第15話 吸血鬼、幽霊を見る

 都の北門から出るとすぐ大きな橋である。

 橋の下は都内部に繋がる水路であり、並の小川では比にならない太さを持って悠々と水が流れている。

 舟がその流れに沿って都から出す荷物を運び、外の町村へ渡っていく。その逆も然り。都の血脈とも言うべき場所であった。

 橋の上を陽ノ華は白梅号と共に歩いていた。門を背にし、都の喧騒を今一度振り返る。長居していたわけではないが、どことない寂しさがあった。


「ぼやぼやするな、日が暮れるぞ」


 白梅の後ろから声がする。繋がれた棺桶に座るドラガからあった。その顔には隠すつもりのない不満がありありと現れている。

 棺桶の中には旅の荷物や食料が詰められていた。天狗討伐後に一度都に戻るべしと指令はあったものの、どのくらい時間がかかるかは予想ができない。周到にすべきと意気込んだ結果、白梅にも乗り切らない程の荷物や食料、霊力を持って動かす道具などが山になり、一部は棺桶の中に入れざるを得なかった。

 勿論、棺桶の持ち主であるドラガはずっと渋っていた。結局根負けしてひたすら愚痴を呟いていたのであった。


「日が暮れる前に町に着ければいいけれど」


 ドラガの小言を無視して、陽ノ華は白梅を撫でた。

 本当ならば白梅も一度木花咲耶院で休ませてあげたい。しかし不運にもそれは叶わなかった。それでも五郎は馬宿にこまめに顔を出して世話してくれていたという。

 そのおかげか白梅は思ったより疲れてはいないようで、最後の最後まで五郎への感謝が尽きなかった。

 陽ノ華は周囲をぐるりと見る。北門からの道は都のざわめきを移したように活気があった。それほど宇賀田町が人に溢れた町なのだろう。上り下り問わず止まる脚がほとんど無かった。

 宇賀田町は北門からの橋を抜けると小高い山の裾野の縁に沿って進むと見えてくると聞いていた。その距離は短くはないが、人通りの多さ故に旅籠や茶屋の数は多い。

 ここまで多いと迷ったり別の道に進む懸念は然程気にしなくてもいいのかもしれない。しかし今は別の点で肝を冷やしながら出来るだけ日陰の道を歩いていた。


「ちょっとこれ被ってて」


 緩やかに曲がる道、おそらく警吏の視界が届かない場所まで来ると手拭をドラガの頭に被せてほっかむりをさせた。文句を言いたげな顔は無視をした。

 人が多すぎると、そのうち誰かがドラガの異様さに気付いて面倒を起こしかねない。桜花仙のもとへ行く道中では運良く一回の説明で事足りたが、この道中では説明するだけで日が暮れるだろう。

 ゆえに棺桶に入れることもできない今では人の真似をしてもらう他ない。運良く身体の特徴は人と変わらないことを利用して髪だけ隠すこととした。

 それは功を奏したのか、誰も声をかけることはなかった。

 しばらくして曲がりくねった道を過ぎる頃だった。やけに人がどよめいている。


「何があったんだろう」


 棺桶に括られた荷物の隙間を縫ってつむじが陽ノ華の肩へ飛び乗った。つむじは立ち上がり、遠くを見ている。


「みんな止まってるね。看板を見てるみたい」


 立てられた看板を人混みは熱心に見ていた。見ているだけではなく、各々がため息をついたり不安そうな顔をしている。

 加えて警吏が目を光らせ、同じ場所に留まるなと声をかけている。多くの人間が先の道へ行かないように整理しているようだった。

 群衆の最後列まで来ると、陽ノ華はすぐ目の前にいた旅人の男に声をかけた。


「なんでもこの先の道で崖崩れがあったらしい。野盗が旅人を襲って馬ごと崖から落ちたんじゃないか、とさ。滑ったり、馬が落ちるかもしれないなんて……宇賀田までの道は人が少なくないってのに、怖いったらありゃしない」

「斬りかかったって、襲われた人は無事なんですか!?」

「そんなの俺にゃあ分からないよう。でも何日も前だ。生きている奴はとっくに助け出されているだろうよ」


 人混みはゆるゆると動きだす。陽ノ華の後ろにはいつのまにか列が出来ており、牛歩のまま看板の前まで来た。人の流れは止まり面子を変えて人混みが新たに生まれた。

 看板の内容はほぼ男の言うとおりであった。加えて仔細も書かれていた。

 内容は以下である。

 去る五日前の夜、宇賀田町から都へと移動していた織物問屋の石川屋主人と娘、奉公人らが野盗に襲われた。馬ごと切り払われ、荷積みも根こそぎ奪われた。石川屋の人々は皆、無惨に殺されて崖下に投げ込まれていたという。だが襲いかかった場所が悪かったのか、崖が崩れ大岩が振り地面が抉れて野盗の何人かも崖下へ落ちた。

 陽ノ華はここまで読んで警吏の意味を察した。崖崩れへの注意喚起と共に野盗が再度襲って来ないかの見張りにもなっているのだ。書き振りを見るに、崖下へ落ちたのは何人かいる野盗のうちの一部でしかなく、全員が死んだ訳でない。加えておそらくお縄についていない。

 宇賀田町は大きな町である。そんな所と都を繋ぐ道はいわば人間の大きな脈だ。そんなところで野盗騒ぎがあれば商人は怯えてそんな道を通りたくないと言い出すだろう。それは物流の滞りと同義であり、宇賀田町の商人も都の商人、ひいては朝廷の悩みになる。

 道の崩れについては大工らに通告済みとも書いてある。つまり時間をかければ道は直ってくれるものだとしても、野盗がいつ襲ってくるとも限らない恐怖はまだ付き纏うこととなる。

 陽ノ華たちを含めた人の群れが恐る恐る一方向に向けて動き出した。


「こんな進み具合じゃあ日が暮れるぞ」

「分かってるわよ。でもどうしようもないじゃない」


 恐怖を体現したかのように人の動きはゆっくりであった。警吏の声かけにより、崖崩れの起きた場所は大人数で渡らないように擦り足忍び足で進まざるをえない状況である。

 ドラガの言う通り、日は降りかけていた。この調子では宇賀田町どころか、道中の茶屋か旅籠にも着けるか怪しい。

 かといって夜道を歩きたくもない。妖怪や野盗はドラガが追い払えるとしても、夜の山道は危険しかない。


「崖が見えてきたな。ん?」


 しばらくすると野盗が襲ったという崩れた崖らしき場所まで来ていた。そう分かったのは警吏が立っていたからである。前を通ろうとする者に声をかけ、足元に気をつけて人が少なくなると進むように促していた。

 ドラガは白梅を引いた陽ノ華を追い越し、ずんずんと前を歩いていた。せっかちなのか何人か他の旅人を追い越そうするのを警吏に諌められている。

 ドラガの視線の先には一人の男がいた。崖に向けて手を合わせ、何かをぶつぶつと呟いている。

 皺が刻まれて草臥れた顔であった。身なりは悪くなく着ている服も上等そうなのに、やつれて目が窪み、何日も悩み続けたような苦悶が身体中から湧き出ている。

 背負った風呂敷が進路を塞いでいるため、他の旅人は迷惑そうにしながら脇を通っている。警吏も声をかけているが、聞こえている素振りを見せない。男の異様な悲壮さに誰も何も言えず体の向きを変えて横を通り抜けていった。


「おい、爺。邪魔だぞ」


 だが人の気持ちを知り得ないドラガはずい、と男の真後ろに来てそう言い放った。

 それでも男は崖に向けて手を合わせるのを止めない。固く瞑った目からは涙が一筋流れていた。


「亀吉さん……お鶴嬢さん……なんておいたわしや……」

「おい!」

「ん、え?こ、これは申し訳っ」


 背後から大声を出されて男は正気に戻ったようだった。慌てて振り向き謝罪を述べようとする。

 だが男の踏み締めていた土が文字通り足を引っ張った。

 音も無く足元の土が滑り、男の身体が激しく揺らいだ。崖下へ上半身がぐらりと傾く。おぼつかない足が虚空へ踊る。

 男は自身に何が起きているのか理解が追いついていなかった。口にしかけた言葉がぶつ切りとなり、呆気に取られた顔になって底も見えぬ崖下へ吸い込まれていく。

 決死の抵抗として伸ばした手も誰にも掴まれることなく落ちていく。

 ように見えた。


「ぼけっとするな爺!」


 がしりとその手を掴んだのはドラガであった。

 ドラガは片手を崖淵に掛け、壁の僅かな凸凹に脚をかけて、放たれた方の手で男の片手を捉えている。

 ドラガは牙を剥き出して叫び、呆けた男に喝を入れた。


「ひ、ひぃ……!」


 ドラガの踏み締めた壁からぱらりと小石が跳ね、下へと落ちていく。かつん、こつんと当たり、遂には音も届かぬ奥深くへ落ちたことを見送ると、男の背筋に冷たいものが走った。

 黒くぽっかりと口を開け、歯のように無数に並ぶ森の樹々がその身を丸ごと飲み込む、そんな想像は難くない。風が呼吸のように吹き下ろし益々化け物のように見えていく。

 無駄な抵抗だと分かっていても男はもがくように足をばたばたとさせ声にならない悲鳴を上げ続けていた。


「おいやめろ!暴れるんじゃねぇ!」

「おじいさん!落ち着いてください!」


 もがく男に轢きづられて爪を立てたドラガの手がもっと深く土に跡を付けていた。力を込めすぎて血管や筋が浮き上がっている。

 白梅を止まらせて陽ノ華も崖へ駆け寄った。しかし腕一本で支えているこの状況をひっくり返せるほど妙案はすぐ思いつかず、声をかける事が精一杯だった。

 ドラガは歯を食い縛り、歯の隙間から荒い息をあげている。声を出さないことで集中出来ているようで、手繰り寄せるように崖を掴んだ手が指一本ずつ進んでいた。

 しかし先に音を上げたのは男であった。

 筋だらけの細腕がぶるぶると震え、掴む力が急激に弱くなる。掌から滑り落ちる男の手を慌ててドラガは掴んだ。


「お若い方!どうか手を離してください。このままでは貴方も……」

「それを降ろせ!」

「は……?」

「背負ってる物を落とせ!死にたくなければ!」


 噛み付く勢いでドラガは叫んだ。

 その勢いに気圧され男は一瞬怯えたような表情になる。だがドラガの発言を理解したようで風呂敷を持っていた手を慌てて動かした。

 途端、結び目は解け風呂敷は音も無く崖下へ落ちていった。


「引っ張るぞ!」


 ドラガは予想より軽くなった男の重さに一瞬驚くも、腕に一層の力を込めた。爪が今まで以上に伸びたような感覚に襲われ、土を抉り取る勢いで掌に全神経を注ぐ。

 壁に突き刺していた脚を跳び上がる要領で思い切り蹴り上げ、同時に男を掴んでいた手を身体の方に寄せる。

 破裂したような音と共にドラガと男が飛んでくるのを陽ノ華含め多くの旅人が目にしていた。


「うわっ!」

「うげっ……」

「だ、大丈夫ですか!?」


 土埃と共に崖上に引き上げられた二人に陽ノ華は近寄った。

 庇ってくれたのか、ドラガの上に男が乗り上がるようになっていた。男はすぐに状況が掴めなかったようだが、陽ノ華の問いに頷くと慌ててドラガの上から降りた。


「本当に、ありがとうございます……!まさか生きているなんてなんとお礼を申したらいいか。お若い方、貴方は命の恩人でございます」

「げほっ……。そうだ、助けてやったんだから敬え!うぇっほ、ごほっ」

「ご無事そうで何よりです。とにかくここはまだ危ないようですし、離れましょう」


 平身低頭謝り続ける男と咽せて息を乱すドラガを見て、陽ノ華も胸を撫で下ろし、二人を崖の向こうへと導く。

 大した怪我もないのは本当に幸いだ。ドラガも見る限りでは外傷は無い。

 警吏を含めた旅人らも瞬く間に起こった事象に息を止めて見守っていたようであり、顛末に安心して大きく息を吐く。そしてまた、ゆっくりと人のざわめきが戻っていった。

 その中でドラガは荷物に埋もれる様に倒れ込むと自分の爪をじぃと見つめていた。


 しばらく歩いた頃、運良くある旅籠に行き当たると助けた男が礼をしたいと言われて陽ノ華は寄ることとした。

 日は傾き、夜の闇が染み出している。寒い風も撫でるように這い出てきた。

 もうこれ以上進むのはやめた方がいい、これより先はかなり歩かねば宿はないと崖から落ちるのをドラガに助けられた男、吉右衛門が告げた。

 陽ノ華は吉右衛門の言葉を信じ、今日はここに部屋を取って泊まることにした。


「何度だって御礼を申し上げさせてください。貴方様がいなければ、私はあの崖で無惨なことになっておりました」

 

 旅籠の一室、地に頭を擦り付ける勢いで吉右衛門は深い礼を何度もした。鼻水も垂らし、涙も滲んでいる。

 その勢いに気圧されたのかドラガは鬱陶しそうな表情で吉右衛門を見ている。


「もういい、煩い。疲れているから頭に響く」

「そ、それは申し訳ありません。お怪我はないですか?」

「無い!陽ノ華、俺は寝る。起こすな」

「えっもう?」


 二人のかける言葉を通り抜けて、ドラガは隣の部屋に戻っていった。ドラガは言葉の通りどこか疲れた顔をしていた。


「すみません。ええと、彼は気難しい性格でして」

「なんと。それでも私を身体を張って助けてくれました。心根の正しく正直な方なのですね」

「うーん、そうかなぁ……」

「それに昼巫女様、鎮魂の祈りを捧げてくれたこと、感謝してもしきれませぬ。この御礼は街に着いてから必ず致します」

「そんな、わざわざなさらなくても!あんな惨いことがあったなら当然のことです。それよりまだ犯人が見つかっていないと聞いています。安心してくださいと言えないことが心苦しい」

「なんと心優しい。しかしその通りですね。野盗の仕業とは聞いていますが全員捕まってはいない。いつまた同じ様なことが起こるかも不安ですし何より……」


 苦しそうな顔で吉右衛門は窓の外を見た。

 夜の暗さで何も見えない。しかし方角的には崖の場所、石川屋主人らが襲われた方であろう。

 風が背筋を撫で、ぞわりと陽ノ華は震えた。


「亀吉さん、お鶴嬢ちゃんらの無念を想像すると私は悔しくてたまらない……あんな真っ直ぐな人らがどうして」

「襲われたのは織物問屋の石川屋さんでしたか。その方らと知己なのですか?」

「えぇ、私も宇賀田にて薬問屋をしております。小さいところですが石川屋さんとは昔から良くしてくれて。亀吉さんとは年が近く、四十の今でも勝手ながら兄と慕っておりました」


 四十という割にはやけに年食ったように見える。しかし兄と慕う程の人の急死に心を痛め、草臥れてしまったのかもしれない。陽ノ華は涙声の吉右衛門の萎れようを見て心が痛むばかりであった。


「快活で弱い者を虐めぬ人でした。子供の頃の明るさのままに店を継ぎその手腕で石川屋を盛り立てていた。しかしそれを鼻にかけることもなく、宇賀田の商人皆で町を盛り上げんと前を向いていました。本当に真っ直ぐな方で奥方、おつねさんを亡くされても毅然としていた」


 目尻に手拭いを当て、吉右衛門は一つため息を吐いた。


「お鶴嬢さん、あの娘はおつねさんの生き写しだといつも仰っていました。ですが性格は自分譲りで、男勝りで溌剌としていると。商才もありそうで店を継がせるのが楽しみだとも言っていましたね。少し前にお鶴嬢さんが十九を迎えたら、仕入れの勉強のため都へ共に行く予定を立てたと言って……それがこの有様です」


 懐かしみが混じるが震える吉右衛門の声に陽ノ華はただ俯くことしか出来ない。

 死んでしまった人間の明るい人となりを知ってしまうと、その死に自分が直接関わっていないとはいえ、どこかやるせなさを背負ってしまう。いちいち感じていては心が潰れそうになるのを分かっていても、だ。

 陽ノ華は頭の中で想像した。笑いの絶えぬ父と娘。陽ノ華に親はいないが、その様子は幸せなことは間違いない。そして青天の霹靂で命を奪う野盗。到底許せはしない。

 しかし今は無策に正義に駆られる立場ではない。

 昼巫女の使命は人を襲う妖怪からの人々の守護だ。安寧を願うものであれ、人同士の諍いや荒くれ達の被害には、自身が渦中にいない限りは首を突っ込んでいられない。そこからはもう武士や警吏の仕事になる。加えて若い女の身で野盗に立ち向かうことも危険であるし、原則として、悪党であっても人々に妖怪へ向けた術をかけるのは禁止されている。

 なので今の陽ノ華には慰めの言葉を吉右衛門にかけることしかできない。仇討ちだと立ち上がれず、弔いの祈りをもって見つめるのが関の山である。


「吉右衛門さんがここまで思ってくれている、それだけでも亀吉さんたちの支えになっているのではないでしょうか。その、私は僧ではありませんが……。それでもありし日の笑顔を覚えて忘れないでいることが亡くなった方への手向だと、私は思います」


 その言葉に吉右衛門ははっとした顔を向けた。そして破顔しつつ涙を流し何度も頷く。


「そうですね、彼等を忘れない。私にやれることはそれくらいです。だけど覚えていればいつでも心のどこかに居てくれる、そう信じたい……」


 肩を震わせる吉右衛門はまた手拭いで目を覆った。

 その時であった。


 ひゅうひゅう


 流れ込む風にまた寒気を感じ、陽ノ華が顔を上げた。

 窓からは月は見えず、薄雲がかかっている。それ以外は何もない。星の瞬きも隠れている。

 そんな闇の中に頭が見えた。

 女の後頭部。結い上げられた黒い髪。頸がやけに白く見える。

 こんな女は先程まで見なかった。気配も足音も何もなかった。

 だが何よりおかしいのは、

 一階の屋根の縁に立っているなら頭は見えない。せいぜい足元か腰までだ。だがここで頭が見えるということは、胴がやけに長いか、頭と首だけ長いか、頭と首が離れているか、に絞られる。女が生き物である、という前提であるが。

 陽ノ華の心臓が早鐘を打つ。刹那の間で頭は急激に回り、眼前の妖怪の名を探そうとしていた。

 瞬き一つした途端、窓の外の女の頭がゆっくりと振り向いた。

 そして同時に闇に染みるように溶けていった。


「あっ……」

「ん?どうなされましたか?」


 陽ノ華が声を絞り出し、吉右衛門が振り向いて窓を見る頃には女の頭は忽然と消えていた。


「何かおりましたかな」

「ふ、梟か蝙蝠かと。突然見えて驚いてしまいまして、すみません」

 

 今のは何だったのか。しんみりとした陽ノ華の心は水を突然かけられたように洗い流されてしまった。

 そうでしたか、と吉右衛門は歩いて窓を閉めた。やはり彼は何も見ていないようだ。だが何を見たかなど伝える気はない。結局あれが妖怪か、妖怪だとして害をなす妖怪かは分からないままなのだから。いたずらに不安を煽ることは本意では無い。

 陽ノ華は一つ大きく息を吐くと懐の霊符を握りしめた。


「こんな夜更けまでお引き止めして申し訳ない。明日朝に出立すれば宇賀田には夕か夜には着けますでしょう。私めはここの主人と顔見知りですので、問題なく置いていってください。ですが、宇賀田に寄った際には必ず!この文をうちの者に渡してくださいませ。大したところではないですが助けてくださった御礼は勿論致します」


 そう言って吉右衛門は懐から出した文を陽ノ華に渡した。絶対にですよ、と再度念押しされて陽ノ華は頷くしかなかった。

 だが助かったのも確かである。御礼が何であれ、この旅にありすぎて困るものはおそらく無い。心遣いに感謝し、深々と頷いた。

 それではおやすみなさいませ、と吉右衛門は一礼して別の部屋へと去っていった。

 一人ぽつんと残された陽ノ華は気付いて声をこぼした。


「そうだ。私、ここの部屋じゃない……」


 陽ノ華に当てられた部屋は角部屋の二階であり、景色は良く評判も悪くない場所であった。しかしついさっき人ではない「なにか」を見てしまってはもうこの部屋に居心地の良さを保証できなくなった。

 冷や汗が陽ノ華を伝う。夜の寒さとはまた別の嫌な寒さだ。

 だがここで、嫌だ嫌だと駄々を捏ねてはいられない。寝なければ英気を養えないし、害のある妖怪ならば怯えずここにいる人を守るためにも備えるしかないのだ。

 だがその前に落ち着けるために、水を飲みたいと部屋の襖を開けた。

 その途端だった。


「見ましたか」


 陽ノ華の胸元程の背丈の老婆がそこに居た。


「ひいっ!」

「おぉ申し訳ない……ここの主人で御座います。驚かせるつもりはなかったのですが」

「そ、そんなに近くでは驚きます!」

「耳が遠くてねぇ……不躾ながら吉右衛門さんとのお話聞いておりました。私からも亀吉さん達のことについては悔やまれて悔やまれて仕方ない……はい、お水で御座います」


 老婆から出された水を受け取る。一礼し、喉を潤すと心臓の音が少しゆっくりと落ち着くのを感じた。

 老婆は少し悲しげな顔で陽ノ華の部屋の窓を見ていた。


「お知りでしたか」

「えぇ、えぇ。なんなら亀吉さんにお鶴ちゃん、あの人らが最期に立ち寄ったのはここで御座います。都で土産話を持ち帰ると笑っておりましたのに、まさかねぇ……」


 皺の寄った目に涙が浮かんでいる。これほどまでに愛された人たちだったのか、陽ノ華は胸に針を刺されたような痛みが走った。

 だが突然、老婆はこちらを振り向いた。


「ですが昼巫女様。ここのところ、不可思議なことがあるのです」

「不可思議ですか?」

「えぇ、えぇ。亀吉さんらのことがあった翌日でしょうか。この辺りで幽霊を見たという話が出ているのですよ。女の幽霊で、夜にしか現れない。声をかけても山の中へ溶けるように消えてしまい、何なら人がいるはずのない場所にぽつんと出てくるなんて聞いています」

「そ、それって……」

「うちの宿でも見てしまう方がいるそうでしてねぇ。例えばこの窓からとか」


 そう言って皺の刻まれた指で窓、陽ノ華が女を見た窓を指差した。

 陽ノ華は素早く窓を見る。女の頭がまた浮かんでいるような気がしたが、何もなかった。


「何かを探している素振りで襲ってはこない、と聞いてはおりますが、どうかお気をつけくださいませね……」


 そう言葉を残し老婆は下階へ下っていった。

 そんなことを言われて眠れるか、と陽ノ華は叫びそうになるのを堪えて窓から最も遠い一角に布団を敷いた。

 そしてまた別に浮かんだ悩み事に頭を抑える。

 幽霊、死んだ人間の魂が何かしらの無念を持ってこの世に留まっているかたち。成仏できず彷徨う亡者である。

 厳密に言えば幽霊は妖怪ではない、らしい。存在の妖しきなにか、有り様の怪しきものどもが妖怪とされるため、そこに死んだ人間の行末は関与しない。幽霊は基本人の姿で触れられないとされるが妖怪はその姿はまちまちで触れるものもある。外目からでは一目瞭然である。間違えようはない。

 だけど妖怪と幽霊は全く違うと断言できない。なぜなら時折幽霊になる程の強い情念を媒介に異形と化す、物や別の生物に伝播させることも確認されているからだ。飢え死に、食への貪欲な渇望から口が増えた女の妖怪、盗賊に襲われた無念を晴らさんと掌に目を生やせ復讐を果たさんとする僧の妖怪。そんな噂を陽ノ華は聞いていた。

 つまり幽霊は放っておけば害をなす妖怪に成り果てる可能性がある。これは昼巫女として無視のできない事項である。


「とりあえず、これくらいでいいかな」


 陽ノ華は懐から霊符を何枚か取り出し、窓枠と部屋の四隅に貼った。妖怪を寄り付かせない忌避の符である。幽霊に効果があるかは分からないが、窓の彼女が妖怪であったなら蚊よけ程度の力は出してくれるかもしれない。

 この場に蔓延る幽霊への警戒も大切であるが、陽ノ華とて天狗討伐を放っておけるわけではない。この幽霊が妖怪になるか何日もここに留まって見守れはしないのだ。そも妖怪になる確証もない。浮雲のように日が経てば消えていく幽霊だっているのだし。

 なので今の陽ノ華は対症療法として、軽い結界を張ることが精一杯だ。早い明日に向けて僅かでも眠り英気を養わねばならない。幽霊にかまける暇は申し訳ないが無い。

 脳内で沢山の理由づけが浮かぶも、それでもどこかちくりと痛む心を抑え、陽ノ華は床に就いた。


「何かを探している、か……」


 五日前の事故、吉右衛門の言葉、宿の主人の噂を合算すると陽ノ華には窓の彼女に心当たりが出てきてしまった。

 お鶴。盗賊によって命を落とした石川屋の一人娘。

 顔も知らぬ彼女であるが、期待に胸膨らませて都に行く道中に突然命を落とすなど無念のほか無いだろう。その想像は陽ノ華にとって容易だった。

 十九なら陽ノ華とも大差ない年頃で、突然殺されて。噛み締めるほど胸糞悪い事件で同情してしまう。

 何かを探しているのなら、どうか見つけてあげたい。それで彼女の心が晴れるなら。

 そんな気持ちを抱え、陽ノ華は目を瞑った。



 夜が更けに更けた頃。むくりと起き上がる影があった。

 ドラガは頭をがしがしと掻き、周りを見渡す。

 吉右衛門のしつこい感謝に辟易し、自室に逃げ帰って眠り込んだのだった。

 布団も敷かず、折り畳まれたそれを抱くようにしていたせいか、身体がぴしぴしと音を鳴らす。


「あぇ、大将起きたの」


 布団の隙間からぬるりとつむじが顔を出す。いつの間にか懐に入り、共に寝ていたようだ。

 つむじの言葉に返事せずドラガは身体を伸ばし、そして己の爪を見た。

 ドラガの爪はつややかに磨かれ、剃刀の如き鋭さを持っている。しかしこれを風の速さで掠めれば刀にも匹敵する貫通力、破壊力を生み出す。

 昼もそうであった。吉右衛門を助ける際に常人ならば共に転げ落ちる筈が、この強靭な爪で岩肌を突き刺して生還したのだ。ドラガ本人もこの爪を気に入っていた。

 だがそれに今違和感がある。

 痛みや痒みはない。形も今見る限りでは変わった様子はない。しかし吉右衛門を掴み、崖に片手を突き刺した際に爪が伸びたような感覚があったのだ。それにかなりの力で土を掴んでいたので、頑丈なドラガであっても爪の一枚くらい剥がれてもおかしくない。そう思っていたのに不気味な程何ともなっていないのだ。

 これになんともいえぬ心地悪さを覚え、ドラガはあの場を離れてから手を閉じて開いて、指の腹でなぞったりして爪を観察していた。しかし今ここに至るまで何も変なところは見られない。

 不思議さが苛立ちに変わりそうな頃、突然物音がした。


「誰だっ!」


 吠えた先は自室の窓である。寝る前から開け放たれたそこは、びゅうびゅうと夜風が吹き込んでいる。

 その向こうには女がいた。

 哀しげな眼差しを向けたその女の足元には何もない。ふわりと浮いている。風にそよぐこともなく何かを言いたそうにこちらを見ている。

 生気のない肌で頬に紅色は差さず、生きるものが持つ温かみがそれには無かった。

 その有り様にドラガは直感的に人ではないと感じ、ひと跳びで窓へ飛びかかった。

 しかし伸ばした爪は空を切り、夜の闇を味気なく撫でる。

 水面を打ったように女の姿は揺らぎ、ほどけて消えていた。


「大将!今何かいたよ!?」


 つむじが追いかけて躍り出る。そして窓から辺りを見渡した。生温い夜風しか感じない中、じわりと滲む薄寒さに身体を強張らせた。


「人の姿はしていた、だがかき消えた」

「じゃあ幽霊なのかな……」

「ユーレイ?」

「死んだやつの魂がこの世に留まることがあるんだ。この近くで人死にがあったらしいし、それなのかな」

「ふむ」


 ドラガの銀の髪がさわさわと風に流れ、柳の葉のように揺れていた。赤い眼は先程まで女のいた場所を見つめ、それからこの宿までに来た道、事件のあったという崖を目で追った。

 視線をまた宿の真下辺りまで戻すと突然ふわりと頼りない灯りが点いた。

 先程の女であった。提灯や蝋燭などは持っていない。彼女の体から弱々しい青白い光が灯されている。

 女はどこか希うような眼でこちらを見つめた後、崖へと歩き出した。

 ドラガの心臓が静かに熱い血を送った。体の隅々に高揚感の熱が満ち満ちる。

 人とは異なるこの男、この光景に人並みの恐れは全く持って抱かなかった。もし女が悪意ある相手ならば牙と爪を持って捩じ伏せるつもりであるが、ただ何もしないというならば見逃してやることもやぶさかではない。

 これ見よがしの罠かもしれないが、戯れに付き合おうという強者の余裕で被された純粋な好奇心がそこにあった。

 寝起きの退屈感も拍車をかけ、口元は薄く弧を描く。


「行くぞ」


 軽やかに跳躍し、宿の前の地面へ降り立った。

 つむじも慌てて窓から降りてくるのを横目で見ると、足を動かさず去る女の背を追い、夜風を浴びながらドラガは歩き始めた。

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日出づる國の吸血鬼 緋熊緑青 @greenbear

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