#7 嫉妬の果て、死に飛び込む

 通せんぼを薙ぐ力はなかった。

 伸ばしたその手ははたき落としを受けた。

 逃げ続けたことにされた彼の人生。

 いつしかその人間の願いであった『認められたい』という願いは手から消えて戻ることはなかった。

 そんな彼は今、魔人の道を進まんとしていた。 

 少し前、祐司はメセキ神に儀式を受けたいと連絡をした。彼女はそれを聞くとどこかうれしそうな声で二時間後に祐司のいた部屋に向かうと連絡して電話を切った。その時の目也について後にメト・メセキは迂階燈八(うかいとうや)にこう語る。


――あの子の声色だけでわかったんだけど。静かに、堂々と復讐の道を切り開こうとしていたわ。自分の人生哲学を汚され、歩かされ続けて絶望したんでしょうね


 神様に電話をした後、目也は神様が来るまでに部屋の掃除をしておこうと思い部屋の隅にあった掃除器で部屋の掃除をしていた。だが流石に二時間を掃除機で潰すことは出来ず、部屋のベッドに腰かけてスマートフォンをいじりつつ自分の心が何かで真下に引っ張られるような感覚をただ味わっていた。


「全てを壊して新たな道を進む力か……」


 正直神様からそんなセリフを聞いたときは嫌だった。だが、自分の受けた屈辱がそこまでのレベルに達しているのであればあの提案をしてきたことも頷ける。


「それでも殺人の道ってのが最初はどうかと思ったがもう俺の人生そういうレベルの状況じゃないんだろうな」


 殺人。どの国でも立派な犯罪。必要とされるのは凶器だけではない。逸脱した精神力、または初めから逸脱した精神がいるのだ。前者は成り行きで抱いた精神力で例としては大切な人が殺された、屈辱を浴びせられたといった場合が該当し、緑波目也はこのケースである。後者はサイコパスといったそもそも人の死が羽虫程度のレベルにしか感じられないタイプ、あるいは人は死ぬ様を見ていたいと感じる本物の狂人が該当する。

 緑波目也の弟びいきの家族に対する怒りは殺意にまで達した。しかし殺すにしろ殺人をすればそのリスクは当然背負うことになるが、神様はそのリスクを回避することが容易であると目也に告げていた。


「本当にそんな方法があるのか?って思ったけど神様確か姿を消せたよね?」


 以前自分と会った時のことを目也は思い出していた。


(そういや後どのくらいで来るんだろう。もうそろそろ二時間立つはずだけど――)


「お待たせ。大分待たせちゃったわね」


「うわぁ!?」


 深く考え込む険しい顔をした目也の前に突如現れたのは神様ことメト・メセキ。部屋のカギがかかったままの来訪に座った目也の体はただ後ろに引きずるしかなかった。


「えっと……とりあえずお茶にする?」


「……神様って茶目っ気ありますね」


「茶目っ気?」


「いきなり出てきたのでとっさに出た単語が茶目っ気というかなんというか……」


 あきれる目也の前に現れたメト・メセキ。その手にはトランクケースと見覚えのある青い紙袋が握られていた。

 中央に置かれたテーブルで神様はカステラの入った容器を開けて並べ、ティーセットをトランクから取り出して紅茶を用意し出す。慣れた手つきで準備をする神様に目也は声をかける。


「あの、何か手伝いましょうか?」


「だったら紅茶用のお湯借りてもいいかしら?」


「わかりました」


 それからはさほど時間もかからずに、以前のように紅茶とカステラが並べられていたが目也はそれに目もくれずに神様に視線を固定したままだった。彼女はカップを片手にその香りを楽しんでいる。


(本当に神様なんだよな……?)


 目也にとって今わかることは見た目まず髪型はさらりと長い肩まで伸びた長い黒髪。体つきからして女性。年齢はおそらく二十台半ばほどで服装は黒のゴシックロリータのドレス。そして象徴かはわからないがアゲハ蝶のブローチを胸の真ん中につけている。後はいつもなのかはわからないが茶封筒のような色をした旅行用のトランクを引っ張っていた。

 その成り立ちも、いつからいたのかも、どこから来たのかも目也は詳しくは知らない。ただわかるのは自分に救いの手を伸ばそうとしている存在であることだった。


「……もしや私に惚れたのかな?」


「違います」


 即座に切り返して膨れ面の神様から視線をどこか別の、近くにあった神様が持っていたトランクケースに移した。


(大きさからして三泊四日くらいか……?家とかない感じなんだろうか)


 前に来訪したときも持ってきていたそのトランクケースには何が入っているのか気になりだした。恐らくは着替えや時間つぶしように本などが入っているのだろうと目也は神様の容姿や仕草から想定する。


「コレ、他に何が入っているか気になるの?」


「はい」


 とっさに出た神様の質問に正直に返すと神様はにっこりと笑った。その微笑みは彼女にとってはいつも通りの微笑みなのだが、今の目也にとっては神様の微笑みということもあって太陽のように眩しく煌いて見えた。


「まあ中身は見せられないけど。しかしどうして儀式を受ける気になったの?」


 次の疑問は今回目也が神様を呼んだ理由についてだった。目也は神様の「提案」を断ってから今までの状況を声色を抑えつつ静かに伝えた。


「そりゃあひどいね」


 両親に最後の居場所を強引に持ってかれる事態にほぼ確実になっていること。さらにその居場所を目也が嫉んでいた緑波卓也が乗っ取ろうとしている事態も同時に来ていると目也が伝えると神様はカップを皿の上に置いてため息を溢す。


 好物のカステラに手を伸ばさない目也にどうしてかと思ったがここで神様は理解した。彼の殺意が既に臨界点に達しているのを。

 目也はたどたどしくだが肩をピクリピクリと動かして笑っていた。人間はとても怒ると笑うらしいがやはりそうなのだなと神様はかつて自分が儀式を受けさせた一人の少女を思い出しながら理解していた。それまで岩のように動かなかった目也が突如として机に握りこぶしをたたきつた


「あいつらは他人につけられた傷なんてお構いなしなんですよ!こうやって呑気に食事に誘いやがるその態度が……もう……」


 声を荒げだした。そこから涙声になるのは早かった。


「ああ、辛かったろうに」


「……儀式ってどうやって受けられますか?」


「ああ、それは簡単だよ。すぐに受けられる。でもその前に――」


 左手の指先を広げ伸ばしてカステラに視線を移させる。


「コレ、全部食べてもらってからでもいいかな?」


「いいですけどなぜ?」


「少しばかり儀式に関係しているのさ」


「そういう……ことでしたら」


 疑問を浮かべながらもカステラを食べだした目也を見ていた神様はその合間にと右手から炎をゆらりと手の上に起こした。その炎の色は菫のような紫色だった。


「……綺麗ですね」


「そう?」


 とても綺麗に見えたのだろうか。食べていた目也の口が止まった。

 神様は眺めていた。その炎を。人間を呑み人の理を転がす呪いにしてある種では救世の柱が一つの炎。これまで多くの人間を呑んできたこの炎は神様を神たらしめる象徴でもある。


「あの、食べ終わりましたけど」


「早いわね」


「美味しいですよコレ。とても気に入りました」


「そう?買ったかいがあったよ」


「それで儀式は何時頃から行うんです?必要なものとかは?」


「ああ、そう慌てなくても大丈夫。この炎と君がいればいいのさ」


「え?道具とかはいらないんですか?」


 いらないわよと口を緩くして椅子から立ち上がると目也にも立ち上がってと言って目也も同時に椅子から立ち上がる。


「儀式はカンタン。この炎をぎゅっと握って死ななければ大丈夫よ」


「…………え?それだけですか?」


「ええ。そうよ」


「それで力が手に入ると?」


「ええ。それで妬み晴らしの力を貴方は手にすることが出来るの」


「……あいつらを、その、警察とか絡むことなく、つまりは完全犯罪同様リスクなしに殺せると?」


「うん」


 目也は念入りに確認をする。儀式の説明からずっと目也は真顔だったがリスクなしに殺害できると確認できた途端、抑えられていた感情の間欠泉の蓋が開けて中身から全てが溢れ用としていた。その時を今か今かと待ち望んでいた。


――そうだ。もうすぐで人の人生を踏み台にし、実験台にしていった奴ら全員に報復が出来るんだ!あの日から、自分の受験を奪われてから出来た痛みを本当になくせるんだ!


 醜く歪んだ表情の目也の前で神様はまるで子供をあやす母のような表情で話を続ける。


「でもね、この儀式……リスクはあるわよ?」


「え?」


「死ぬってこと」


 死の可能性がちらついたその一瞬で目也の全身に上がっていた殺意の熱は冷めた。

 誰だって自分の命は惜しいもの。そして死は恐ろしいということ以外わからないから恐ろしいのだ。


「そりゃあそうさ。それだけの力を得られるかもしれないってのに何のリスクもないなんておかしいだろ?」


「確かにそうですけど……」


「さて、どうする?」


 そのままたじろぎだした目也の前の神様の表情は変わらずにこやかなままであった。これから自分を殺すかもしれないというその炎を微笑みを絶やさずに揺らめかせていたその仕草は目也に彼女は嫉妬の神という人間の闇の感情を司る存在なんだと思い起こさせた。さらには自分が死ぬかもしれないというそのリスクは目也に考える時間を与えた。


(どうすんだ……死ぬかもしれないのに受けるのか?)


 死んでしまえば復讐も元も子もない。今からこの話をなかったことにして儀式をキャンセルするのも死ぬのが怖いといえば多分不可能ではないはずだろう。この神様ならわかってくれるはずだろうと目也は考えた。


(きっぱりと言ってしまえば――)


「怖いかい?なら受けなくても大丈夫よ。また受けたくなったら電話なりなんなりでどうぞ」


 神様の右手にあった炎が消えた。変わらぬ表情で、にこやかな神様に少し体が震えそうになるが抑える。


――いや、違う。そうじゃないだろう。なんで神様を俺はここに呼んだ?


(……そうだよ。俺が望んでいるのは単に生きることじゃなくて。いやそもそも俺の願いは違うだろ)


 一呼吸置いた。これまで両親に受けた仕打ち、そして居場所すら奪おうとすることで生まれた心の傷の痛みはぶり返していた。どれだけ楽しい思い出を築いてもはい出てくるそれはどんなに痛いと叫んでも、自分の痛みは誰にもわからない。心の傷なんて特に絶対にわからない。だからあんなメールをのんきに父は送って来てみせた。


――そうだ……だからあいつらを……俺の敵をギダギタにして殺してやらないとダメなんだ!あいつらをこれ以上幸せにさせてたまるか!!


「……俺の今の理想の死に方は、あいつらが幸せになって生きているか幸せに生きていながら死んだことを思い出しながらじゃないんです。最低でもせめてここで儀式を受けて死ぬか、あいつらを殺した後に『あいつらは俺が殺したんだ。やってやったんだ』と思い返しつつ老衰で死にたいんです」


「怨敵が年老いて死んでいくのが許せないからせめて棺桶に自分から入れさせたいって事かしら?」


「ええ。そうです。今のでよく…ああ、昔似たような人がいたとか?」


「そうそう。単純にいうなればあいつらを殺したいだけなんでしょ?」


 困惑した表情から一転して目也の瞳には純粋な視線を起こせるだけの光が入っていた。


「死ななきゃいいんですよね?」


「ええ、それで戻ってくればいい。簡単でしょ?」


「ええ。話の上だけだと」


 目也は儀式の内容を復唱するかのようにもう一度確認を神様にとる。その時だった。突如として彼女は目也の両手に自らの両手を包むようにして握りしめる。


「覚悟はついたようね」


「え、ええっと……?」


 一瞬自分に何が起きたのかわからず動揺する。


「あの、えっと……これ……」


「ああ、餞別みたいなものさ。自分の美貌を磨くことと情愛を注ぐことには自信があるから」


「そ、そうですか」


 彼女の香りが鼻に入るたびに胸の鼓動が早くなるのを目也は顔を赤くして感じていた。抱きしめていた神様がそのまま顔を目也の胸の中にうずめる。彼の手は神様を抱くことはその時はなかった。


「万が一死んだとしても。君を思った存在がいるということを君に知ってほしい。私からせめてもの手向ね」


「ありがとう……ございます」


 放たれているその甘い香りに痺れて、意識が溶けるようだった。目也の人生の中で女性に抱きしめられる機会はなかったから尚更だったが初めての抱擁は彼の心が神様に捕えられるには仕方がなかった。

 

二人の距離が少し離れる。それからしばし静かに二人は見つめていた。


「いけそう?」


「……はい!」


「それじゃあ、行ってらっしゃい」


 手を放し、神様はその手から炎を溢れさせる。それは手のひらという小さな領域の中で赤く轟轟と燃え盛っていた。

 目也の両手が炎を包んだ。そしてぎゅっと彼はそれを握りしめた。


「……これでいいんですよね?」


「そう。それでいいのよ」


 神の手のひらにあった火は消えた。消えただけだった。しばしの沈黙から目也は神様に視線を向ける。神様はただ手元の火があった部分に視線を向けていた。


「あの……これって失敗……ッ!?」


 神様に聞こうとしたその時だった。


「うがああアアァ!?」


 突然目也の全身に燃え盛る痛みが走った。


――体が燃えている!なんで、どうして?まさか失敗したのか?


「さあ、試練の幕開け。自身の宇宙に私の炎を灯し、ヤツを飲み下して見せなさい」


 それまで穏やかだった神の声は急に重くなった。

 意識が、遠くなっていく。やがてくらりと世界が反転する。

 目也の体はそのまま地面に崩れ落ちた。






「さて……彼はどうかしら?」


 目の前で倒れた候補者に目をやる。彼女の眼鏡にかなう存在であればよいのだが。

 眼鏡にかなうといっても試練の成功率はさっきも彼に話した通り八割だ。しかしそこが問題なのではない。力を手に入れたとき、彼の、緑波目也の人生はどう『変わる』のだろうか。


「……ここで倒れたままなのは可哀そうね」


 うつぶせに倒れた目也を肩に抱えて持ち上げ、ベッドの上に横にさせる。

 眠る彼にメセキは呟く。


「超えて見せなさい。私に少しだけだけど似ている歪みを持ちし者」


 窓の外の空は何時の間にか暗かった。夕焼けの光も殆ど差していない。


――どうか彼に光あれ


 ベッドに彼を仰向けにさせてその手を握っていた嫉妬の神は願っていた。

 嫉妬の『神』なのに、願っていた。

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