008 極秘コード

 カルトロは目の前で起こる現象に息を呑んでいた。

 狼の群れがたった一人の痩せた男に遊ばれている。舞でも踊るかのように避けられ、いなされ、潰されている。まるで相手になっていない。

 攻撃手段は足技と手刀のみ。特殊な武器や能力の類は使っていない。一つ、また一つと接続した視界が消えてゆく。

 カルトロは長い実戦経験から瞬時に悟った。


私では逆立ちしても敵わない――、と。そう思った時には身体が動いていた。


「……あぁ??」


 メアに背中を向けた彼は、一目散に海へ走り出した。船も何もありはしない、どこまでも続く茜色の地平線へ向かう。カルトロは再び力を発動した。


「こい!!」


 乗っ取った視界は海中を泳ぐ。大きな水飛沫を上げて飛び出したのは大振りのサメだった。人ひとり背中に乗せても泳ぐことができそうな巨体。いくら狼の群れに生身で勝る怪物でも海面を走ることは出来ないだろう。

 黒い鮫肌に歯を剥いたその時だった。


「小賢しいヤロウだぁ」


 空中でサメが切り刻まれた。人間の倍以上の身体がバラバラに裂かれ、肉片と真っ赤な鮮血が降る。

 声は耳元で鳴った。


「狼だ鮫だぁ、俺は猟師じゃねぇんだよ。いちいちダリィことさせんな」


 首を掴まれ、そのまま海中へ沈められた。

 手足を暴れさせるが、なににも触れられない。能力を使えそうな動物もいない。

 いよいよ息が切れかけると、海面へ引っ張り出された。


「がはっ!!」


 空気を取り込んだカルトロの眼の前に、血を浴びたメアの顔が寄る。

 顔立ちも相まって禍々しさすら感じられるほどだ。


「はぁ……はぁ……ハハッ、どうした? 早く殺せ。燃えカス」


 カストロも手練れのスパイだ。 脆弱な言葉は吐かない。

メアは満足気に鼻を鳴らして問いかけた。


「死ぬ前に一つ教えろ。近々、虹色の島鳥は産声を上げそうか(・・・・・・・・・・・・・・)?」


 目を見開いた。

 それは帝国軍の極一部でしか扱われない極秘暗号。最重要機密のコードが知られていた。


「……私がそれを口走るとでも?」


「ああ。知ってるぜカルトロ。てめぇは散々帝国にこき使われ続けてきたんだよなぁ? 故郷を焼かれて家族から引っぺがされて、ガキの頃から殺人兵器に改造された。そろそろ恨みが湧いてくる頃じゃねぇか?」


 身元はすべて調べ上げられていた。なんの変哲も無い情報は時に、眉間に押し付けられた銃口の役割を果たす。

 カルトロがじっと彼を見つめた。


「……君では帝国をひっくり返すことはできない」


「まだ、な。てめぇの情報次第で奴らの梃子にズレが生まれる」


 カルトロは自分を嘲笑うように鼻を鳴らした。死期の悟りと本心が心変わりをもたらす。


「……まだ時間が掛かりそうらしい。まったく、島育ちの強情女は図太過ぎて参る。ただリミットも迫ってるぞ。新しく付いた世話係が非道な女でな。『本性を引き出ず器゙』の製造を進めているらしい」


「……器? 完成まではどのくらいだ?」


「あとひと月ってところか。場合によっては早まることもある」


 笑みの失せた表情で小さく頷いたメア。名称から考えるに器とは自白剤のことだろう。

 首元を掴んだ腕が力んだ。


「てめぇの恨みは晴らしといてやる」


「ああ頼む。ただ最後くらい、俺みたいな雑魚でも粋がらせてもらうぞ――」


 それだけ伝えると、カルトロの頭は再び海へ沈められた。

 ぶくぶくと気泡が上がってくる。それが消えようとした、その時。海面が赤く光った。


「――――立派だてめぇは」


 次の瞬間、沈んだカルトロの身体が爆発したのだ。

 衝撃波に高く上がった水飛沫と爆炎。腰まで海面に浸かっているこの状況で逃れることは困難だろう。あくまで鼻の利かない゙常人゙なら、だが。


「てめぇの粋がり、見届けたぜ」


 ボロボロになった片腕で水面を漂うハットを拾い上げた。中を覗くと、古い家族の写真がはさまっていた。スパイでは考えられない身元の痕跡。


「ここに罠でも仕込んどきゃあチックメイトだったかもなぁ。まぁ、お前にはできねぇか。能力だけでスパイには向いてなかった」


「お疲れさん。ゆっくり眠れや――」


 そう言ってメアは帽子を波に乗せ、流れて行くのをしばらく見守っていたのだった。

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