「にっっっがぁあああああああいいいぃ!!!!」
喉元を押さえて悶絶する彼女に「言わんこっちゃねぇ」と目元を覆う。
荒い呼吸を繰り返し、シーナは改めてこちらに向いた。
「ガッ、ガルネットさんから聞いたんだから! これ飲んで夜通しアタシたちの見張りしてたらしいわね! 大きなお世話よ!」
「知らねぇなぁ」
「嘘つけぇ!!」
ぷんぷんと怒る彼女だったが、いつまでもごまかし続けるメアに「もういいわよ!」と諦めた。少しだけ悲しそうな表情を浮かべる。
「言ってくれればみんなで交代したのにさ……それでアンタがヘマったら世話ないじゃない」
「俺はヘマらねぇよ。スパイだからな」
「私だってスパイだよ。まだ認めてくれてないの?」
見つめる彼女から視線を外し、溜息を付く。
「んなことぁねぇよ。ただな、どんなに有能でも成りたてのスパイにゃ隙が付きもんだ。そこをカバーしてやんのが上司の務めってやつだろ」
シーナやラビの寝顔に、過去の自分を照らし合わせていた。自分の師匠がやってくれたように、自分も彼女たちをサポートしなくては、と。
「てめぇらには俺の、いや俺たちの全てがかかってんだ。間抜けなミスで失いましたなんてことになったら、俺はあの世でアイツらにどう顔向けすればいい? 死ぬにも死にきれねぇよ」
シーナは俯いた。顔も名前も知らない先輩たち。きっとそこには熾烈を極めた戦いと悲しみがあったのだろう。
「……そういうならアンタだって同じじゃない。作戦が成功しても、アンタが死んじゃったら私たちだって合わせる顔が無いよ……同じIF5でしょ?」
「いいや、拍手喝采で迎えられるはずだ。仲間が死んでも目的を完遂すりゃいい。スパイの世界はそういうもんだクソガキ」
嬉しそうに言う自分に、彼女は不機嫌そうな顔を向ける。
「やっぱり私、スパイあんまり好きじゃないかも」
「おいおい。今さら言うかよてめぇ」
少しだけ二人で笑いあった。その一瞬に温もりを感じた。
「ねぇガイコツ」
「あん?」
「アタシね、このIF5が好き」
きょとんと口を閉ざしたメア。
シーナが続ける。
「アンタは口悪いしラビチンは変人過ぎてよく分かんないし、ガルネットさんは最近決闘申し込んでくるしミアさんに至ってはまだ仲良くできるか心配だけど、それでもここが、IF5が好きだよ。これからもずっと居たいって思う」
素直に驚いた。彼女が空月亭のドアを叩いたあの日から今日に至るまで、彼女の身に起きたことを考えればこの組織のことを心底嫌いになっていてもおかしく無いはずなのに。
それだけの苦痛を味わっているはずなのに、彼女は好きと言ったのだ。
「……居たけりゃ居りゃあ良い。どっちみち作戦が成功すりゃあ、てめぇが学び舎に帰ることはねぇだろうよ」
「もちろんよ! あんな学校二度と戻ってやるもんか! そのためにはみんなで生きて帰らないとね!」
甘すぎる言葉に「あん?」と小首を傾げた。
「だってそうでしょ? アタシはIF5が好きなんだもん! ラビチンがいてガルネットさんがいてミアさんがいて……そんでうっさいアンタがいる今のIF5が大好きだから! だからみんなで帰ってこようよ!」
月明かりに照らされてようやく気が付いた。彼女の瞳に涙が溜まっていることに。
明日決行される作戦の難易度をシーナは理解していた。誰一人欠けず、になんて夢物語である現実に気が付いていたのだ。
そして実際に危険が迫った時、真っ先に身を投じそうな人間が誰であるかも分かっていた。空になった珈琲豆のビンがすべてを語っている。
「今までずっとアンタがアタシたちを守ってくれたのには感謝してるよ。でも、それは今日までにして。明日からはもう一緒だから。一人だけで戦うとか苦しむとか、もうやめてよ」
シーナにネクタイを掴まれて、ぐいっと引き寄せられた。
「死んじゃイヤだよ。ガイコツ――」
間近に浮かんだ表情から、たまった涙が溢れそうになっている。
メアはそれを指先で受け止めた。
「スパイは涙を見せねぇ。嬉しい時も、悲しい時も。大切な仲間が死んでも。『涙』は他ならねぇ『感情』の証明だ。俺たちにとって最も遠く、忌み嫌う存在じゃなきゃいけねぇんだよ」
「……アンタが死んだら堪えられないよ」
俯いたシーナ。すん、と鼻をすすった彼女の頭に触れて、優しく撫でた。
「……そうか、なら死ねねぇなぁ」
「え?」
「てめぇがスパイであり続けるために、やれることやってやんのがボスの務めだ……ミラーラならきっとこう言うと思う」
そのまま手を背中に回し、そっと抱き寄せた。
「誰も死なせねぇし、俺も死なねぇよ。五人……いや六人全員で帰ってこようぜ。約束だ」
胸に顔を擦り付けて頷くシーナを、少しの間、彼女がスパイに戻るまでのほんの少しだけの間、抱きしめていたのだった。
夜空に浮かぶ要塞を睨みつけながら、彼は二人の大切な人に約束を結んだのだ。
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