#20 喪失者が一人

――緑波光示は息子さんを亡くしてから様子がおかしい。だから話すときは気を付けるように。無論彼が悪いわけじゃない。我々が丁寧にケアできる所はしてあげるべきなのだ


 密かに回っていた社内連絡より。

 その日、いつものように仕事をしていた緑波光示に入ってきた一本の電話は彼を混乱と悲愴の渦に叩き落とした。

 二人目の息子、緑波卓明の死。それは会社の中にいた光示の膝を折り、彼の目から涙を溢れさせた。彼はただ泣き散らし、ふらついた足取りで卓明の遺体が収容された病院へと心配した部下と共に車で向かった。それが夢であることを願いながら。

 だが、遺体はそこにあった。白く変色した卓明の肌。閉じた瞳。打ち付けられたように残っている打撲のような跡。それら全てが今も光示の中に消えずにいる。


「……長……部長!部長ってば!」


「あ……ああ、どうした、田中君?」


「どうしたじゃないですよ。さっきから何度も呼んでるのに」


 会社のとある部署の一室で各々が作業に取り組んでいる中、緑波光示は部下の田中に引き戻されるように悲劇の渦から引き戻された。瞼を閉じて眠っていたわけではなかった。ただその日の出来事が淡々と再生されていただけだ。


「……すまない、えっと」


「この書類なんですが……その……」


「ああ、それこっちで見るよ。部長は少し休憩してください」


「あ、いやでも安藤君」


「いいから。屋上…じゃないや、喫煙室でもどこにいても今は大丈夫ですから。ね?」

「……そうかな?」


「落ち着きを取り戻したら戻ってきてください。二階の自販機コーナー、この時間なら空いてますから」


「……ああ、そうだな。コーヒー買ってくるよ」


「あ、コーヒーなら私が注ぎましょうか?」


「佐々木さん」


 佐々木と呼ばれた若い女性社員が無自覚のうちに名乗りを上げる。しかし田中の悲しそうな自分を呼ぶ声に少ししてはっと気が付き、すぐに自分のパソコンに向き直る。


「ああ……でも今は入れたてが欲しいかなあって」


「……佐々木さん、俺の分も含めてお願い」


 それならばと納得して田中は佐々木にコーヒーを自分の分も含めて注ぐようにお願いした。二つのカップが並ぶのにはさほど時間はかからなかった。

 緑波光示は現在、とある重工業会社にある一つの部門で部長を務めている。大学時代に卒業してから長年勤めていた会社でやっとのことで掴んでからかれこれ数年が経過した。これ以上の出世は彼自身の定年が近いことも関係してか出世の道は諦めているものの、家族三人を食べさせていけるだけの分に加えて老後の貯えもある程度は出来ていた。結婚した妻の弘美も息子二人を出産してしばらくしてからはアルバイトからパートタイマーと様々な仕事で家計に尽力したこともあって息子二人は大学に入学が出来て家庭は安定していた。次男が亡くなるあの日までは。


「主任……その、今日なんですが」


「ああ、前から予定していた忘年会だろ?参加するさ。いつまでもこんな状態じゃあ皆の士気に関わってしまうからね。」


「……それは来週です。今日は佐々木さんが社内で新人優秀賞を貰ったからその祝賀会ですよ」


「ああ!そっちか!」


 座っていた椅子が音を立てるほどに大きく体を揺らし、光示は慌てて大きな声で自分の記憶違いに驚きを隠せないでいた。その声にオフィス内の社員の視線が集まるがすぐに戻った。


「……部長。今日は何もせずにじっとしてても誰も文句は言えないと思いますよ。社長だってきっとそうです」


「……そうかなあ」


 それからは椅子に座って手を組んだまま、部下の田中が自分の机から度々覗き込み、かれこれ数分が経過していた。息子の死という重い場面に外野からは深く関わっているという自覚もあった。それでも何も言えずにいた。その視線に気づいたのか光示は彼に話しかける。


「田中君、息子の件は気にしなくていい。アイツもなんというか…馬鹿なところもあったからな。だから―」


 苦笑いで語る光示に田中は最後まで沈黙でいるしかなかった。光示の目から出てくる涙を指摘することもなく。


「安藤君、忘年会には私は出るつもりだから。何も気にしなくていいよ。十分泣いたからね」


 今年の忘年会の幹事を務める安藤は光示の参加表明を重く受け止めたのか、目を見開いて固まる。しかしすぐそれが失礼な態度ではないかと思い、はっきりとした声で光示に返事をする。


「わかりました」


「うん。あ、ちょっと失礼」


 安藤の了承をしっかり耳にとらえると光示は机から離れてオフィスを出た。誰も、彼を止めることはしなかった。

 少しの沈黙の後、安藤は田中に暗い声で語りかける。


「部長……もう大丈夫そうですかね?」


「多分な。息子さんが亡くなってしばらくは結構ポカだのミスだの目立ってたけどしばらくすれば立ち直れるさ。」


「部長、今までダブルブッキングだの書類のチェック忘れとか今までなかったはずなのに」


「自分でも気づかないうちにそうしたミスが起きるほどって事だ。多分それだけ息子さんが大事だったんだろうよ」


 卓明の死後、光示はそのショックのせいか普段では起こさないミスを仕事中に起こしていた。それも本人が気づかないうちに。

 それから一週間後、忘年会の日は訪れる。


「あれ?鈴木さんは?」


「田町から帰ってくる途中で人身事故に出くわしたせいで送れるって連絡ありましたー」


「斎藤さん風邪ひいて休みだそうです」


「了解。安藤君、俺の席は端がいいんだけど大丈夫?」


「わかりました。いいですよ」


 光示の部署に加えて別の部署も加わり、多くの社員が別々に設置された二つの長テーブルに用意された座席にそれぞれ着く中、緑波光示は端の席に座っていた。彼は昔から忘年会、新年会と会社の食事会系統のイベントには積極的に参加していた。それは単に食事とか酒とかが目当てではない。別の社員たちとコミュニケーションを取るのが狙いだった。世間話から始まり必要なスキルの聞き出しをしたこともあれば逆に提供もしたこともあった。家族ができた時は家族のいる先輩社員に注意点を聞いたこともあった。もちろん逆に聞かれることもあった。最近は光示の年もあってか仕事のことだけでなく人生においてのあれこれで情報提供をする側に回ることが多い。


「皆様、グラスにお飲み物を注いでくださーい!」


 今年の幹事を務める安藤の声が居酒屋に響き、社員は互いのグラスに飲み物を注ぎあう。


「部長、今年もお疲れ様した」


「ああ、ありがとう。君もね」


 光示の目の前の座席に座っていた田中から光示は持っていたグラスに緑茶を注いでもらう。帰りに車を運転するため、今日はビールは控えているためだ注がれたグラスのビールから辺りへと視線を散らせると多くの社員が笑って話をしながら今年を振り買っている内容の話から来年の話をしている。


「今年もにぎわっているねえ」


 光示がその賑わいに微笑む。


「ええ。うちはこの国から見ればいい会社かもしれません」


 相槌を打つのは田中。そして田中は光示に話を続ける。


「自分、緑波さんの意見がなければうちも緑波さんのアドバイスがなければ、最悪バツが付いたかもしれないんで」


「え?そこまで酷かったの?あの……資格取りに行った方がいいってアドバイスした時かな?」


「ええ。正直、お金とか将来とかで俺の頭一杯だったからそんな単純なことに気づけなかったかもしれないんですよ」


 田中はグラスをそっと置いて当時を振り返る。

 田中は光示の一年下の後輩で社内の成績も優秀。更には家庭も築いており、姉と弟がいる四人家族。以前に光示は田中から妻と度々口論になると相談を受けていた。

 その原因を光示が聞くとどうやら田中は妻に楽をさせようと頑張って残業をしてお金稼ぎをしているのだがそれが原因だと田中が気づかなかったらしい。そこで光示は田中に資格勉強を進めてみることにした。資格でもいいものになれば報奨金が会社から出てくるからであり、また勉強のためにも家にこもる必要性がある。これが効いたのか田中の夫婦関係は良くなったそうだ。


「君のところの……ご姉弟は元気かい?」


「ええ。姉は今度大学受験を控えてます。弟は中学二年生ですから来年に高校受験ですね」


「ああ、大事な時期だね。お姉さんの方は」


「でもあんまり勉強に身が入ってないというか…油断してなきゃいいんですけど」


「油断ねえ……うちは兄弟共にそういうのはなかったなあ」


「真面目に勉学に取り組んでたんですね。兄弟共に」


 田中のその意見を聞いた時、光示はふと我に返ると箸で摘まんでいた刺身をそっと自分のお皿の上に置いた。


「ああ、そうだな。頑張ってたよ。二人とも」


 光示が言葉を詰まらせるのを見て田中はしまったと思った。

「あ、えっとその――」


「気にするな。天国の卓明が見てたらって考えるといつまでもこう暗くしているわけにはいかんのさ」


「…そう、ですね」


「だろ?それにうちにはもう一人いるさ」


「……お兄さんの方は今、何を?」


「新卒で入った会社辞めちまってフリーターやりつつ転職活動してるよ。俺と妻は一度こっちに帰った方が良いって言ってるんだが……まああの年なら一人の方が楽だよな?」


「二十四でしたっけ?確か」


「うん。来年にはもう二十五だよ。早いもんだ」


 刺身を再び摘まむとそれを口に運びながら浮かない顔をしている光示に田中は少し考えてから彼に意見を述べた。


「結婚とかにはまだ早いですし、そのままの方が良いような気がしますが」


「普通に考えるとそうだよなあ。ただ妻がさあ、あいつはこっちにいるべきだって。立て替えた家賃のこともあるし」


「その立て替えた家賃の返済の目途が転職活動の結果で立てばいいんですが。転職活動の成果をもう少し待ってあげたらどうですか?」


「あいつもまだ若いからな。こっちに戻ったことも考えるともう二か月待ってあげてもいいかも」


「その線引きが何とも言えないんですよね。自分もそうした立場に関わったことなくて」


 しばし考えこむ。これまでの状況、彼の性格、年齢などの彼のステータスを。

 そして光示は答えを出した。


「とりあえず待ってやるかな。急かしてしまうといけない気がしてきたよ」


「ええ。可能性を潰してしまえば……その、なんというか」


「可能性……か」


 可能性という言葉に何か引っかかりを感じる光示。そして彼は自分の昔話を語り始める。


「俺も若いころは……高校生までかな。特に将来って言われてもピンとくるものがなくてただ青春をいたずらに過ごしてた気がするよ」


「え?部長がですか」


「どんな風に過ごしてた風に見える?」


「確か野球をなさってたとか?」


「そうそう。あの頃はねえ楽しかったよ。仲間と毎日特訓してそこまでレベルも高くないのに甲子園に行くぞーって吠えてたからなあ」


「ああ、高校球児の夢って感じがしますね」


「まあ大抵は一回戦で負けてたんだけど。良くて三回戦。大学受験が始まったころは仲間と一緒に東大行こうぜって今度は吠えてた」


「夢追い人ってやつですか」


「そうそう。でもまあ体育会系だしそこまで頭良くなかったから自分の行きたかった三流の大学に落ち着いたけどな。以下に東大いける奴がすごいかってのを実感したよ。俺は周りの皆に、先生や両親に支えてもらってやっと三流大学に届かせるのがやっとだったんだぜ?」


「三流って言いますけど、あの時代なら大学どこ行っても就職には困らなかったんじゃ?」


「まあそうだな。それからは流れに任せて毎日を笑って過ごしたよ。目也のようにね」


「ああ、お兄さんの方ですか」


 相槌をにこやかに返しながら光示は運ばれてきた唐揚げに箸を伸ばす。


「で、大学卒業してからはここでずっと働いているよ。結婚も出来て、息子も二人生まれたよ」


 追加で来たサラダを取り切ってそれを食べきると光示はそれまでとは違ってはっきりとした声で田中に話を続ける。


「今、総じて見れば俺の人生、途中までは順風満帆って感じだったよ。本当にね」


 光示はコップをテーブルの上に置き、視線を空になった皿の上に向ける。しばしの沈黙の後、彼はぽつりと話し始めた。


「俺、定年になったら何しようかで悩んでたんだそういや。卓明や目也みたいにパソコン…じゃなかったプログラミングやってみるのもいいかなあ……」


 光示が老後の人生に思いを馳せる。


「目也は卓明と違って賢いし、俺とほぼ同じ人生を送れているから大丈夫かな?」


「目也君なら大丈夫ですよ。部長と同じ生き方ならきっと」


「……ああ。そうだな」


 もう一人の残った息子の身を案じながらも忘年会は過ぎていく。

 しばらくして忘年会は終わりを告げた。その後光示は居酒屋の駐車場に止めてあった自分の車に戻る。


「遅くなっちゃったな……」


 周囲の暗闇を見渡しつつ、車の時計を見ると既に九時を過ぎていた。妻の弘美には今日は遅くなるとは伝えてはある。それでも彼はなるべく早く帰ろうと思っていた。あの日以来、笑わなくなった妻の身を案じながら。


「さてと。明後日は何もないよな?」


 助手席に置いた黒いカバーのついた手帳に手を伸ばし、それを開く。

 すると、はらりと何かが手帳の間から落ちてきた。


「ん?なんだこれ?」


 落ちたそれに手を伸ばす。手書きの文章が記された一枚のメモだった。


「……これは」


――伊奈月海岸に零時で


 メモには今いる場所からそう遠くない海岸に零時に向かうことが記載されていた。さらにはそこに今日の日付も書かれていた。


 だがそのメモには光示から見ればある事実が読み取れていた。それは――


「卓明……!?」


 見覚えのある筆跡に思わず目を丸くする光示。


「いるのか……あそこに!?」


 伊奈月海岸。初めて卓明に車を買い与えてから夫婦が彼に連れて行ってもらった場所。だからこそその場所には深い覚えがあった。


「卓明……ちょっと待ってろ!今行くから!」


 車のキーを回し、自分の頬にビンタをして伊奈月海岸を目指す。

 死者は蘇らない。覆ることのないその事実は今は光示の頭の中から消えていた。

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