#32 嫉みを知った日
「嫉(そね)んでない?あなた」
「あ?」
今から二十年近く前の事。若き日の捜査一課に所属する相模礼司はその日、肩を落として自宅近くの公園のベンチに座っていた。苦い顔をしている彼の近くに黒いドレスの女性が不意に現れた。
「そね……なんて?」
「ああ、ごめんなさい。ええとね、羨ましくて悔しい。そんな気分じゃない?あなた」
にこやかに意味を伝える女性に礼司は目を丸くして嫌な感じを覚える。
「なんだそれ」
顔が段々と先ほどの苦い顔に戻りながら礼司は怒張を少し含めた声で答える。
「まあ合ってるよ、それで。で、あんた誰だよ?」
「私?神様。嫉妬のね」
「ああそう」
彼はそっぽを向く。
「随分素気ないわね。信じてくれないの?」
「俺の前で魔法でも見せてくれたら」
「いいわよ」
その時、女性は青い炎に包まれて消えた。
「んな!?」
「どう?信じてもらえたかしら?」
「あ、ああ。で、名前は?」
「メト・メセキ。それが私の名前よ」
生まれて初めて見た嫉妬の神ではあるがそのあまりにも突然の来訪に心臓の鼓動を感じずにはいられなかった。
「な……何なんだよあんた」
「提案しに来たの。伸るか反るかはあなた次第だけどね」
時は数十分前に遡る。
「ねーおじさん」
「なんだい正志君」
「あのね、このおもちゃほしいの」
昼下がり、球磨崎の家にある子供部屋にて。お邪魔していた礼司におもちゃをねだる子供がいた。子供の名前は球磨崎正志(くまざきまさし)。球磨崎家の長男でこの時六歳だった。もう一人の子供で妹の友梨佳は四歳。二人とも健康に育っていた。友梨佳はお昼寝の最中で正志は持ってきたショッピングモールの広告に載っていたおもちゃの一つに指を指した。
「これは……変身アイテム?」
「うん。これでヒーローになる!悪い奴をやっつける」
「そうかそうかー。えっと値段は……うおったかっ」
思わず目を大きくしたヒーローになるための値段。
「じゃあ探してみよう」
「わーい!ありがとうおじさん!」
だが礼司が買うには問題のない値段だった。
「ああ、兄さんここにいたのか」
部屋に入り込んできたのは一家の父である球磨崎敏明。
「どうした敏明?」
「ぱぱきいてー。あのねーこのおもちゃ買ってくれるってー」
「なんだって?」
二人の会話に無邪気に入り込む正志。おもちゃを買ってくれると言った途端に敏明の顔はしかめ面になる。
「ああ、そうか……よかったな」
だが子供に見せたくないのか、しかめ面をすぐに笑顔に戻した。
「えへへーゆりかもねーなんかかってもらうっていってたー」
「……そうか」
そんな間で笑っている正志は友梨佳も礼司に何かを買ってもらう約束をしているのだと無邪気にも伝えた。
「どうしたのあなた」
「ああ……いやなんでも。それより兄さん」
「あ、いいぜ。出かけるのか?」
時計の時を見て買い出しに向かう時刻であることを知ると兄弟は一家の母である球磨崎秋野を残し、二人は子供部屋を出るとそのまま家の外に止めてあった車へと向かう。
そしてその帰り道。
「兄さん、あの……頼みがあるんだけど」
「なんだ?」
「ああいや……なんていえばいいのかな」
夕飯の買い出し当番であった敏明は最近できたショッピングモールへの道を兄の礼司に頼んで兄の車で送ってもらっていた。その道中で助手席に座っていた敏明は何かを言おうとしていた。
「その……子供に、正志におもちゃ買ってくれてるのはうれしいんだ。でも最近ちょっと多い気がして」
後部座席に食品と共に積まれたおもちゃ二つが入った袋を見ながら困った顔で敏明は言う。
「こっちは気にすんなよ。ボーナスも入ったんだから」
「違うんだよ兄さん」
困った顔からきりっとした表情で敏明は礼司の方を向いた。
「甘やかさないでほしいんだ。あんまり」
「甘やかす?何言ってんだお前?」
キョトンとした態度で礼司がいると敏明は早口に答える。
「十分甘やかしてるよ。おもちゃ部屋に溢れてて毎日大変なんだって、こないだだって友梨佳が俺がおもちゃを買ってくれないって泣き出して暴れて大変だったんだよ!おじさんは買ってくれたっていつも引き合いに出されて――」
「いいじゃねえか毎日遊べて。それも俺が買ってんだから。そのおもちゃも俺が――」
「違うんだよだから!!!」
大きな怒鳴り声を上げた。息を荒げて。
「俺たちは確かに甘やかしも何もなかった。本当の意味での贈り物なんて親からもなかった。だけどあれが甘やかしって奴なんだ。やっちゃダメなんだよああいうのは。将来いつかろくでなしになっちまうんだよ!」
「んだよ急に。別に俺がどうしようと」
「あんたは正志と友梨佳の親じゃないだろ!!」
その一言を放った途端、それまで何食わぬ顔で言葉を返し続けた礼司は雷に打たれたように静かになった。それを見てハッとなって敏明からそれまでの怒りが急に消えた。
「兄さんの事情も……分かってはいるよ。あんな恐ろしい目にあったってのもさ……」
拳を握って恐る恐る口を開いて礼司の家族の悲劇を敏明は言及しようとする。
「だけど二人の親は俺なんだ。それに俺は教師だから。アイツら二人は俺が導いて育てるから。兄さんは今日から関わらないでとは言わない。出来るだけ控えてほしいんだ。頼むよ」
「…………そうか」
アクセルを踏む足に自然と力がこもる。いつも以上の揺れで車は交差点を飛び出す。
「そうだな。俺は……アイツらの親じゃなかったよ。敏明」
静寂の車内で礼司は敏明の願いを聞いた。自分が本来蚊帳の外の人間であることを思い出しながら。
球磨崎の家に着いた時、二人の間にあった重い空気は消えることなく、敏明は必要な荷物を持って家に入った。おもちゃ二つは車の中に置かれたままだった。礼司は急な仕事が入ったと嘘を言って球磨崎の家を一人離れた。
「ああ、そうだよ。俺は蚊帳の外だったな」
一人の車内で礼司は自分一人だけの部屋があるアパートに帰ろうとしていた。沈んだ心は浮かぶ前に一つの情景を思い返させていた。
「……なんで俺だけがこんな目に合わないといけないんだ?」
あの日の裁判が心の中に映る。全てを壊していったあの狂った犯人の顔を。
――うるせぇよクソ刑事。殺される方が悪いんだよ!誰も俺を救わなかった殴った奴が正しかった!だから俺もそっちに立つことにした!だから俺は正しいんだよ!
「……あの野郎」
悪魔(はんにん)の声に憎しみに駆られた途端、車は先ほどのように揺れと速さを増した。
「おっといけねえ」
その揺れを感じると彼は少し車を遅くしていた。
(落ち着け、俺。もうバッシングだのは大分落ち着いたんだよ。だから――)
最高裁判所での結末から少しして礼司は世間からバッシングの的になっていた。理由は刑事としての能力不足から犯人の少年Aを死刑台に送れなかったということ。それ以外には少年Aは家庭だけでなく礼司が犯罪者にしただのといういわれのない事実。一時ではあったが、それらは確実に礼司を蝕んでいた。
(あの家には俺の居場所はない。荒んでた俺はアイツからの電話であの場所に時折足を運ぶようになった。アイツに言われて気づいてたけど最近は結構増えてたな)
状況を知って最初に動いたのは敏明。彼は兄への世間への批判をどうにかできないかと考え、家に彼を招待するようになった。過去に自分を助けてくれたことへの恩赦のつもりだった。
(ああ、俺もあのぬくもりが欲しいよ……)
正志と友梨佳の頭を撫でてあげた時のことを思い浮かべながら、礼司はやがて引き裂かれるような思いの中にたたずんていた。四つの原因がそこに潜んでいた。一つ目は自分は刑事になるべきだったのかという疑念。二つ目は自分が孤独になったということ。三つ目には自分はもうあの時のような家族を築くことは絶対にないという後悔。最後の一つはあの家族の人間にはなれないということとそれを持つ弟、敏明の後塵を拝するという日々を送ること。
「アイツには無理だと思ってたんだがなあ。家族を持つってのが」
昔から自分は敏明よりできた人間だと思っていた。だから誘われた当初は彼の家に居座るようにいて好きにやっていた。だがそうでないと突きつけられた時、礼司は何も言えなかった。一言でいえば羨ましかったのだ。自分がしたかった立派な家庭を持つという願いを気が付けば自分より下だと思っていた敏明にやってのけられたということを。
(アイツもよくやったよ。痩せてて……俺にならってなのか奥さんを助けて見せたんだから)
結婚に至るエピソードの一つに妻である秋野を暴漢から救ったというものがあった。それは普段臆病であまり自分からどうこうしようとする部分しか見ていなかった礼司にとっては予想外であり、気が付けば自分とは大分地位や環境面で大分置いてかれている感覚に襲われていた。
(アイツ……立派になったんだな。それに比べて俺はどうしてこんなことに――)
「とまあそんなことがあったんだよ」
嫌々ながらも目の前の神様に話せば何か道があるかもと縋るように礼司は話していた。
「それで嫉んでたのね……もしかして……あなた相模さん?テレビで話題になってた」
「ああ、そうだよ」
じっと礼司を見つめて神様は納得したかのように首をゆっくりと縦に振った。
「不思議ね。テレビとかの情報だとあなたそんなにイメージないはずだけど」
「俺にどんなイメージ持ってた?」」
「可哀想?」
「……そうかい」
ジーパンのポケットから煙草を取り出して火を付けながら神様に鋭い視線を送って話を始める。
「で、俺が嫉んでるってのどうやって分かった?神様だからでいいのか?」
「ええそうよ。気配というべきかしら。色々とね、見てきたから」
「へえ。で、あんた何歳よ?」
「女性に年を聞くのは失礼よ?」
「神様でもか?」
「そうよ。あ……ちなみに大和朝廷辺りの記憶はあるわよ?」
「じゃあ……三千歳くらいか?歴史は苦手だったからわからんけど」
「違うわよ。ちなみに今は六千歳くらい」
「……ああそう」
呆れた顔で煙草を口に加えて煙を吐く。それをもう一度行った時まで二人の間は静かだった。
「で、提案って?」
先に口を開いたのは礼司だった。待ってましたと言わんばかりに神様はにやりとして口を開く。
「あなたなら私の力を使えるかもしれないと思ってね。あの家のお父さんになりたいんでしょ?」
「は?何言ってんだ?大体どうやって?」
「私の力を一部与えてあげる。それで殺してしまえばいいのよ」
『殺してしまえ』。その単語を聞いた時、手に持っていた煙草が潰れるほどに力が入る。
「ふざけんな!」
「お断り?」
「当たり前だ。大体あんた神様じゃねえよ。むしろ毒婦じゃねえか!」
怒りのままに罵倒する礼司をよそに神様はしょんぼりとする。
「毒婦って……せめて邪神って言って欲しかったわね」
「……邪神ならいいのか」
呆れた顔のまま礼司は煙草の火を消した。
「あら?もういいの?」
「帰る。じゃあな」
礼司は苛立った口調で神様から離れる。『ああそうだ』と言うと礼司は離れた神様の方を向いた。
「できれば二度と俺の前に来るな。俺はあんたの提案を受けるほど家族を欲しがっちゃいねえよ」
不機嫌な顔をして礼司は靴音を立てて公園を後にした。
その日から司は球磨崎の出入りをなるべく抑えていた。一方敏明は自分から言ったにもかかわらず、子供二人が誕生日や受験合格のお祝いをする日やお盆や正月といった時は呼ぶことにはしていた。それだけ礼司の苦しみをくみ取ろうと気はあったためである。礼司もそれには応じて祝いの品や食事の場を設けてはまるで親のようにふるまって見せていた。
だが今から一か月以上前、すべては崩壊した。
「……そういや何だったんだアイツは」
今、手元にあったのはあの日渡すことのできなかったおもちゃの入った袋。それを持っていた時に記憶の片隅の映像が流れていた。だがどうかも長い時の経過のせいか、それが現実か彼には分からなかった。
「もう嫉んじゃいねえよ。嫉みようがねえしな」
年をとって今、彼は目の前にある敏明が残したノートの情報を調べつくして終えた時だった。時刻は夜の八時。
「本当にお前がやったのか?」
結局のところ、礼司は敏明に対して家族の輪を持っている嫉みも昔から苦労した者同士の情けも持ってはいた。ぐちゃぐちゃの彼の心はいつしかすっきりと綺麗に何もかも無くなってはいたが。
「……これ、渡しておけばよかったかなあ」
四人の遺影が夫婦が後ろ側に、子供が手前に置かれている仏壇。正志と友梨佳の前に礼司は袋から色あせたパッケージに包まれていたおもちゃとぬいぐるみを置いた。あの日、結局渡せなかったなかったおもちゃ。それを置くと礼司は二人の子供に話しかける。
「もう少し待っててくれ。犯人、見つけてくるから」
それから夫婦の方を視線を移す。
「待ってろ。壊した償いは必ず――」
会話の途中に電話が鳴り出す。
「なんだよ……最近はまともに話させてくれないのかよ」
会話の途中に割り込んでくる電話に飽き飽きしながらも礼司はそれを取った。
「はいもしもし」
「あ、相模?ちょっと気になる事件があるんだけど?」
電話の相手は同期の女性刑事だった。
「気になる事件?なんだよそれ」
「それがね、少し前なんだけど……弁護士の湯島さんが火事で亡くなったのよ。とてもそういう……火事による自殺とか雰囲気には見えなかったんだけどね」
「はあ……それで?」
礼司は首を傾けながら話を聞く。
「実はね、私もあんたの追ってるあの事件……皆は状況からして事故か夫の乱心による事件じゃないかって話で決めつけてたでしょ?」
「そうだな」
食い気味に礼司は返す。
「ちょっと気になってて調べてて。でね?湯島さんの方も事件概要とか人物関係とか調べたのよ。そしたらさ、気になる人物がいるのよ。両方の事件に共通しているヤツが」
「……なんだと?」
それまで苛立っていた彼の眉がピクリと動く。
「おい、誰だよそれ?早く教えろ!」
その話題に噛みつこうとするように礼司は声を荒げて聞きこもうとする。
「怒鳴らないで。偶然かもしれないし――」
「誰なんだよそいつは!!」
「……緑波目也って子。年は今年で二十四歳で――」
名前をため息交じりに聞かされた途端、怒りの顔はうっすらと消えてキョトンとした顔に変わる。
「え?あいつ、か?」
「知ってるの?」
「……なんでもない。ありがとな」
「うわ気持ち悪い」
「は?」
礼を向けた荻野の予想外の返しに礼司は怒りを隠せずにいられなかった。
「礼を言ったのが気持ち悪いって言ったのよ」
「なんでだ」
「昔からそれ言うような性格してなかったでしょ?被害者とか外部の人間相手にはともかく」
「あのなあ、俺にだってそれくらい言う権利は――」
「はいはい。……頑張ってね」
電話は一方的に切れた。礼司はそのやり取りの中で出たその人物が気になっていた。
「……どうなってんだ一体?」
ノートのページを彼に合わせながら礼司は彼の人物像について振り返る。
――耐えるしかないと思っています
(コイツだよな……確か?)
はじめて彼と出会った当時の事を思い浮かべながら、礼司は疑いの眼差しをそのページに向ける。
「もしかしたら……いや、今はまず尾行からだ。何かわかるかもしれん」
突如緑波目也に落ちた陰りの色に引かれ、礼司は彼の尾行を行うことを決意。仏壇に置かれていた色褪せた箱二つは部屋の照明によってかすかに光っていた。
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