#1 燃え尽き、消える前に

 彼には昔、自らの願いを邪魔をする敵がいた。


 だがそれを討つ度胸も力も足りず、嘲笑と罵倒の中で願いは砕かれた。


 願いは砕かれ、以前から続いていた差別ありきの教育にやがて打ちのめされた。


 それでも信念の為に生きようとする道が欲していたが、何もできずに彼はいたずらに時に流されていった。


 彼の人生の中で深い苦痛を残したその一端の出来事。その原因は『誰かの仕業』ではなく『自分が逃げ続けたから』にされた。


 これはその経験によって『妬み』を実らせ、神に選ばれた醜い人間の物語。






 賃貸アパートの一室に住む青年。男性で髪は短く整っているが顔つきはいい方ではない。年は若く、背丈は成人男性の平均値ほどで痩せている。そんな彼は髪を掻きながらスマートフォンの画面を消した。暗くなった画面に自身の顔が映った時、ため息を大きく吐いた。


「どうしたもんかな……ホント」


 彼の名前は緑波目也ろくなみもくや。数か月前に会社を辞め、フリーターになった。悪く言えば無職である。


 少し前に勤めていた会社をやめた。典型的なブラック企業ではなかった。メディアに報道される企業と比べるとある種は良いほうだったのかもしれないとは思っている時もある。

 ではなぜ辞めたのか?彼には一つだけ耐えられないものがあった。

 自分を変えようとしてくる行い。それだけに目を瞑ればの話だったが彼にはその一点がどうしても耐えきれなかった。


 ぼやきを上げる少し前、彼の両親が家に来た。その時の出来事が彼の心を曇らせていた。


「あんた、少し前から立て替えてあげてる家賃はいつ払うのよ?できないならこっちに帰ってきなさい」


 目也の母、緑波弘美ろくなみひろみは昔からとにかく目也だけにはお金にうるさい所があった。学生時代も目也が遊びだの小遣いを要求すればバイトしろだの働けだのと散々に小言をまき散らし、目也は学生生活の傍らにバイトを始めた。とはいえそれは別に大学生だからと目也にとっては割り切れていたから別にどうと言うことはなかったが。


 ない袖は振れぬ状態なのに言ってきたその言葉。目也はただこう返すしかなかった。


「……ごめん。もう少し待って」


 彼の母親はパートタイマーで今は長年勤めたスーパーで、少し前にリーダーポジションに着いた。今は私立大学に弟の学費の為にパートを頑張っている立派な母親である。でも彼に映っているのは舌打ちしてしかめっ面する一人の女性。


「母さん。今は不景気を脱したとはいえるけど流石に仕事が豊富ってわけじゃないんだよ?目也、もう少し待ってあげるから頑張りな。辛かったら家に戻っていもいいんだぞ?」


 舌打ちする母とは打って変わってどこか温厚な父の緑波光示ろくなみこうじの対応。父はフォークリフトやチェーンソーといった企業向けの機材を開発している大手の会社に今も勤めており、こっちも母と同じで今は開発部署のリーダーをしているそうだ。最近は仕事と言っても椅子からあまり動かないようになったらしく痩せてた父の腹は結構前に出始めていた。それも結構大きく。


「目也、ご飯食べに――」


「行かない。この後バイトあるから」


「……そうか」


 父の食事にでもという誘いを即答して目也はドアを閉めようとするが、母がそれを防ぐかのようにドアに手をかけた。目はキッと目也を睨んでいた。


 バイトがある。目也はそう嘘をついた。実際にバイトがあるのは明日で今日は偶々休みだった。だけどもし今日バイトがあったなら俺が家を空けている間にこいつらは勝手に家に入ってくるだろうしこのドアの前で阻止できたのは大きいだろう。


 沈黙の中、母の弘美が口を開いた。


「目也」


「……なんだよ」


「もっと早めに言いなさいよ。そしたら手助けぐらいしてあげたのに」


(何が手助けだよ)


 むすっとした顔を向けながら弘美は説教を続ける。助けられているのは目也の方ではあるのだが、内心で目也は彼らを嫌悪していた。


(こいつらは俺以上にお金やら権利やらを持っている。だからそういう事が平然と言えんだ。だからてめえで好き勝手な息子の救済シナリオとやらが描ける。俺はそんな奴らの言いなりにはなりたくはないし増してこれ以上貸しを作るのも御免だ)


 目也の現状は以前よりも月収が少なくなり、家賃すら立て替えてもらっている状況。だからどうにかして貸しをなくす必要があるのだ。そうであるのだが今の彼には現状を打破できる何かを持っていない。


「仕事見つけて耳揃えて早く持ってきなさい!わかった!?」


「母さん。もういい加減にしなよ」


 苛立った母の声に呆れ気味に父がにこやかになだめようとする。


「早く帰って」


「おい目也――」


 勢いよく扉を閉めて即座にU字ロックを掛けてドアから背を向ける。直後に両親二人の会話が聞こえてきた。


「……いつからあんな風になったのかしらねえ」


「何時からってお前……そりゃあ会社辞めてすぐ報告に来なかったのは悪いとは思うが、あいつだって大変なんだよ」


「目也はねえ、自覚が足りないのよ。結局自分一人で生きてるって思ってる。それは全然違う。まだ自分が優秀だと思っているからねあの子。昔みたいに『高望み』を歩こうとする前にまた私たちで止めないと」


「ばかな道ってお前それそこまで言わなくても――」


 『高望み』という単語を耳にしたとき、目也は身体が震えた。さらに腹の底から何かが口から出ようとする所謂吐き気に襲われた。部屋に向かってドスドスと歩いて部屋の奥の布団に力なく倒れこみ、それからはその吐き気を抑えようとする。どうしてこんな惨めな状況になったのかを頭の中で振り返る。


 会社を辞めてフリーターになったその時の前の事を思い出す。会社に勤めていて頃、自分はシステムエンジニアとして勤めていたが当時の上司とあまり仲が良くなくよく言われたセリフがあった。


――君はいつになったら変わるんだい?学生気分が抜けていないのは社会人失格だよ?


 当時の上司ににやけながら言われたそのセリフは彼の心に深く刺さった。お前の蟠りを知っている。それでもあえて言ってやる。そんな気分になった。

 自分としては頑張っていてもそれはそれ。欲しい物を作ったとしても何かでペケを募らせればアウト。反論すれば当然素行不良扱いされ、自分に非がないと思っていても成績を付けるのは向こうだ。その果てでは彼は会社を辞めるか、それともこのまま立ち位置として悪い場所にいても働き続けるかを突き付けられた。変わるという行いが彼にはいささか厳しかったゆえの末路である。


「変わる行いだとか……思い出しくねえのに」


 変わる行い。それは彼にとって思い出したくなかった。ある人物がいた。いつしかその人物に引っ張られるかのようにつらい時にその過去を思い出す癖があった。


 忘れようとしてかいきなり目也はベッドの上にあったスマートフォンを付けた。バイト先や他にメールが入っていないを確認するが特に何もなかった。そして即座に画面を消し、ため息をついた。


(起きたらとりあえずコンビニに飯を買いに行こう。節約の為の調理は今日はめんどいのでパス。第一あんなのが来たのでやる気がしないし……)


 スマートフォンをベッドのすぐそばの充電器に挿し、目也はゴロリと天井を見ていた。


「……全部壊れちまえばいいのに」






「何でですか?」


「何でも何も今の君には必要ないからだよ」


 とある高校の職員室。そこには目也と教師がいた。


 教師は小太りで短髪の整った黒髪に眼鏡を付けていた。背丈はそこそこあるが目也ほどではなかった。

 その男の顔はどこかぼんやりはしていたもののその目は目也をしっかりと捉え、そして時折目を補足していた。


「この教科取らないと志望している京一工業大学に受験できないんですが」


「何言ってるんだ君は。今の君には京一工業大学なんて到底無理だよ。それに京工大ってね、気持ちはわかるがやめといたほうがいい」


「わかりました。ならとりあえず教科は自分の志望通りに取らせていただきます」


「なにがわかったんだね君は?」


「自分の進路ですから自分で選ぶだけですよ」


 自分の進路表をスッと教師の手から取り出して教師に背を向けて帰ろうとする目也だったが―


「……いい加減にしろ!この馬鹿が!!」


 周囲の視線は机を勢いよく叩くその音に引き寄せられ、中心にいた教師は目也に怒りの表情を見せた。


「何でですか!これは自分の進路表で――」






 ふと目が覚めた。高校時代の嫌な夢を見た。


「……まだアレに追いかけられるのかよ」


 布団に拳を叩きつつ、時刻を確認する。


 時計は午後十時を指していた。どうやら両親が来てから五時間が経過していたようだ。


「……あ」


 ここで気が付く。今日はバイトだと言ったことを両親に言った。それから気になる事が一つあった。


「外にあいつら居たら怒られるよな?」


 充電器に挿したスマートフォンを確認する。二人からの連絡はなかった。


 あの時バイトに行くと嘘をついた。真に受けて玄関前で待っていたらバイトはどうしたとどやされる。理由を付けて怒られるのだけは勘弁したい。そんな些細なことを気にするようには見えないが仮にいたとしたら面倒だ。

 恐る恐る玄関に向かう。玄関のドアの鍵は掛かったままだった。


「あ。U字ロックしたままだった……」


 この家の鍵は母も持っている。だから入ってきてもおかしくはなかったが自分がU字ロックをしていた事実を忘れていた。


「流石にもういない……よな?」


 そっとドアのスコープを除く。玄関の外と周囲には誰もいないの確認する。


 ドアを開いて通路の先の階段を降り、そこから見渡すが父の車はない。


「……はあ」


――何でこんなことになった?


 少し前に仕事を辞めてからずっとこんな調子だった。仕事を辞めたのは会社の人間と上手くかみ合わないという理由。まっとうな収入を得られないのなら実家に帰らされる。それが普通。

 でも実家には帰りたくなかった。あんな奴らがいる家には。


(それにもう一匹いるからなあ。すごく嫌な奴――)


 などと思っているとメッセージがスマホに入ってきた。


「なんだよったく」


 噂のアイツだった。弟の緑波卓明。顔は兄より良く、今は大学生活を満喫している身の若者。


(なんだこれ……車でドライブ行って来たって?こないだも楽しそうに送りやがって。憎いったらありゃしねぇ)


 目也がそう思うのには理由がある。卓明は大学生だが単に入ったのではなく二浪という形での入学だった。目也は浪人することなく入ったが、卓明の場合は二浪する形で入った。


「なにが大学楽しいだ。俺より良い大学は入れたのがそんなにうれしいか。大体お前最初全部落ちたじゃねえか!」


 さらに卓明は兄よりもいい大学に入った。その大学は卓明の志望校よりも偏差値も高く、就職率も良い。二浪ができたのは両親にそれだけ期待や後押しされた結果でもある。


「俺の時は志望校落ちて浪人は認めないだなんだと言われて無理に入ったのに……」


 目也の場合は期待もなにもされていなかった。


――受かったならそこに行きなさい。嫌なら高卒で働きに出ろ!


 母の一声で決まった末路。当然金も地位も持っていない目也の選択は一択だった。


 それからなんとなくだが目也は部屋の中にあった救急箱を開けた。中には絆創膏や消毒液と言った一般的な救急箱に入っているものはなく、代わりに同じ柄のパッケージの箱が複数入っていた。

 箱にはカフェイン剤と書かれいている。複数あるのは単に仕事中に来る眠気を抑えるために昔から使っていたのだが、仕事を辞めた後は特に使う理由もなく残り続けていた。


 「オーバードーズって言ったか確か?」


 カフェイン剤を一定量呑むと死に至る。そんな話をどこかで聞いた気がする。ああ、思い出した。職場の上司だ。俺が何を飲んでいるのかと聞いてきたので答えたらああ、多量に飲むとヤバいやつか。と返してきたのがどこか記憶に残っている。


「あの頃から嫌われていたのか俺は……?というより期待も信頼もされてなかったのか。あいつよりも」


 また思い出したくない事を思い出した。それだけで気が滅入りそうになった。


「いやそれ以前に何でそんなこと思い出した俺?」


 無意識のうちにカフェイン剤の箱を開けていた。それも複数。これから寝ようというのにも関わらずだ。


(まさか――)


 刹那、死を求めている自分の無意識に青ざめて震える。初めて得たその感情は彼を怯えさせるには十分だった。


「……クソッ!」


 乱雑に箱を投げ捨てて布団に寝そべる。叩きつけられた箱の音が響いてから静かになった部屋の中、しばらくして彼の瞳には涙を浮かべ始める。


「なんでだよ!おかしいだろ!俺がこんなに苦労してるのにあのバカ弟は今はゲラゲラ笑ってるってのに!ふざけんな!」


「確かにそうね。そりゃあ妬みどころか僻むわね」


「え?」


 ふと声がした。目也は咄嗟に体を起こし、周りを見ても誰もいない。


(気のせいか?)


 玄関のドアの近くまで歩き、目也が玄関に視線をやったその時だった。


 突然ドアの前に氷のように冷たく青い炎の群れが浮かんだと思えばそれが下から上に登っていき、何かが姿を現す。それはフリルの付いた黒いドレスに身を包み、傘を左手に抱え、右手にトランクケースを引いていた女性だった。長くストレートで綺麗な髪で色は黒、瞳の色も黒いその女性は突如、目也の前に姿を現す。


「うわぁっ!?」


 突如現れたその存在に目也は言葉を失い、後ずさる。


「落ち着いて。別に君を殺そうとしているわけじゃないから、ね?」


 その女性の顔は目也から見て二十代半ばから後半くらいの顔で整ったその二重はこっちを見つめてにこりと笑っていた。手を組みつつも傘をその両手で握っているその女性がどうやって鍵のかかった部屋を抜けたのか?そもそも何が起きたのか目也にはわからなかった。


「えっと……どちら様ですか?」


「私?嫉妬の神よ」


「……はい?」


 しばしの沈黙が流れる。


(嫉妬?妬みとかってやつか)


「メト・メセキ。それが私の名前よ」


 そう言って彼女は持っていた傘がと共に、足元か青空のように綺麗な青い炎が溢れ、それが彼を焼き尽くそうと下から上に燃え移る。蒼火のついた足や腹は消え、それに続いて胸元と頭もめらめらと燃えて、消えた。


「は……ハァ!?」


 目の前で起こった出来事に開いた口が塞がらなくなった。


 嫉妬の神様を名乗った彼は今、俺の前から消えて見せた。神様であることを証明しようとしてイリュージョンを見せたのだろう。驚く俺はその場で立ち尽くし口も、瞼も大きく開き続けていた。


「ああ、大丈夫。これ私の力だから」


 声が後ろからした。振り返ると彼女はまだにっこりとほほ笑んでこちらを見ていた。


「……マジで神様?」


「マジで神様よ」


 未だに神様が来た事実に耐え切れずにいた。


――嫉妬の神が一体俺に何の用なんだ……?


「あの……メト・メセキって神の名前聞いたことないんですが?」


「そう?少なくとも伝承くらいには残ってるほどだと思ってたんだけど」


「その伝承ってのは何て名前です?もしくはどこかの村の言い伝えとか?」


「……ネットで検索すればいいんじゃないかしら?」


「そんなアバウトな……」


 とはいえ神様の正体を知るにはこれがいいだろう。メト・メセキという神様について布団の傍に置いてあったスマートフォンで検索をかける。だが結果は直ぐにわかった。


「検索結果、殆どなにも帰って来ないんですが。あの……」


「あらそう。じゃあ私については未だ謎が多い嫉妬の神ってことで」


「……いやいやいや。そんな神います?」


 この日。目也は神様に出会った。目也にとっては『嫉妬の神』と言うよりかは謎めいた美人の女性にしか見えていなかったがやがて彼には救世主となるただ唯一の存在である。

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