#25 壊れた日

「知ってるか?反抗的な性格だと最悪の場合受験すらできないんだぞ?覚えておけよ?」


 彼自身の机に勢いよく叩きつけた一枚の紙。進路選択表と題されたその紙には緑波目也の名前が記されていた。


「……わかりました」


「両親には自分が間違ってましたとちゃんと謝るんだぞ?ごめんなさいって言うんだぞ?はっきりと自分が間違っているんだって伝えるんだぞ?いいな!」


 、緑波目也の人生は大いに狂った。七年前の高校時代に彼は志望校の再検討を当時の担任教師である球磨崎敏明に強要された日。具体的には当時、彼は理系の大学を選ぶことにしており、そしてその中で偏差値の高い大学を志望していた。しかし球磨崎がこれを見ると即却下を言い渡し、反発する目也をなだめるどころかこれでもかと怒鳴り、さらには彼の両親も彼を殴り飛ばすなどしてきつく怒鳴りつけた。取得する教科を化学と地学ではなく化学のみにされてほぼ完全に第一志望への道を断たれた。第一志望は球磨崎と親の意見で差し替えられた大学になった。


――自分が選んだ道の上を歩き続けて人生を最期まで進みたい。それで両親も自分を認めてくれるはずだ。


 そんな彼の曖昧にして確かな願い、あるいは情熱は静かに死を迎えた。沈む理想をただ見ていくことしかできずにいた彼は唇を噛みしめながら職員室を後にした。目から出た涙には気付かなかった。

 自分が悪いのかもしれないという不安、そしてそれでも努力次第ではまだ何か手はあるのではないかと若干の希望を持った心で始まった受験戦争。


――関わらないようにしてください。今の彼は危ないですので


 目也の知らぬところで球磨崎の放ったその一言で目也に近づこうとする者はいなくなった。高校生活最後の一年、緑波目也はほとんど誰とも深く関わることはなかった。

 ほとんどの人間は成功者か敗北者かを努力や才能次第で知ることが出来る。だが彼はそれができないようにされた。他人の作った偏見によって固まった道を歩かされた為に。成功か失敗か。ただそれすら知ることを許されなかった。そして彼は心を時が経つにつれ、キリキリと締め上げらめるうようになった。

 春は不安を持ちながらもペンを取って勉学に励んだ。奴らの渡した第一志望ではなく自分の望んだ第一志望に成績を上げて捻じ曲げようと必死だった。独学だったが少ない小遣いで買った地学の参考書を毎日読んで家で勉強していた。


「頑張ろう。まだやれる。今ならあいつらを謝らせることだってできるんだ……!」


 進路変更というハンデがかえって彼を燃やしていた頃でもあった。ここで本来の第一志望に受かれば両親と憎き球磨崎に謝罪を要求できると思っていたから。

 夏が来たときはまだ何とかなると自分に言い聞かせながら勉強を続けた。学校では教えてくれないというハンデを背負いながらも彼は独学で補おうと必死だった。受け始めた模擬試験の結果を見るまでは。


(畜生……まだ時間はあるんだ……まだ!)


 秋が来た。淡々と受験の日が近づいている。全体的に伸び悩む成績の原因は勝手に行っていた地学だと両親が知るとこれをひどく叱り、地学に関する参考書を捨てさせられた。そして独学が出来なくなって彼の成績は落ち始めた。


(なんでだよ。万引きも暴力沙汰も起こしていないのになんで自分の歩いちゃいけないんだよ)


 ベッドで一人寝るたびに泣いた。殆ど毎日泣いた。病気になってほしいと思ったが特に病気にはならなかった。

 冬が来た。決められた第一志望の大学で受験を受けた時、彼は逃げたくなった。


(僕はどうしてこんなことをしているのでしょうか?)

 力のない瞳でペンを握っていた。というより持っていただけであった。

 春が近づく季節になり、最終的に滑り止めの大学にしか受からなかった。


――まあ、こんなもんでしょうね。変な気起こさないでもうちょっと素直に言うこと聞いてればよかったのに


 自宅のリビングで両親のその言葉を聞いた目也は震える拳を抑えながら殺してやろうかと思った。目也は両親に浪人を申し出たが下にいる弟の卓明の為だと、家庭の都合を理由に浪人に反対された。家出を企てたが寄る場所もなく結局滑り止めの大学に入ることになった。

 そして卒業式の日を迎える。一連の流れが終わると目也は静かに校舎を抜けようとしていた。昇降口まで急ぎ足で向かうと、近くで話し声を耳にした。


「いやあそれにしても今年も色々な合格の知らせを聞きましたねえ星田先生?」


「ええ、そうですね」


 昇降口近くの廊下で話していたのは球磨崎と星田先生の二人。星田先生は球磨崎とほぼ同年代の教師であり、皮肉にも星田先生は目也が求めていた地学の担任でもあった。


「あの偏差値六十超えである慶神といいそれに有名私立大学の合格の知らせが例年にも増して増えてるのって……これも球磨崎先生のおかげですかね?」


「ああ、私は単に調べてみてめぼしい生徒にもっと上に行ってみたらどうだと声をかけただけですよ。自分のクラスだけでなくいろんな生徒を見て回っただけですので」


「そうなんですか。それだけでここまでやれるとは……凄いなあ」


(他の生徒……?俺がいたクラス以外にも見て回ってたってことか……?)


 首を傾げつつ曲がり角の位置から二人の会話に聞き耳を立てる。


「てことは声を掛けた生徒はみんなエリートの卵だったと?」


「いやあ違いますよ。エリートの卵というよりは『やればできる子』なんです。」


「……だったら緑波君にもそうした声をかけるべきだったのでは?」


 目を細めつつ星田先生は球磨崎先生に低い声で尋ねた。すると球磨崎はしたり顔をして回答する。


「確かにそうなるかもしれません。しかし私はちゃんと見ています。当時の成績もあの子の第一志望も。どう見ても『駄目』だったから事前に私が手を出したんです。たとえそれが横車を押すようなことと言われてもね」


「にしては厳しくなかったですか?」


「恨まれるのは仕方ありません。不良から見た教師とはそういうものです。でもいつか社会に出て理解します。『ああ、先生はこんなに苦労していたんだと。』ってね」


「そういうものですかね?」


「そういうものなんですよ」


 沈んだ表情を見せる目也とは裏腹ににこやかに答える球磨崎。


「上手くいけば来年には教頭先生といったもうちょっといい地位を得られるかもしれませんからね。家族のためにも」


「なるほど。にしても先生最近家族の為ってセリフ多くないですか?」


「そうですかな?まあ私の『誇り』みたいなもんですからね」


(誇り……『家族』が?)


 疑問を持った。当時の目也にとって誇りとは身分や勲章、あるいは何らかの賞を指すものだと思っていたから。


「夢だったんですよ。良い家族を持つことが。私の家はひどいもんでしてね。両親がまだ学生だったからということで子供の頃は親戚をたらいまわしにされてたんです。実家が裕福でお金を親戚に渡してたのか食事とかには困らなかったんですがね」


 肥えた腹を撫でつつも球磨崎は話を続ける。


「だから私は二つの目標を持った。一つは良い家族を持つことを。そして私のような境遇である生徒を生み出したくないと。そう思っているんですよ」


「それでああやって声掛けを?」


「ちょっと違いますけどね、あれは。私のような境遇を生み出さないのであればもっとこう……熱血というか」


「ああ、なるほど。でも良い生徒が増えれば――」


「ええ。私のような学生時代を、あんな両親のような人間ができるだけ生まれずに済むということです」

「もう一つの目標の良い家族を持つというのは?」


「それはまあ今の所……出来てる……かな?」


「ちょっと弱気ですね」


 苦笑いして球磨崎は答えを出す。


「今はまだ兄も妹も小学生ですから。これからですので」


「もしもですけどお二人の成績が振るわなかったら厳しく言うつもりですか?目也君みたいに」


「しませんよ。私にとって特別ですから。かけがえのない二人だからしっかり応援してあげるつもりですよ。アイツみたいに成績が悪くても進路の邪魔はしないと誓いますよ」


「……そ、そうですか」


「二人を立派な社会人に育てられたら悔いはありません。有意義な人生になるのはもう目に見えてるも同然ですから!」


 昇降口に出ようとしていた目也の足はくるりと逆方向へと向かった。見たくない顔と見られたくない顔があった。

 近くのトイレに早足で駆け込むと個室のドアを開けてそそくさと鍵をかける。便座に腰かけた途端、顔から溢れる水滴が地面に落ちた時に『ああ、やはりか』と何処かで感じた。


「うう……うわぁっ――」


 自分をけなしていたその男は満たされていた。そうなってほしくなかったから泣いた。選びたい道を選べずに貶められた自分。選びたい道を選んで進んでいき、欲しいものと理想を叶える場所にいる球磨崎の息子たち。それを並べた時に出た涙は彼の人生の中でとても多かった。恐らくこれ以上はないだろうというくらいに、涙があふれていた。


(あいつのサンプルなんだ。今の俺は。あいつの息子たちが幸せになるために、自分の為に……俺の人生に横槍を入れたんだ!)


 生まれた痛みを忘れること。これが高校を出た彼の当初の目的だった。手段はなんでも良い。奈落の底をどうやってはい出るか、あるいはそこにどれだけいても救われるような生き方を見つけるかの二択。それが出来れば人生の次のステップに進めると信じていた。

 大学に入って彼はまず友達を作った。最後の高校生活で無くしていたがまた違う大学の同期と共に生きていこうと決意した。そうして笑う日々を送り続けることを選んだ。時には出る課題に苦心しながらも。心の裏側から這い出るあの屈辱の日々を忘れようと必死だった。


――笑っていれば救われるものなんだ。だったらもっと楽しく生きたいなと思っていたから友達を大切にしてたよ


 目也は当時をそう振り返る。

 だが三年目のある日、一つの出来事が彼の周りで起こった。弟、緑波卓明の浪人である。それを弟から聞いたとき、憤慨した彼は卓明を何度も殴った。悲鳴に駆け付けた父が必死に取り押さえながらも暴れる彼に父はこういった。


「仕方ないだろ。目也。卓明はお前より成績が悪くてどこも受からなかったんだから」


「ふざけんな!浪人はどこも受からなくても認めないって俺の時に言ってたろうが!」


「ああそうだ!でもこのままじゃ卓明が可哀想だろ!?」


「可哀想ってなんだよ!ふざけんなよ!」


 父をも殴り飛ばし、さらにもう一撃加えようと拳を振りかざしたその時――


「大学辞めさせるぞ!誰のおかげで行けてると思ってるんだ!」


「なっ……!」


 その一言で限界まで力のこもった拳が静かに振り下ろされる。唯一の居場所と苦しみを忘れられる場所がなくなる。その恐怖に自然と力が抜けていた。泣きべその卓明を引き連れて父はその場を去った。


――ごめんな。目也のことは気にしなくていいから


 去り際に父が放ったその一言が忘れられなかった。


「俺は……なんだったんだ?あいつは何で許されて――」


 考えるのをやめた。これ以上考えても、また暴力ふるっても、何にもならない。それよりも自分にとって憩いの場所がなくなるのが嫌だった。だから卓明がその後に二浪しても何も言えなかった。

 大学生活最後の一年は就活に追われた。仲間と最後の思い出作りをしつつも内定は何とかもらえた。できる限り笑った。楽しんだ。だからもう苦しまずに済むだろうと思い込みながら。

 卓明が自分よりも優秀な大学に入ったと聞いたとき彼はそれを聞き流すようにした。自分には関係ないから。

 社会人一年目。プログラマーとして入社した彼はなまじの成績の良さはあったが早速上司に今の自分を変えろと言われた。

 変わること。それは彼に六年前の出来事を呼び起こすには十分であり、それをすることはなかった。無視し続けた。地獄を見るのは確実だと思っていたから。そうしていると上司は彼を使えない人間と罵り始めた。それでも彼は構わずに作業をこなした。やがて目也は一つミスをするとそれを鋭くとがめられ、自分を変えないからだと罵られた。彼は大いに怒った。


――そんなの意味ない、地獄を見るだけだ!


 経験者としてそれだけはと必死に避けていたが結局は無駄だった。会社からは反省文を書かされ、賞与は減額。次はないと言われた。半年後にも同じことを言われ、怒りを必死にこらえたが上司はそんな目也を反抗心の塊だと思い、日に日に彼を責めた。小さなミスも大声で、少し遅いと何やってんだと怒鳴られる。加えて思い出す受験時代の日々。限界になった彼は退職届を提出した。もう何も思い出したくなかった。


「俺は……悪い人間なのか?」


「いや、そうでもないと思うぜ?」


 気が付くと目也は何もない教室の真ん中、彼の作り出した精神世界にいた。


「あれ……今までのって……?」


 脳裏に走り出したこれまでの出来事を振り返っていた。額に手を当てていると嫉妬側が答える。


「ああ、俺が思い出させてた。お前、自分が悪いのかって思ってたからよ。こういう時は俯瞰ってのか?別の視点というか……なあ?」


「……それでか」


 中央の棺桶に腰かける。


(結局俺は……どうしてこうなっているんだ?俺が突っぱねているからか?俺が何かを求めたからか?)


 それまでの出来事が果たして自分に何をもたらしたのだろうかとしばらく思案する。そうしていると嫉妬側が彼の前に立ち、話し出す。


「お前は悪くねえよ。周りがお前を責め上げたのさ。だから今のお前が出来てるだけだ。そうだろ?」


「……ああ」


「だったらどうするよ?」


 一呼吸おいて目也は嫉妬側に答えを出した。口を大きく歪ませながら。


「ぶっ殺す。あいつはクソ野郎だ。家族もろとも潰してやる。たとえあの世で悪党と叫ばれても、誰かが俺を悪者だといってもぶっ殺して俺はそれを誇りにしてやる。地獄の底で俺を見下した奴らを笑ってやるためにな!!」

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