003 空月亭
港町を歩くシーナはへとへとのしわしわだった。
大聖堂を出発してから早三日、命令書から省かれていた長距離の道なりを完歩し、遂に目的の街へ辿り着いた。いつの間にかトランクは背中にくくり付けられ、代わりに両手には木の枝が杖となって握られている。
老婆のように乾いた唇からもれる言葉は、負の気配を纏ったものばかりになっていた。
「シバいてやる……絶対、誰だか知らないけど、けちょんけちょんにして屋根に干してやる……!」
眼下に大海原を望み、見上げれば雪化粧をした霊峰がそびえ立つ絶景のロケーションなど、今の彼女には取るに足らないもののようだ。
「ふふふ」と不気味に微笑み、とある一軒家の前で脚を止めた。
「まちがいない……ここだっ……ここにアタシを呼び付けた大バカが……!」
そこは小さなカフェだった。壁面は潮風を受けて風化が進み、小窓には蔦が走った古い店。
看板には【空月亭】とある。定休日の札などお構いなしにドンドンとドアを叩いた。
「クレストリア将校学校二年のシーナ=ラングスよっ!! 超遠路遥々来てやったんだから開けなさい直ぐ開けなさいよっ!!」
人の目など気にもせず叩き続ける。しばらくしてドアが開いた。
「おや、可愛いお客さんだね」
迎えたのは初老の男性だった。エプロン姿であるところを見ると、このカフェのマスターだろうか。
「悪いけど今日はお休みの日なんだよ。また来てくれるかい?」
「んなわけないでしょ! シーナ=ラングスよ! あんたが呼んだんでしょ!?」
顎髭を掻いた男性はシーナを物色すると、ポケットに手を突っ込んだ。
「だいぶ疲れているようだね。これをあげよう」
彼女の手に落ちたのは包み紙に入った三つの飴玉だった。
「な、舐めんなぁ! こちとら今年で十六歳じゃ! 飴玉なんかで言うこと聞く子供だと思うなぁっ!!」
床に飴玉が転がる。
参ったと言った様子の男性は仕方なく彼女を招き入れることにした。
「まぁまぁ落ち着いて。嬢ちゃんのために特別に店を開けてあげるから。ほら、そこに座って座って」
窓際のテーブルにはお手拭きが用意されている。
「当然よっ」と鼻を鳴らし、シーナはドスンと席に着いた。
男性はにこやかに言った。
「ご注文は?」
「はぁ?」
「ここはカフェですので、ご注文を頂けないと。果樹園で取れた葡萄を浮かべたフルーツティーなどいかがでしょう、お嬢様?」
生まれて初めて呼ばれた名称に心踊らせた。言われるがままそれを注文する。
キッチンへ消える背中を尻目に、窓の向こうに眼をやった。
キラキラと輝くクリアな海面に退屈そうな顔を向ける。
「定員のおっさんしかいないじゃない。依頼主はどこなのよ……」
まさかここまで来てドタキャンだったり――と最悪な思考回路が駆け抜けたその時、柑橘系の甘酸っぱい香りが鼻孔を突いた。
「お待たせしました。ニュートリッド名物のフルーツティーでございます」
琥珀色のフルーツティーに大振りの葡萄がこれでもかと浮かべられている。
大して期待はしていなかったが、歳頃の少女の心はいとも簡単に吸い寄せられた。
「へぇ、美味しそうじゃない。いただきまーす」
花柄のカップを手に取り、口に運んだその瞬間――
「あぁ――飲んだなぁ――ダメダメだお前」
どこからか擦れた声が鳴った。抑揚が安定していない男の声だ。
驚いて目を見開くと、向かいの席に見知らぬ男が肘をついて座っていたのだ。
すぐそこに立っていたはずの店員の姿はどこにも無い。
「だ、誰よアンタッ!! いつからそこにっ!?」
慌てて立ち上がり、その礼服姿の男を物色した。
死体のように血色の悪い肌。堀が深く頬骨がくっきりと浮かび上がった顔立ちと痩せた身体。暗闇を圧縮して閉じこめたような紫紺の癖毛は肩まで降りている。街を歩けば警官隊を呼ばれそうな眼つきの悪さも相まって、まるで死神かなにかのような男である。
シーナはあまりの気味悪さにダガーを抜いた。
「何者!? なんとか言いなさいよこのガイコツ!!」
男は呆れたように溜息を吐くと、細長い指で彼女を指した。
「武器を抜くのが二分と三十秒遅ぇ。俺ならその間に最低十五回は首を刎ねられるぞ」
言葉を失ったシーナ。ようやく状況を理解した。
自分は試されていたこと。ここがただのカフェではないこと。
そして今目の前にいるこの不気味な男こそ、自分を呼んだ張本人であることを。
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