018 人の心

 丘の端っこで、震える膝を抱える。

 ラビの隠れた倉庫と港を眼下に収めながら、シーナは小さく丸くなっていた。

 今しがた見た光景を受け入れることができない。何度も首を振っては、零れる涙をぬぐっていた。

「うそよ……あんなエグいこと……」

 単純に凄惨な光景を目にし、心が揺れてしまっているということもある。ただそれ以上に身体の奥底に響いてしまったのは、あれがスパイの行いだということだ。

今やメアは自分の上司。そして同じ、自分と同じスパイなのだ。

「人を大勢殺すのがスパイのやることなの……?」

 人を殺めた経験などはない。しかしいつその瞬間が訪れてもいいよう覚悟はしていた。スパイのなんたるかを学び、スパイを題材にした本や映画も散々読み漁ってきた。その中でスパイたちが殺人を演じることももちろんあった。が、先程のような虐殺は見たことも聞いたこともない。

 夢見た理想からかけ離れ過ぎている。

「こんなのおかしいよ……! アタシの目指してたスパイは――!」

「もっとクールだったか?」

 背後から鳴った死神の声に目を見開いた。恐る恐る振り返ると、血まみれのメアが何者かを引きずって立っていた。

「高級車で登場して鮮やかにミッションこなして、国の重鎮たちと豪華なパーティー上げたあと、夜景見下ろしながらキングサイズのベッドでワイングラスを揺らす……そんな眩しい日常が待ってると思ったかよ、クソガキ」

 彼はべっとりと赤く汚れた頬を指でぬぐう。

「誰からも感謝されて慕われて、国に帰りゃ花吹雪とシャンパンでお出迎え。汚れ仕事は軍人か警察に押し付けて夜のカジノに繰り出せる……そう思ってたか?」

 なにか言い返したかった。そんなことはないと、首を横に振りたかった。しかし震えがそれを拒む。

 メアが血の混じった唾を吐き捨てた。

「んな夢物語はねぇよ。スパイはいつも゙こんなん゙だ」

 そう言って両手を広げた。どす黒い鮮血がまるで彼から溢れているように滴り落ちる。

 歯を食いしばって、一歩踏み出した。

「あ……あんなに大勢殺す必要があったの!? あの子を苦しめてるヤツだけで……!」

「数なんて関係ねぇ。相手がどんだけ居ようが任務の邪魔になんなら全滅させる。それだけだ」

「……中には女の人も、アタシくらいの若い子もいたよ……?」

「どうでもいい。的の形が違うだけだ」

 ぎゅっと手を握りしめた。今にも零れそうな涙を堪えてつぶやいた。

「……あんたに人の心はあるの?」

「ねぇよ。スパイだからな。てめぇもスパイなんだろ?」

 また滑り込んできたその単語。

 スパイ。

 理想が、憧れが、夢が、真っ赤に塗りつぶされてゆく。

 自分には他人にない不思議な力があるから、そう粋がって目指し続けた、強くて、かっこいいスパイ。そうなるために本当に必要なものは能力なんかじゃなかった。

 それは冷酷さ。人を人とも思わない確固たる残虐性。心を捨てる必要があったのだ。

 人間をやめる必要があったのだ、と。膝を折り、頭を抱えてうずくまった。

「なによ……それ……わかんない……! アンタが言ってること……アタシにはわかんないよ……! アタシには……ムリ……だよぉ……!!」

 シーナは声を上げて泣いた。折られた夢と、そして自分の不甲斐なさに。

 恐怖と絶望が支配した彼女の心は、泣き声となって暗い夜空に上がっていった。


 頭を垂れたままの部下を、メアはじっと見つめていた。

 泣き、震える彼女にいつもの溌剌とした様子は見る影もない。

 余程気持ちを抑えていたのだろう。力なく丸まった手のひらには血が滲んでしまっている。

 一度大きく息を吸い、月も星も無い夜空を見上げた。

 この暗い闇のどこかに囚われている一人のスパイに思いを馳せ、そしてつぶやいた。

「――囚われてるってスパイな」

 すすり泣きを抑えたシーナが、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。

「最初言っただろ。帝国にうちのスパイが一人、囚われてるって。あれ、俺の師匠なんだよ」

「……師匠?」

「ああ。ただのゴミ同然だった俺をスパイになるまで育ててくれた人だ。名前はミラーラ。このIF5前室長の女だ。俺なんかとは比べ物にならねぇくらい強かった」

 語るメアに、シーナはいつもとは違う表情を見た。強情で不気味な雰囲気は消え、好青年のような優し気な瞳が浮かんでいる。

「どんな相手だろうが一人でぶっ飛ばしちまう化け物みてぇな人だったが、その反面優しいところもあってな。世界中を幸せにしてぇなんてアホほざくガキの話をずっと聞いてくれた」

「……そんな強かった人がなんで?」

「作戦は完璧なはずだった。一つのミスも、情報の差異も無くこのまま完遂できるはずだった。だが、一人のクソ雑魚がドジっちまったんだよ」

 シーナはメアの瞳が一瞬揺らいだのを見逃さなかった。

 吐き捨てるように続ける。

「全滅って指示を破って敵を数人、生かしちまった。立つこともできねぇ瀕死状態だった敵を甘く見てたんだ。その結果、増援を呼ばれてミッションは失敗。当時のIF5は壊滅した。二人だけ残して」

 腰を折ってシーナを見つめた。

「自分の甘さで仲間が死ぬのはもうたくさんなんだ。自分が死ぬより死ぬほど辛ぇ。俺がマフィアどもを逃がせば、いつかそいつか、そいつの仲間がてめぇとあのチビに牙を剥くかもしんねぇ。ミッションを遂行するには、大事な人を守るためには、こうするしかねぇんだよ――」

「――なぁ、シーナ」

 いつの間にか、泣きそうな顔を浮かべているのは自分の方になっていた。

 涙を流し終えたシーナの頭に、優しく手のひらを置く。

「俺はもうあの頃のクソ雑魚に戻りたくねぇんだ――」

 その言葉を最後に、メアは黙り込んでしまった。

 シーナはその変わり果てたメアを茫然と見つめた。変わり果てたのではなく、これが本当の彼の姿なのだと気づくのに時間はそうかからなかった。

 自分の甘さで仲間を失った弱く哀れな男。

 仲間の死を経て、甘さと一緒に優しさを捨てた死に損ない。

 今のミッションもすべては過去の尻拭いだ。

「ガイコツ……」

 シーナは涙をぬぐって傍に近寄り、そして彼をぎゅっと抱きしめた。

「……嘘つき。人の心、あるじゃない」

 溢れた血が制服を染め上げる。それは感情が浸食するかのように。

「こんなに優しい、クールな心――」

 メアとともに、シーナは血に染まった。

 その道がたとえ地獄だとしても、共にあると誓ったのである。


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