第97話 知らない天井
「知らない天井だ……」
目が覚めてまっさきに口をついて出たのは、そんなどこかで聞いたような散々使い回されたようなセリフであった。夢を見る余地すらないくらいに深い眠りだったのだろう、二度三度と何度も再び眠ってしまいたくなるような気怠さもなく、目覚めはすっきりしていてなんだか背負っていた重荷から解放されたような新しい自分に生まれ変わったような気さえしてしまう程の清々しい朝だった。
……といっても室内は明かりがついている訳でもないのに明るいため、季節を考えればとっくに昼間になっていてもおかしくない雰囲気ではあるのだが。
見上げた天井は綺麗な木目が並んでいて……、たしかあの模様にも名前があったように彼女から教わった記憶があるのだが生憎とそこまでは思い出せない。それでも少しの隙間をあけて天井板が貼られているのは目透かし天井と呼ばれるものだったはずだ。
そして記憶に間違いがなければ使用されているのはヒノキだったはずで、すぅっと息を吸ってみれば和室特有の木材の香りがするような……。
と、そこまで考えたところで悪あがきのような現実逃避もネタが切れてきてしまった。なまじ目覚めが良すぎたせいで頭の回転はすっかり平常通り。冷静に現在の状況へと思いを巡らせてしまっている自身の思考は止められない。
まずもって"知らない天井"ではないのだ。つい、オタク心がくすぐられ一度くらいは言ってみたかったセリフにランクインするそれを口にしてしまったがそれは誤りなのである。たしかに、随分と久しぶりな気もするが私はこの天井を知っている。
まさかいつの間にか高級旅館に連れてこられた訳もあるまいし、記憶が途切れる直前まで共に居た人物からあたりをつければここは間違いなく
すると当然、次にはどうして私は甜孤のお屋敷で寝ていたのだろうかという疑問が生まれてくる。それだって少し考えてみれば大体の事情はなんとなく想像は付く、お披露目配信中に意識を失ってしまった私を介抱するため甜孤とリリスが運び込んでくれたのであろう。
まぁ普通に考えれば急に倒れてしまったのだから私の行先は病院が正しいのかもしれないが、あの時起きた事を考えれば病院でどうにかなるようなものではないだろうし、少なくともあの場にはその手の出来事について対応できる人間……、いや魔族が三人は居たのだ。
幸いなことに頭部に関してはどこかに打ったような痛みは皆無であるし、後始末に追われるマリーナのもと事務所で休ませるよりは旧知の仲であり魔族でもある二人が名乗り出てくれたので任せることにしたと考えるのが自然であろう。
そう……配信、私の……黒惟まお3Dお披露目配信中に私は意識を失ってしまったのだ。
ようやくそこまで記憶が至って、大きく息を吸い深いため息を漏らす。吐き出された息は震え、ひくひくと喉が引きつっているのを自分でも感じる。じーんと込み上げてくる涙を抑えることは出来ず、流れた雫の跡が空気に触れそこだけが冷たく感じる。
「どう、して……私……」
嗚咽混じりになんとか声に出した言葉は空虚なまでに広い室内へと消え去っていき。自らの不甲斐なさと起きてしまった事の理不尽さ、悲しみと怒りの感情がないまぜになって今にも暴れだしたくなる。
いっそ気が済むまで暴れることが出来れば良かったのだが、身体を動かそうとするとズキズキと鈍い痛みが伝わってきてどうにもそんな気分にはなれないのだ。
たしか記憶が正しければ甜孤とリリスと共に歌い終わった後に意識を失ったはずだ。あのあとはとっておきのサプライズゲストである
こればかりは収録済みで本当に良かったと思う。もしも、アカリちゃんをサプライズゲストとして呼んでおいて私が意識を失ってしまったせいで出演自体取り消しになってしまっていたら……。そんなこと考えるだけでも恐ろしい。
その時はもう……、私は私を許すことはできなかっただろう。
そのあとの告知事項も音声での収録だったため何とかなったはずだ。問題はそのあと……、告知後のフリートークと最後の歌……。肝心の私が意識を失ってしまったのだからそこはどうしようもない。告知が終わった時点で無理やりにでも配信を終わらせる他なかっただろうが、それだとどうしても不自然な幕引きにならざるを得ない。
だから、あの後どうなったのか……。知るのが怖いのだ。
我が身に起きた事も、あの不思議な体験も……あの声の持ち主についても考えなければいけないのであろうが、今はとにかく配信がどのような形で終わったのか、リスナーたちはどんな反応をしたのか……そればかりが頭の中を占めている。
何が、無事配信を終えることは願いの内に入らないだ。今となってはそれこそが唯一の願いと言っていいのだから、あの謎の声の主に悪態をつきたくもなる。しかし、こんな事態を起こしたのも無意識下で自覚がなくとも私自身に原因があるようなことを彼女は言っていたのでそれを信じるならば自業自得である。
……
「黒惟さん、お目覚めですか?入ってもよろしいですか?」
残酷な現実から目を背けるように布団の中でうずくまり散々漏らした嗚咽と涙も収まってきた頃に、ふすまの外から掛けられた声にびくりと反応する。そのタイミングの良さから考えるに恐らくは少し前から声を掛ける機会を伺っていたのであろう。
「はい……」
「失礼します」
そう言ってゆっくりと室内に入ってきたのは見覚えのある少しふくよかな女性であり、この屋敷の離れに住み長年勤めているお手伝いさんの一人だ。
「突然押しかけてしまってすいません……、あとこんな格好で……」
「昨晩は大変だったと聞いていますから、お気になさらないでください」
布団の中から痛みに耐えながらなんとか上半身を起こしたところで、自身が浴衣のような着物に身を包んでいることに今更ながら気が付く。意識を失った時はキャプチャースーツ姿であったのでそのまま連れてくる訳にもいかなかったはずだし……、何度か着替えさせてくれたのだろう。
「それで……甜孤は……」
「まだお休みかと思います。随分遅くまで黒惟さんの傍に居たようでしたから。それと夜闇さんも一緒にいらしたのですが、二時間ほど前にお仕事に向かわれました」
「そうですか……」
二人にも当然かなりの心配をかけてしまっただろう。そのうえ、年末の忙しい時期に面倒までかけて……感謝よりも申し訳なさのほうが先に立ってしまう。
「食事の用意もできていますが……、先にお風呂はいかがですか?」
たしかにこのあと甜孤に顔を見せる事を考えれば、今の私の顔は先ほどまで泣いていたこともあってひどいものなのだろう。なにより、3D配信を行ったあとからは当然お風呂には入れていないので入っておきたいという気持ちもある。
「お言葉に甘えさせてもらおうかな……」
「では準備はできているのでお着替えは後程お持ちします」
「……ありがとうございます」
私の言葉を受け優しい微笑みを浮かべて退室していく彼女を見送り、私もようやく布団から抜け出す。相変わらず身体のいたるところが痛むがそんなことを気にしていても仕方がない。
ちらりと枕元に置いてある鞄へと目を向けその中からスマートフォンを取り出す。覚悟を決めて電源ボタンを一度押してみるが画面がつくことなく何の反応も返ってこない。少しだけ肩透かしをくらった気分で鞄からモバイルバッテリーを取り出し接続、覚悟が揺らぐ前に再び電源ボタンを長押し……。
今度こそ画面がついたと思えば、電源が落ちていた間に送られてきたのであろう大量の通知の表示とバイブレーションがいつまでたっても鳴りやまない。これではたしかに電源も落ちてしまうだろうなと思いつつ、なんとか大量の通知の中からメッセージアプリを立ち上げいくつかに目を通していく。
その大体はどれも活動を通じて知り合ったVtuberであったりクリエイターたちからの祝福と配信の感想らしくあたたかい言葉が溢れている。その中には意識を失ってしまった私を心配するようなメッセージはひとつもなかったので、配信ではうまく隠すことができたのだと思う。
そしてこの顛末について一番詳しいであろうマリーナのメッセージを見つけ、震える指で詳細を開く。
その中身は、私への謝罪と甜孤たちに私の事を任せた事とまずはゆっくり休養を取って欲しい旨が簡潔に記されているのみであった。おそらく気を遣ってくれているのであろうが、もう少し今後の予定であったり事の経緯についてが記されているものだと思っていたので続きが無いかとスクロールしてしまった程だ。そしてもう一人、リーゼからのメッセージにしても私の身を気遣うものでそれ以上の言及はない。
ともあれ、色々なメッセージを見る限り配信画面に意識を失った黒惟まおが映るといった最悪の事態は少なくとも避けられたようであるし。なんとか配信としての体裁は保てていたようで少しだけ安心できた。うまくつなげてくれたであろうスタッフたちには感謝してもしきれない。
あとは実際にどのような形で映像が残っているか……。それは配信のアーカイブを見れば一目瞭然なのだろうが、どうしてもそれを確認する勇気が出てこない。
なので、とりあえずはマリーナとリーゼ、そして仕事に出ていってしまったリリス向けに、心配かけた事への謝罪と目覚めて身体は何ともないと一報を入れておく。すると三人が三人とも私が入力し終わった直後にメッセージを返してきてくれたので、改めてとても心配をかけてしまっていたのだと反省する他ない。
配信アーカイブの確認はお風呂に入ってから……。
準備は出来ているということだったし、いつまでもここでぐずぐずしていても埒が明かない。せっかくの御厚意なのだから今はそれをありがたく享受し、その上で私が意識を失った後の詳しい状況を甜孤から教えてもらうことにしよう。
今後の事を考えるのはそれからだ。
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