往・生
秋風が吹きこむ。
あっという間に季節は秋になった。
雨の日が続く梅雨と、暑い暑い夏は、いつの間にか過去になっていた。
「こんにちは」
あの日以降彼女に変わりはなく、挨拶をする関係だけが続いている。
「こんにちは」
一歩的であるのに、双方向でもあるやり取りにももうすっかり慣れた。
私は変わらず、彼女と、彼女がいる空を眺めながらご飯を食べる。
彼女にご飯を強張られたことも、そういえばあったとふいに思い出した。
気づけばもう、あれから半年が経っている。
「ねえ、あなた。お友達とはもうすっかり仲が良いのでしょう? どうしていつまで経ってもここで食べるの?」
噂をすれば何とやらだろうか。いつぞやのことを話題に、話しかけられた。
「あはは。そうですね。仲が良いとも言えますし、悪いとも言えない。微妙な関係を続けてますよ」
まったく、人付き合いとは困ったものだ。
心の距離が遠ければ嫌われ、近すぎても気味悪がられる。そういう、誰にも見えない境界線を見極めるのが苦手な私は、特別親しいと言えるひとを未だに作れていない。
「まあ。難儀な子ね。だから毎日ここに来るの? こんな何もない所でぼーっとしてるのは虚しいだけでしょうに」
「いえ。そうでもないですよ。静かなのが一番です。それに、あなたがいるじゃないですか。ほんと、いい場所を見つけたものだと思ってますよ?」
「あら、そう。嬉しいことを言ってくれるのね」
それっきり、言葉は続かなかった。
彼女がこちらを見ることもない。
互いが立てる一切の音がなくても、空気が息苦しいと感じることはなくて不思議だった。
私が立ち上がるまで、彼女はゆっくりと流れる雲を見ていたようだった。
「さようなら」
こちらを向いた彼女が言う。
「では、また」
「明日は来ちゃだめよ。いい子は言うことを聞いてちょうだい」
彼女からのお願いに一瞬、足が止まる。
「わかりました」
頷かないわけにはいかなかった。
✜
学校の中がざわめく。
どこかから始まった少しのどよめきが波のように広がり、ざわざわと敷地全体を揺らしているみたいだった。
噂ほど、伝播するのが早いものはない。
「ねえ、今さっき誰か死んだらしいよ」
後ろの席の子が、その隣の子に言う。
「え、マジ。怖いんだけど」
「ホント。だって隣のクラスの子が言ってた。それにさ。まだ先生が来ないってことは、何かあったので確定でしょ」
「ウソ。明日から人死にが出たところで勉強しなきゃいけないの? フツーにイヤなんだけど」
野次馬精神と興味の無さがないまぜになった口調で、二人は話す。
他のクラスメイトも大方、同じような内容を言っているようだった。
可哀想に。
これが私の意見だ。
だってそうだろう。見たことも関わったこともない全くの他人の死など所詮、私には微塵も関係ない他人事なのだ。
だから私は私が向けることのできる最大の無関心を以て、他人の死に可哀想と云う感想を抱く。
もういない人間に感情を抱けるほど、私はできた人間ではないのだ。
誰しもが、死ぬには理由がいる。
それが自然的なものなのか、それとも人為的なものなのかはわからないが、ひとは明確な何かしらの干渉や意思によって死に至る。
そこに何も事情を知らないひとが想いを寄せるなど、無粋以外の何ものでもないだろう。
聞くともなしに聞いていたクラスメイトの噂話が、ピタリと止んだ。
どうやら先生が来たようだ。
「おまたせしました。皆さんには悪いですが、今日はここで帰宅とさせてもらうことになりました。各自解散してよろしい」
しん、と静まっていた空気が一気に動き出した。
このまま解散するということは、即ちもう帰れということだ。
いけない。彼女の所へ行けなくなってしまう。
そう考えたところで、はたと思い至った。
今日は来ないでと言われたのだった。
まさか、彼女はこれを見越していた、と......?
「相原さん、ちょっと残ってもらってもいい? 伝えたいことがあるのだけど」
いくら彼女に予言されていたとはいえ、まさか自分が呼ばれるなんてつゆにも思わなかった。
「はい。わかりました」
私の適当な予想だと、これから先生が話すことは彼女と関係があることになってしまう。
もしかして、と思った。
生徒が教室から出ていくと、先生は無理矢理作ったような笑顔で私に話しかけた。
「別の場所に行きましょうか」
✜
私が座ったことを確認して、先生は言った。
「もう噂として聞いたとは思うのだけど、生徒が自殺したってのは本当。なんで私の言うのかって顔してるね。だけど、相原さん、あなたに大いに関わることなの。心して聞いてちょうだい。言いにくいことなのだけど......あのね、あなたが屋上で会っていた先輩。いるでしょう?自殺したのはあの子。あの子ね、いつもいた屋上から飛び降りたみたい。それでなんだけど、あの子から相原さん、あなたに宛てた手紙がね、遺されていたの。それが、これ。今読んでしまいなさい。時間がかかってもいいから」
先生から手渡されたのは、白い封筒だった。
表には、私の恩人へと書かれていて、中には一枚の便箋が入っていた。
『私の恩人へ
あなたのおかげで私はほんの少しだけ楽しい時間がありました。ありがとう。
本当なら、私は梅雨が来る前に死のうと思っていました。死ぬならクラスメイトがそれぞれのことを詳しく知るよりも先がいいと思っていたからです。だけど、そんな中で出会ったのがあなたです。初めてあなたが屋上に来たとき、正直言うと嬉しくなかったです。なぜならあの場所は二年間、私だけの空間だったからです。そこにやって来たのがあなたというわけです。でも、あなたは私に対して何もしようとしませんでした。それがどんなにありがたかったのか、あなたにはきっとわからないでしょう。あなたに出会ったことがきっかけで、私はもう少しの間だけ、生きてみようと思えました。
あの日はご飯をありがとう。今からちょうど半年前のことでしょうか。私にご飯を分け与えてくれたことがありましたね。あなたにとってはどうでもいいことかもしれません。ですが私にとってはあなたに出会えたことの次くらいに、いっとう大切な出来事です。
これを書いているのは、昨日、あなたと別れてすぐのことです。ズルズルと引きずってきた今日までの生を、断ち切ることへの決心がようやく付きました。
あなたと会えて本当によかった。短い間だったけど、今までありがとう。あなたはちゃんと長生きしてちょうだい。
しがない屋上の人より』
短いものだった。
それは私と彼女の関係性を表しているようでも、彼女と共に過ごした時間を表しているようでもあった。
彼女は死んだのだ、と理解した。
もう、彼女と同じ空を眺めることもできないし、彼女と挨拶を交わすこともできない。
こんなに後悔の残る別れは初めてだった。
もっと話をしたかった。もっと一緒にいたかった。もっと。もっと。もっと。
もっと色々なことをしたかった。
後悔しても、もう遅い。
彼女は、この世から失われてしまった。
例え死ぬ、と聞かされても、私はきっと彼女との付き合い方を変えなかっただろう。
それほどまでにあの、馬鹿みたいに時間がゆっくり過ぎる屋上での時間が、私にとって救いだった。
「これ、屋上の鍵よ。あなたに貸してあげる。何もできない私からの餞別。私もあそこには思い出があるから……他の先生には内緒にして。卒業する頃には返してちょうだいね」
いつでも帰っていいわと言い置いて、先生は部屋を去った。
いつまでもここにいるわけにはいかないと思い、受け取ったばかりの鍵をポケットに突っ込み、手紙をノロノロとカバンにしまい込む。
でもまだ、帰る気にはなれなかった。
✜
ガチャリと鍵を回して、ドアを開けた。
初めてここに来たときに鍵が空いていたことに、そういえば驚いたのだったと思い出した。
「こんにちは」
繰り返された挨拶も、返答がなければもう、なんの価値も持たない音に過ぎない。
昨日まで何度も座った位置に座ろうとして、やめた。
彼女がいないのなら、座った位置から見える景色はつまらない風景画になる。
迷った末に、彼女がいつも座っていた柵の上を選んだ。
いつかの彼女のようにひらりと飛ぶと、下から見れば高いその柵は意外に軽々と乗ることができた。
今までは見ることがなかった高所からの景色は、とっても鮮やかだった。
彼女が本当にここから飛んだのなら、最期に見えた景色はさぞ綺麗だったのだろう。
彼女がいないのなら、ここで過ごす意味はあまりない。
微妙な関係といえども、もう友達だっているし、もらった鍵はいつかは返さなければいけないものだ。
だけど私は、彼女と過ごした仮初の時間を、まだ忘れられそうになかった。
ああ、彼女と一緒に......。
自分のほんとうの思いには、気づかなかったことにしよう。
それが現世に生きる私への戒めになるだろうから。
「さようなら。あなたに会えてよかったです」
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