#26 そして、奈落の底で――

 目也が瞼を開いたとき、最初に映ったのは自分を見下ろして見ている神様の笑顔。はっとしてそして辺りを見渡すとそこは自室であることを確認する。ぼんやりとした意識で後頭部に当たっている柔らかい感触から自分がベッドの上で膝枕されているのだと理解する。すると目也は慌てて飛び上がる。顔を赤くして。


「もう少し今のままでのよかったのに」


「いえ、あの、えっと――」


 慌てふためく目也とほくそ笑む神様。笑顔を見て目也は額に手を当てる。


(この人には一生困らせられるか、たじろいでしまうのかもしれないな……)


 目也は焦りから少しずつ落ち着きを取り戻すもその頬は赤く、未だに神様のその振る舞いに何処か慣れずじまいであった。


「あれから大分経ったけど大丈夫?」


「え?……あっ!」


 部屋の窓の向こうはすっかり暗くなっていた。球磨崎の来訪から大分経過してしたらしい。


「あの後確かベッドに寝転んでそのまま……寝てたんだっけ?」


「不貞寝というやつかしらね。まあ……あんなのが出てきたんじゃあそうなりたくもなるわね」


「……ええ。そうですね」


 目也は正直なところ、球磨崎がここまで自分に噛みついてくるのが予想できなかった。反論を一切認めず、自分のふがいなさを誇張して語っては剣幕交じりに非難し自分は間違った人間ですといった趣旨の反省文も書かせようという態度。全てが目也が邪魔を受けたあの日から全く変わっていないという事実に目也は頭を抱えざるを得なかった。なぜそこまで自分に噛みつくのかが全く理解できずに今までいた。


「……ドリームキラー」


「え?」


 ドリームキラーというその単語を口にしたのは神様だった。聞きなれないその単語に沈んだ表情の杢哉は一転してきょとんした顔を見せる。


「そのドリームキラーってのはなんです?」


「嫉妬から生まれる存在。もちろん例外もあるけど。端的に言えば他人の夢を邪魔して砕くものよ。でも理由が思いつかないわね。さっきのアイツがそうする理由が」


「ドリームキラー……ですか」


 ドリームキラー。意味としては神様の言う通り他人の夢を砕く者。その背景には自分の失敗、あるいは他人の成功が嫌だからという本当に小さな理由があるケースも存在する。球磨崎のあの態度からして恐らくそのどちらかではないかと目也はその時は推測した。

 頭の中で今日の出来事を突如やってきた悪魔と共に振り返っている内に目也ははっとして神様の方を見る。


「あの、今日火災報知器なったんですが……もしかしてあれ、神様が」


「そうね。見てられなかったから」


 神様は手から炎を呼び起こした。それは目也が呼び出す炎よりも紅い。それが報知器の誤作動の原因。正確には誤作動ではないのだが周囲や状況は『誤作動』と判定を出してはいる。


「すみません。自分もアイツがどうも苦手でその場でどうしていいのかがどうもわからなくなってたんです」


 部屋中央のテーブルに備わっている椅子に目也は座りこみ、再び沈んだ表情で深く息を吐く。その様相を見て神様は思わず声をかける。


「大丈夫?目也君?」


「軽い吐き気がするんです。あの日から時たまに思い出すと」


 自分が持っていたささやかだが確かな信念を折り砕かれ、さらにはその隣で自分よりも優秀になろうとした連中。そしていつからか彼の心には奈落が出来上がり、さらにはそこに油が満ちていた。

 彼の世界を言うなればそれは地獄だろう。楽しいときには姿を見せずに一人、あるいは苦しいときにその地獄は姿を現す。油には火がつきその勢いで彼はよく燃える。その苦しみに耐えながらも彼はどうにか生きている。たとえどんなに焼かれても死ぬことはない。その程度だから死なないのだ。


「あなたは多分信念がどうこうって言ってたけど多分そうじゃないと思うわね」


「どういう意味ですか?」


 知らずのうちに胸に手を当てていた目也に神様は話をする。


「なんといえばいいのかしら……摘まれた信念というにはいささか違う気がするのよ。例えば……」


 顎に手を当てて考えながら神様は答えをだす。


「そう。世界よ」


「え?世界?」


 『世界』という果てしなく大きな存在の言葉が出た時、目也は目を丸くした。


「ええ。そうよ。だって信念程度ならまだどうにかなるような気がするし……。ああもちろんこれは私の持論。実際にはあなた以上に傷つくこともあるから。でね、世界って言ったのはね――」


 神様はそのまま聞かされてきた目也のこれまでについてを元に彼に話を続けた。それを聞いたとき、目也は自分が予想以上の影響を自分に及ばされていると知り、たちまち声を上げて膝を折った。


「そんな……だとしたら俺は……結局は……」


「……恐ろしいわね本当に」


「地獄がここに?嘘だろ――」


 腹をそっと撫でながら彼はつぶやく。


「奈落の底の油満ちた世界……」


 腹の中の世界を彼はそう表現した。なにも見えぬ暗闇で辺りには自分への罵倒が響き、鼻が曲がるほどに腐った匂いが立ち込め、足元は動けぬほどに絡み、しまいにはよく自分を燃やすその世界を。

 少しの沈黙を経て彼は折った膝をゆっくりと戻して立ち上がった。

 近くの椅子に腰かけて机上の上のハンターケース型懐中時計に手を伸ばして中身を開く。時刻は深夜一時を指していた。


「うわ……もうこんな時間か」


「結構うなされてたわよ。大丈夫だった?」


「ああ、あれはその……嫉妬側に……やられたというより……」


「あの子、何かしたの?」


「あの子?嫉妬側ですか?」


 そういえば自分の精神世界の中で嫉妬側が昔気になる発言をしていた。


――ああ、俺は例外みたいなもんさ


「そういや俺の中にいるやつ、確か自分は例外って言ってましたけどあれはどういうことなんです?」


「あなたの中に潜んでいる者?あれはね、あなたが魔人になる前からいるのよ。正確にはあなたと出会って握手して、その時にね……潜ませたのよ」


「え?」


 目也はぎょっとした。自分の中に、それも精神という目には見えない箇所に何かを仕込まれていた事実に驚かざるを得なかった。


「……何故そんなことを?」


「耐えられなかったからよ」


その回答に目也は眉をひそめる。


「耐えられなかった?どういう意味です?」


「前にも話したけどね、私は私が救いたいものを救いたいのよ。だからね、今回は例外を、最初からこちらの人間になれるように部下と呼べるものをあなたに放ったのよ」


「……例外の理由ってそれか」


 得心がいった。神様は自分が救いたい人間を救うことが出来ずにいた。そこで神様は自分に対して新しいアプローチを仕掛けてきたということなのだろう。


「別に構いませんよ。苦しみ続いていた日々を救ってくれたのは多分そうした仕込みがあってからこそですよ。儀式を受けることが出来て俺はこうして笑っていられている。生きている内で笑っていられるというのはね、とても大切なことなんですから。少なくとも、苦しまなくていいならね」


「そう。新しい方法だったから何かイレギュラーとか異変とかないか心配だったのよ」


「異変?」


「そう。何か変わったことはなかった?」


「うーん……」


 頭の中で儀式の前からの出来事を、正確には神様と出会ってからを振り返る。


「今の所特に目立った異変とかはないですよ?」


「ならいいわ」


そういうとベッドに座っていた神様はずっと立ち上がる。視線は窓の向こうに向いていた。


「暗くなっちゃったわね……」


「え?ああ、そうですね」


 暗闇の方に目也が視線を移す。光りがほとんどないその世界をその目は移している。


「……俺はずっとこのままで死ぬんじゃないかって思ってたんです」


「え?」


「あなたは何故私の前に現れてくれたのかはわかりません」


 その時目也は、確かに笑っていた。


「無抵抗という罪を背負って死んでしまいそうだったからです」


「無抵抗という罪?」


 『無抵抗という罪』という言い方に神様は首を傾ける。


「ええ。今までの抵抗はきっと無抵抗みたいなもんだったんですよ。そもそも生きるってのは大方誰かと戦っているようなもんです。それも知らずのうちに」


 外の暗闇の明かりの一つ一つを見ながら彼は話を続ける。


「今この瞬間にもきっと戦っている人はいるはずですよ。紙上でも戦場でも。ペンや銃を握ってね。俺にはそれが出来なかった。させてもらえなかったんです。抵抗はしました。いや、したつもりでいたんですよ。だけどそれは抵抗じゃなかった。無抵抗に該当した。よって罪。だから罰が下った」


「そう……なるのかしらね……」


「そうなってましたよ。だってこのままいけばずっと弟の後塵を拝み続けて妬み続ける日々のままになっていたから。加えて自分の居場所を、ここを取られそうだった。あの奈落の中にいながら」


 拳を握って神様の方をを向く。


「そんな状況を救ってくれたのは、奈落を救ってくれたのは紛れもないあなたです」


「ああそうね。確かにそう。だけど……あなたはまた違う罪を背負った。違う?」


 意地の悪い笑みを浮かべて神様は目也に聞く。


「アレが罪ですかね?」


「え?」


 瞬間、神様は目を見開いた。


「確かに殺人は罪だ。だけどね、『絶対に許せない』ってのがあるんですよ。人間にはね。その線を越えた時、人間ってのは罪を罪と思わずに腕を振り回せるもんなんですよ。それは罪じゃないような気がするんです。それらほとんどは……正義なんじゃないかと」


「正義ねぇ……仮にそれであっても後味が残るでしょうに。それもかなり悪いのが」


「俺はそうは思いませんよ?むしろそうなるべきだって思ってます」


 拳を握り締めて目也は言い放つ。


「戦おうとする他人の人生に足ひっかけて笑うゴミは皆死んだほうがいい。どうせ死ぬから戦ってるんだ。なのに――」


「本当に悔しかったのね」


「え?」


 神様が割り込むように返す。その時、目也は自分の頬の感触から泣いていることに気づいた。


「……そうですね」


「そう。人は死ぬわ。どんなに好きな人も、嫌いな人も。非凡でも平凡な人でも。あなたはそれを誰よりも理解していたのね」


「理解してたかって言われるとわかりませんが……でも受験の時、自分ならここまで行けるだろうって本気で思ってたんです。だから邪魔されたとき、それも親にもアイツにもやられたときがとても悔しかったんです。それからもずっと……」


「そして妬みが生まれ始めたわけね?それも今まで以上に」


「球磨崎は……あいつは理想の家族を作れただの、いい学校を作ろうだのって嬉しそうに言うんですよ。俺をコケにしてまで。その上、死んだ弟、もとい頭の悪かった義弟は俺以上に情だのなんだの受け取って俺以上の良いランクの大学に入って幸せになってたんです。俺はずっと失敗したあの日々の出来事から逃れようとしていた。苦しんでいる俺の隣でそんなことしている奴らが俺は嫌いだったから。羨ましいなんて思わないようにしないとって……そう思うようになった」


 泣きじゃくりながらも全てを話す目也。それを神様は無言で受け止め続ける。


「ああそうだ、明日殺そう」


 腕で涙を拭きながらその顔に笑みを浮かべながら突如として泣き声から狂気を孕んだ声を吐き散らしだ。


「え?明日?」


「明日です」


 明日という急なスケジュールに神様は目を丸くする。そして懐中時計を神様に見せるようにして握り締める。


「苦しんでいる今でも俺の時は動いているんですよ?」


 規則正しく動く懐中時計は強く握りしめられていようがそれでも動いている。正確に時を刻んでいる。


「見てください。止まってないじゃないですか。ええそうですよ。まさに『時間がもったいない』というやつですよ」


 目也の瞳には力がこもっていた。眉をひそめ、青筋を浮かべ、口元を歪ませながら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る