第8話
ザー
海の塩水が砂浜と擦り合う音がする。
生ぬるい風が鼻から口に伝ってきて、塩からい味が口の中に広がる。
チラリと左に目をやると、だぼっとした白いTシャツにジャージ素材の半ズボンを着た少年が嬉しそうに走り回っているのが見える。
トキは海に着くなり、スニーカーと靴下を脱ぎ捨てて岸の方へ一人走っていった。
自転車を漕いできた私は、呆れた顔で息を切らしながら岸付近の石段に腰を下ろした。
汗ばんだせいで服が体に張り付くが、その間を風が通り抜けてまた隙間をつくる。
海は嫌いだった。
特に人間が占領し、元々彼らの領地であったと信じて疑わない様子で遊ぶ姿を見ると、なぜか申し訳ない気持ちになる。世界の大部分は海であり、私たちがいる場所などその中のごく一部である。それにも関わらず、海の存在を認識できる程度の知能があるだけで、さぞ自分達のものにしてやったぞ、と考える人間。そして何の自覚もなしに「遊ぼうぜ」と誘いにくる人。そんな奴らに一度、自然に、世界に、謝って欲しいと思ってしまう。
しかし、夜の世界は海ですら全く別のもののように見せる。月明かりが照らす海水は、昼間の透き通るような淡青から、吸い込まれそうなほど深みのあるコバルトブルーに変わっていた。
砂浜は、黒で塗りつぶされている。まるで、その場にいるすべての生き物を引き立てるような暗色である。その上にポツリと、対照的な色のTシャツを着た少年が立っている。
私は立ち上がって、少年の方に向かった。
トキは近づいてくる私に気づくなり、両腕を広げて宙で振り回す。手を振っているつもりだろうが、あまりにも誇張しすぎだ。ぷっと一人で笑いながら、私も両腕で振り返す。
「何してるのさ。早く遊ぼうぜ」
私はニヤリと笑ってトキを思いっきり後ろに突き飛ばす。
よろけて後ろに動かした足が、海にドボンと入る。
「何すんだ、うわ、つめた。でも気持ちー」
トキは咄嗟に急いで足を上げようとしたが、思いが変わってそのままもう片方の足も海水に突っ込んだ。
ドボン
あははは
思わず笑い声が口から溢れ出る。
空を見上げると、住宅街の公園で見た時よりもずっとたくさんの星が散らばっていた。
ここまでくるとグロテスクというよりは、綺麗なのかもな______
バシャン
腰の辺りに冷たい何かがあたり、一瞬身体中が震える。
慌てて自分の体に目を落とすと、着ていたTシャツに大きなシミが付いている。
そして目の前では水に膝まで浸かったトキがニヤつきながらこちらをみている。
「うわ、つっっめた。やったなオマエ。どうしてくれんだよ」
「ことちゃんが先ですけどー?」
「…こいつ」
両足を思いっきり水に突っ込む。海水が私の足を受け入れる。
足が一気に冷えるが、確かにこれは気持ちがいい。
もたついた状態でトキの方まで行き、思いっきり上から覆いかぶさる。
「ちょ、」
私より身長が小さいトキは、抵抗する暇もなく水の中に倒れ込んでいく。
ザバン
「どーだよ、参ったか」
頭まで濡れた私は、笑いながら起き上がって水に沈んだトキに向かって叫ぶ。
「…あれ」
しかし、トキの返事はない、どころかいくら待っても水の中から出てこなかった。
一瞬背筋にヒヤリとした感触が走り、急いで水の中に入ろうとしたその時_____
バシャ
「うわっ」
トキが笑いながら水の中から顔を出して、右手を突き出した。
「びっくりしたあ。溺れたかと…って何それ」
「カニ!」
トキの右手には、しっかりと掴まれた茶色っぽい小さなカニがいた。
「わっまじじゃん。初めてみた私」
「本当にいるんだね、ウミに。来てよかったあ」
トキのバカ丸出しの声を聞くと、お腹の底からじわじわと何かが込み上げてくるのを感じた。
「あっはっはっはっは」
「ん、どうした?」
「はっはっはっはっは」
笑いが止まらなかった。何が面白いかわからないが。いや、何が面白いかわからないからこそ笑っていたような気がする。よくわかんないや。
相手が友達だからではなく、場所が学校だからでもなく、時間が放課後だからでもない。ただ、目の前の出来事がおかしいと感じられるから笑う。そして、私は何の躊躇もなく、思いのままに笑い転げた。
「トキってほんとにばっかだなあ」
たっぷり笑った後に少し涙目になった目を擦りながら言う。しかしトキは何も言わなかった。私の後ろの方を見て固まっていた。
「…トキ?どうしたの?」
「後ろ、見て。人がいる」
こんな時間に、海岸に、人?誰だろう。
その"誰か”に一切目を逸らさないトキに違和感を感じながら、後ろを振り返ると___
そこには彩葉がいた______
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