第98話 お狐様

「はぁ……」


 こぼしたため息がややくぐもって耳に返ってくる。それ以外に聞こえてくるのは身体の動きに合わせて揺れる湯舟の水音くらいであり、それを目を閉じ聞いているだけで色々な気持ちに整理がついていく気がする。


 宵呑宮よいのみや家のお屋敷でお風呂に入るのはどれくらいぶりだろうか、ぱっと前回が思い出せないくらいには久しぶりなのは間違いない。逆に初めて来たときは湯舟だけではなく浴室全体が木製で、それも当然のように総ヒノキだというのだから、どこぞの高級旅館なんだとただただ驚いた記憶の方がはっきり覚えているほどだ。


 まずは詳しい状況を確認して……。それから迷惑をかけてしまった人たちに謝罪して……。


 今日だって本来ならばいくつかの打ち合わせが入っていたはずなのに、すべてが後ろ倒しに延期および調整中になってしまっている。週末にはクリスマスミニライブだって控えているのにこうやって呑気に湯舟に浸かっていていいのだろうか。


 それに……この身体の事もある。


 目覚めた時には随分とひどい痛みに顔をしかめたものだが、それもだいぶ緩和されてきている。あれだけ配信で歌い踊ったにも関わらず意識を失うまでは全く疲れを感じなかった反動がすべて痛みとなって返ってきたようなものだ。


 火事場の馬鹿力という訳ではないが、人間リミッターを外せば驚くべき力を出せると聞いたことがあるし魔力によって似たような事が起きていたのだろう。もしかしたらアドレナリンのような効能もあったのかもしれない。それほどにあのときの高揚感と全能感は凄まじいものがあった。


 湯舟から両手を上げなんとはなしに腕に手のひらを這わせる。未だピリッとした痛みは感じるが顔を歪めるほどではなく、なんというかわざと力を込めて痛みを感じたくなってしまうというか……心地よい痛みが癖になる。


 まぁ身も蓋もない言い方をしてしまえば全身筋肉痛状態なのである。


 すでに回復に向かっているであろう身体の問題はさておき、問題は魔力の方……。訓練によって自らの魔力については集中して意識を向ければある程度、量まで把握できるようになっていたのだが……。いまはさして意識せずとも感じることが出来る。


 あれだけの魔力行使を謎の声の助けがあったとはいえ自らが行えたことは未だに信じられないが……。その影響もあってか今はほとんど体内に魔力は残っていない。試しにそのわずかな魔力をかき集めて目の前の水面に対して魔力を行使し、物理干渉を試みるが……。まったく手ごたえがなく体内の魔力はそのままだ。


 どうやら相変わらず私は誰かの手助けなしでは魔力を行使できないらしい。


 それは前々からそうであったし、マリーナから受け取った魔道具たちのおかげもあり魔力行使が独力で出来ない事に不便を感じる事はなかったのだが……。そのせいで意識を失う可能性があるというのであれば話は違ってくる。しかも、あの謎の声の言う事を信じるのであれば一歩間違えれば死んでいた……らしい。さらには周りを巻き込んで云々と言っていたのでより悲惨な形で。


 たしかに、以前受けた講義の内容とは一致するし理屈も筋は通っているようには感じるがそれにしたっていきなりすぎた。配信前は念のためマリーナのチェックを受けたにも関わらずあの事態は引き起こされてしまったのだ。専門家たる彼女ですら予期できなかった爆弾を抱えながら今後の活動を行うなんて、とても非現実的としか考えられない。


 そもそもあの謎の声の正体からして謎であるし、随分と思わせぶりな事を言ってきたがこの年になって二重人格に目覚めたとでも言いたいのであろうか。


「……なんとか言いなさいよ」


 苛立ちにも似た、想像以上に冷たい声が浴室に響きその声の主が自身であることに少し驚く。別に内なる別人格に声をかけるのであれば口に出す必要はなさそうなものだが……、言葉にしなければ我慢できなかったのだ。


 当然、その声に対する返答なんてものは無く、ただただ虚しく水音が返ってくるだけ。それがまたあの偉そうな口調で話しかけてきた彼女にからかわれているようで腹立たしいが、なによりも仮にも助けてくれた存在に対してそう思ってしまう自分が嫌だった。


 せっかくお風呂に入って気持ちが落ち着きかけてたというのに、そんな苛立ちと自己嫌悪によって気分が沈んでいく。行儀が悪いことは百も承知だが、湯舟の中で膝を抱え口元をお湯の中に沈めてぶくぶくと音を立てながら水中に息を吹き込んで水面を揺らす。


 そんな一人遊びに興じていたところで脱衣所の方から物音が聞こえ、てっきりお手伝いさんが着替えを置いていってくれるのだろうと思い大して気にもしていなかったのだが……。ガラッと浴室の扉が開かれたので何事かとそちらに視線を向ける。


「なんや……先客がおると思ったらまおちゃんやんか」

「……っ、甜孤てんこ!?」


 そこに立っていたのはなんら恥じらうことなく浴室に入ってくる宵呑宮甜孤の姿であり。当然お風呂に入りに来たのだからその身には何も纏っていない。相変わらず同性から見ても惚れ惚れしてしまいそうになるモデル並みのプロポーションを誇る身体を隠そうともせず。すたすたと私が浸かる湯舟に向かってきて手桶でお湯をすくいその身体にかける。


「それじゃお隣失礼します~」


 あまりに突然の出来事にフリーズしている私を尻目に、数回お湯を浴びた甜孤はそのまま私の隣に並んで湯舟に浸かる。ちょっとした家族風呂くらいの大きさはあるので手狭ということはないのだが……。それでも温泉宿に来ているならまだしも友人の家で一緒にお風呂に入るなんて事になるなんて思ってもみなかったのだ。


「私上がった方が……」

「まおちゃんもまだ入ったばっかりやろ?甜孤は気にせんから我が家自慢のお風呂堪能したってやー」


 なんとなく気まずくて湯舟から上がろうとするがそんな私を止めるように声を掛けられる。それを振り払ってまで断るのもなんだか変に意識しているようで気が引けるし……というか、入ってきたときは偶然みたいなことを言っていたが、どうして私が入ってからまだそれほど時間が経っていないことを知っていたのだろうか。


「……甜孤、知ってて来たでしょ」

「何のことかわからへんなぁ、ウチ朝風呂派やし~」


 大方目覚めてからお手伝いさんに私が入浴に向かったことを聞いたのだろう。お風呂を勧められた際にすぐ向かえば良かったのだが、スマートフォンを操作していた時間分猶予を与えてしまったらしい。いつもなら適当に誤魔化そうとする甜孤の調子に突っ込みを入れる所だが、今日は何より先に言うべきことと聞かなくてはいけないことがある。


「甜孤、私……」

「おっ、まおちゃん痩せたんやない?前より手足がすらーってしてる気がするわぁ。それにお腹周りもキュッと締まって、な~触ってもええ?」


 そんな私の言葉を遮るように私の身体に視線を向けてそんなことを言ってくる甜孤。たしかに言われてみれば、そんなような気もしてくる。あれだけダンスレッスンをこなしていたのだから多少は身体に変化があってもおかしくはないのだ。


 もっとも、それは以前までの私と比べた時の話であって目の前にいる甜孤に比べるまでもない一般的な体型だろう。強いて言うなら女にしては背が高い方ではあるのだが、それだって彼女のほうが高いし、スタイルだってひとつとして勝てる部分は見当たらない。


「そうかもしれないけど……甜孤に比べたら全然……」

「あちゃーこりゃ重症やねぇ……」


 私の身体に向けていた手を止め拍子抜けしたように引っ込める甜孤。


「重症って……」


 何それ……と言いたいところだが。いつもの私を考えれば確かに重症なのだろう。


「甜孤……、迷惑かけて本当にごめんなさい」

「せやなぁ、ほんま迷惑やわぁ」


 覚悟はしていたのだが自分で言葉にするのと、言われるのではここまで感じ方が違うのかと衝撃を受ける。こういう時にはっきりと言ってくれるのも優しさだとは思うし、甜孤の良い所であると思うのだが思った以上に言葉が胸に刺さる。


「うん……、ごめんなさい」

「本当はな?傷心のまおちゃんなら落とせるやろかって思ってたんやけど」


 ……うん?


「どろっどろに甘やかしてもう甜孤がおらんとあかんようにしてあげよかと思ってたんやけどね?こんな難易度ベリーイージーなまおちゃん攻略しても楽しないわぁ。まおちゃんがそれを望むならやぶさかではないんやけど」


 至極つまらなそうに当初の予定らしいものを口にする甜孤。


「だから、選んでえーよ?このまま甘えてくれれば、ぜーんぶウチがなんとかしたる。そん代わりまおちゃんの心も身体も甜孤のもんや。なんもかも忘れて甜孤のためだけに生きて?」


 こちらを真っすぐに見つめそんな甘い誘惑のような選択肢を提示してくる甜孤。それは決して冗談なんかではなく、私がここで頷けばきっとすべての問題は甜孤が解決してくれるのだろう。


「それは……」


 とても魅力的であると、そう思ってしまった。甜孤の所有物となってすべてを捧げ、そしてどろどろに溶かされるように愛され生きていくのだ。きっと私が望めば彼女は何でも叶えてくれるだろう。黒惟まおとしての活動だって魔王云々関係なく続けていくことだって……。


 ふふっと切れ長の目を更に細めて私に笑いかけてくる甜孤、その表情はまるで狐のようで……。そこでようやく思い出す、彼女は……天孤てんこであったのだと。


「化け狐……」

「あはっ……やっぱりまおちゃんはそうでなくっちゃなぁ」


 いつの間にか頬に添えられていた手に抗うようにゆっくりと首を横に振り、振り絞るように言葉を紡ぐ。そんな私を見て彼女は心底楽し気にくつくつと笑いながら寄せていた身体を離す。


「わるーい狐に騙されるところやったねぇ?」


 いつもの狐サインを指で作った天孤は、その重なった指先をちょんと私の唇に触れさせる。意地悪くからかうような笑みを浮かべている彼女はもうすっかりいつもの甜狐だ。


「でもそんな悪くて優しい狐に化かされるのも悪くないかもって思っちゃったけどね、魔王ラスボスとしては簡単に攻略される訳にはいかないから」


 せめてもの仕返しだと、私も指を狐の形にして狐のままだった彼女の指先と軽く触れ合わせる。


「……っ、狐をからかったら後が怖いんやからね?」

「そのときはお稲荷さんでも持って謝りにいくよ」

「安直やなぁ……、そしたら身体の洗いっこで手ぇ打ったる」

「そんな子供でもあるまいし……」

「大人の洗いっこでも甜狐はかまへんよー?」

「甜狐……それはちょっとおやじくさい」


 まぁたまには甜狐のスキンシップに付き合うのもいいだろう。

 こんなでも私の大切な友人であり……優しいお狐様なのだ。

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