第一編 天狗討伐

第10話 吸血鬼、都へ踏み入れる

 朝ぼらけの中、南門の門番はあくびを噛み殺した。

 夜の澄んだ空気が陽に溶け込み和らいでいく中が一番寝ずの番には堪えるのだ。不審者はともかく野盗や獣、妖怪が来ないよう見張る番とはいえ堅牢な都の結界にはなすすべがないのだから、馬鹿の一つ覚えのように向かってくるものは殆どいない。とどのつまり仕事はないと言ってもいい。夜の間、松明の灯りを絶やすことなく立ち続ける。単純にして一番疲れる仕事だなと毎度思ってしまう。

 だが鶏が鳴き、都から鐘の音が聞こえればこの番も終わる。背筋を伸ばして残る眠気を振り払った。

 その時だった。朝靄の中から人影が現れたのは。


「……人、か?」


 墨絵が掛け軸からそのまま抜け出たように見えた。

 白の着物に柄の無い黒の袴を着て、生白い手足と霧に溶け込むほどの銀の髪を持った男であった。白と黒だけで模られたその姿が絵ではないと確信したのは両眼と首元が南天より赤く煌めき、掘りの深い顔に埋められた眼がぎょろりと男を睨んだからである。

 男は凛とした表情で足音も無く正面から門に向かって歩き、そしてぴたりと門番の前まで来て立ち止まった。


「よ、妖怪か!?」

「そうだ、多分」


 挑発するような笑みを浮かべる男の妖しい美しさに門番はただ震えることしかできなかった。野良犬くらいしか追い払ったことのない門番は悠然とそこに立つ人の形をした人ではないものに対抗する術を即座に思いつくことができなかった。

 息を呑み言葉が思いつかないまま引ける腰で刀を抜いた門番の姿に、妖しい男はただ立ちながら見つめるのみだった。


「ならば、都に一歩も立ち入らせぬ!」

「ふん、やってみろ」

「ちょっと待ちなさい!」


 勇猛に迎え討つつもりの門番と煽る男の間に高い声が割り込む。

 そこには白衣に緋袴を纏い、色とりどりの花を飾った花笠を被った娘が凛とそこに立ち二人を制止するように真剣な眼差しを向けている。娘の切り揃えられた黒髪との対比による織物から飛び出したような鮮やかさで一瞬心を奪われ、またも門番は何も言えなくなってしまった。

 娘は門番の前まで歩み、花笠を取ると深々と頭を垂れた。


「騒ぎを起こして申し訳ありません。私は昼巫女の陽ノ華と申します」


 その言葉に門番ははっとした顔をするが刀はまだ男の方に向けたままであった。緊迫した空気のまま明け六つの鐘が聞こえてきた。鶏の声も都や外の村から聞こえ朝の訪れを知らせる。


「こ、これは昼巫女様!こちらこそご無礼をはたらき申し訳ございません。だがしかし、こいつは妖怪なのでは…?」

「はい。この者は妖怪ですが桜花仙様から生きたまま木花咲耶院に連れて行く命を下されています。安心してください、私が側にいる限り悪さはさせません」


 真摯な眼差しと口ぶりに門番は引き下がる他無かった。もともと昼巫女の任務や帝の命で怪しいものを運び込むこともなくはない。ただそれは声も発さぬ死体であったり猿轡か檻に捕らえられて自由にさせていないことがはっきりと分かっているからである。一方この妖怪は人間と同じような服を着、さも当然のように歩くその様子が異様すぎる。門番は全てを信じ、飲み込みきれてはいなかった。


「昼巫女様がそういうのであれば……」

「ありがとうございます!勿論騒ぎを起こさぬように人目につかぬ路を行くつもりです。ご理解いただけて感謝致します」


 昼巫女は明るい表情で何遍もお礼を言う。一方の妖怪の男はただ何も言わず冷徹な目で昼巫女と門番を見つめていた。その鉄面皮に言いようもない不安と苛立ちを門番は感じたが横目に睨みつつ、音を立てて開く南門の側に立ち尽くすことしか出来なかった。


「ではお気をつけて……」

 

 昼巫女と妖怪の男は朝の空気と同時に都の中へするりと抜けていった。



「明日、南門を開けると同時にドラガと私は都へ入ります」

「おや。そんなに早くからですか?朝飯くらいは食べていかれたら」

「ええ、できる限り早い方がいいです。ドラガの見目は人間に近いですが、曲がりなりにも妖怪ですから。騒ぎにならないためにもあんまり大通りを歩きたくないんです。かといって裏道ばかりを通るにも限界があるし、朝早くの人が少ないうちなら大通りを横切るくらいなら何とかなると思います」 


 宿にて夕食を食べる直前、一同が部屋に集まった頃陽ノ華は全員に向けそう言った。詠月は残念そうに顎をさする。


「うーん、一理ありますね。しかも天照の総本山である木花咲耶院はほぼ都の中心地。警備は極めて厳重でしょう。僕ら部外者も一緒に行くのは避けた方がいいですかね」

「そうですね。五郎さんに詠月さん、それにつむじも私たちとは別行動した方がいいかも」

「えっそんなぁ!」

「ごめんね。五郎さんたちならまだしもつむじは連れていけないよ。木花咲耶院は都の門とは比べ物にならない強い結界があって妖怪一匹たりとも中には入れられない。見つかればどうなることか」


 つむじは鼻息荒くぐるぐる回り、陽ノ華の足に縋りついていたが、名残惜しく諭す陽ノ華に気落ちした様子で頷いた。

 その細長い身体をひょいと五郎は拾い上げて肩に乗せた。


「仕方ないよ、ここは大人しくしていよう。陽ノ華さん、その木花咲耶院までは行かずとも都の中で店を回るくらいは出来ますかね?できればつむじも一緒に」

「う、うーん……そうですね。ちょっと待ってください」


 陽ノ華は荷物から紙と筆を取り出した。そして大きく四角を描き、四方の中点に点を付けた。続いて四角の内側にまた四角、その中にまた小さい四角を描きその二つの四角の間に橋渡しするように線を付け加えた。


「拙い図ですみません……えっと都はざっくり四角の形をしています。四方に堀が掘られていて高い塀、見えないけど結界も覆うようにあります。そして東西南北に門があって今日見たのが南門です。門を入るとすぐ大通りが都の中心に向かって伸びており、道なりに進むと橋があります」

「橋ということは川が通っているのですか?」

「そうですね。正確には水路になります。この橋の向こう、都の中心には天照総本山の木花咲耶院に加え、帝の座す宮廷、帝直属の研究機関などがあります。ヤマト国の心臓といっても過言ではないですね」

「そんなところに、おいら入れるの?」

「中心を除けばね。都の中心には帝に仕える役人や侍、私たち巫女たちくらいしか入れない。都で暮らしたり商売をする人は皆橋の向こうまで行かないわ。それに別の結界が敷かれていて中心には誇張なく妖怪は一匹も入れない」

「へぇ、中心以外はそれほど厳しくはないんですね」

「はい。詳細は分からないですが。でも全く制限が無いわけではなくて門に入った途端にかなり力を制限されると思います。いつもより疲れやすくなるかも」

「うぇ〜……」


 ぺたんと五郎の肩で拗ねるつむじの頭をそっと撫でる。都に行ってみたい気持ちは五郎同様にあるのだろう。それでも行けないわけではないことにつむじの黒い目は輝きを取り戻した。

 そしてその一方で妖怪にとって最も危険な地に歩もうとしている男、ドラガはにやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


「何にやにやしてるのよ、気持ち悪い」

「それほど厳重な場所に俺を呼ぶなんて、いよいよ何を考えているのか分からんと思ってな。妖怪を喰らう妖怪は総じて危険だとお前は言っていたろう?」

「それは、そうだけど……」


 確かに何故だろうか。言われるがままに桜花仙の元へ連れて行くつもりであったが、人並みに分別が付くとはいえドラガの危うさと獰猛さは並の妖怪以上である。災いをわざわざ呼び込むようなものではないだろうか。桜花仙からの予言の内容にはドラガの仔細は明かされていたのだろうか。

 陽ノ華には判別できないことならば尚更気を引き締めなければならない。深く息を吐き両手に霊力を込めてぐいと引っ張る仕草を取る。それと同時にドラガの首が同じ方向へ綱を引かれたように引っ張られた。


「ぐお!ヒノカ、お前っ」

「だからこそ私がいるのよ。あんたが怪しい行動を取ったら首を引っこ抜く勢いで引っ張ってやるから」


 ぎりぎりと歯軋りしながら睨むドラガを陽ノ華は睨み返した。心の中に少し浮かぶ不安を見透かされないことを祈りながら。



 大きく開かれた南門はその巨大さ故にかなり離れないと全景を見渡すことは出来ない。朱色に塗られた門は朝の柔らかい光とは対照的で毒々しさ、禍々しささえあった。ぽっかりと口を開けた、と形容してもいいほど都の外と中を明示的に分けていることが言葉にせずとも伝わってくる。

 門に入る直前で眉根に皺を寄せ、匂いを嗅ぎつつ周囲を見渡すドラガを急かすように袖を掴み引っ張るも仁王立ちから動こうとしない。


「ほら、早く入るわよ」

「……血の匂いが消えている」

「何?なんか言った?」

「いや、なんでもない」


 解せない顔のままドラガは大股で歩き出した。陽ノ華も慌てて追いつこうと早歩きで並んだ。

 そして門を通り過ぎんとした時、ドラガは突然強い息苦しさを感じた。

 顔を水へ叩きつけられたように鼻と口から入る気の流れが突然途絶え、またすぐ流れ始めた。しかしどこか門に入る前とは違う感覚を覚えつつぐらりと揺らいだ頭を振ってまた前を向いた。


「門の中の結界へ順応するのが流石に早いわね。少しくらいは気持ち悪い感じはするでしょうけど」

「確かにな、喉がいがいがする」


 乱れた髪を手櫛で直し、都の中へ向き直る。

 ドラガが今まで見た中で最も広く道が敷かれていた。門の広さと同等、それ以上の整備された道の両端には隙間なく店が並び大店がところどころで仕込みを始めている。人がひしめく賑わいはまだ無いとはいえ、方々で活気があるのが目に見えた。飯炊きの匂い、魚を入れた盤を運ぶ男、車力達が大荷物で走る様。暖簾に幟、天水桶、遠方の火の見櫓、屋根看板。動く全てと聳える建物を目で追ってしまいドラガは突っ立って動かなくなってしまった。

 陽ノ華はまた動かなくなったドラガに気付くと数十歩歩いた道を引き返した。目に映る全てに心を持って行かれているドラガがなんとも幼く見えて思わず吹き出してしまった。


「何笑ってるんだ」

「なんでもない、ほらまっすぐ行くわよ」


 袖を引かれるままにドラガは大通りの真正面に向き直った。

 視線の先の先、赤色の道がぐんと盛り上がっている。よく見るとそれは朱色の巨大な桁橋の入り口であった。大通りの広さには至らないがかなり広い橋の幅である。盛り上がっている部分は橋の中心に行くに連れ反っているからなのだと陽ノ華はドラガに教えた。

 そして不思議なことに立派以外の何物でもない桁橋の入り口に誰も入ろうとしていなかった。出入りを遮る番人がいるわけでもないのに都の人は誰も橋を渡ろうとしていないのである。橋の横から堀に向けて釣り糸を垂らす人や堀の中を渡る船頭はいるのに橋の上は子供一人立っていなかった。


「運良く誰にも声をかけられなかったわね」


 陽ノ華の安堵したような声が聞こえてドラガははっと気が付いた。振り返ると、これから都の店々が開こうとしており忙しない一日の始まりを知らせようと構えていた。もう少し見ていたい気分になったが、それよりもあの橋の異様さに心がざわついて仕方なかった。

 そして橋の前まで来て、ドラガの生理的な嫌悪感が喉元まで迫った。何日も寝ていない時のようながんがんと響く頭痛がこの橋の先へ行くなと警鐘を鳴らしていた。唇を噛み堪えるドラガを陽ノ華は心配そうな顔で覗き込んだ。


「この先、か」

「そうよ。ドラガ、あんたが橋を渡るにつれ結界の影響でもっと苦しくなると思うわ」

「上等だ」

「……動けなくなったら言って。ゆっくり引きずってあげるから」

「はは、御免だ」


 乾いた笑いが静かな空間に響く。揶揄ったつもりで放ったがドラガの苦痛を噛み締める顔を見て陽ノ華は少し後悔した。いつも周りを置いていく速さで進むドラガの歩みは橋の上を渡るに連れ遅くなっていくのが目に見えて分かる。橋の真ん中を越えた頃には陽ノ華の歩みより遅くなっていた。それでも陽ノ華は置いていくことはせず隣に立ち続けた。


「……そこまでしなくとも逃げねぇよ」

「そんなんじゃないわ。あんただって止まったっていいのよ」

「ふ、止まってなんてやる、か!」


 叫び大きく肩で息をする。悪態はまだまだ健在だ。そして俯いたかと思うとぐっと前を見据え、また大きく一歩足を上げた姿に陽ノ華は安堵を覚えた。へこたれて弱るドラガを想像出来なかったのもある。

 大丈夫、ここを越えて桜花仙様に会って話せば終わり、そう声を出そうとして思いとどまった。

 終わり?ドラガはどうなる?

 旅の中で全く考えたことがないわけでは無かった。玻璃ノ湖で少し寂しさを思い出したが、今ここに来て、別れが目前に迫って来て陽ノ華は猛烈に寂しさと哀しさが胸を覆うのを感じていた。

 妖怪を食う妖怪。有用さと危険さを極度に有したそれを最も効率的かつ安全に御するならば彼は木花咲耶院の牢か研究機関に引き渡されるのが目に見えている。人に歯向かう気力を徹底的に殺ぎ従順になるためと苛烈な拷問に遭うかもしれない。そも何の妖怪か分からないのだから腕や脚を切られ臓腑を暴かれ目玉を抜かれ、隅の隅まで調べられ苦しい目に遭うかもしれない。

 嫌な妄想が目まぐるしく巡り、陽ノ華は一瞬気が遠くなりかけた。考えすぎだと思いたかった。

 何にせよ、こんな風に旅を続けられる保証は全くない。

 それは、そんなのは。

 そう思った瞬間、陽ノ華とドラガは同時に橋を渡りきった。


「は、は、終わったぞ」

「……まだよ。目的地はこの先」


 青い顔で笑うドラガの手を引く。ドラガは驚いたような顔を見せたが反抗する力も無いのか引かれるままに歩みを進めた。

 橋を渡ると白壁が遮るように堀に沿って聳えていた。白い玉砂利の道も含め、どこから道か壁か朦朧としたドラガの頭ではすぐに判別がつかなかった。白壁の向こうに何か強い気配があるのは分かるが、ぶれる頭の中では足元を見るのが精一杯で、それがどこか判別つかなかった。

 胃の中に鉛を注がれたような重怠さを引き摺り、陽ノ華の導くままについて行く。こっちだと言うわりにはそれほど速くない歩みがドラガの呼吸を整えるのを助けてくれた。

 やっと視線を前に向けることが出来た時、長く続く道の先で門が見えた。あそこが入り口だろうか。

 歩みの速度を上げようとした途端、突然立ち止まった陽ノ華にぶつかった。


「菫?」


 素っ頓狂な声を上げた陽ノ華の視線を先をドラガは追った。

 紫色の髪を頭上で束ね、両目から耳にかけて飾りのような道具を掛けた娘がそこにいた。纏った服は陽ノ華と同じ白衣に緋袴である。背は陽ノ華より低いが歳の頃は同じくらいだろうか。あどけなさの残る顔で気の強さを表したような吊り目と吊り眉が陽ノ華とドラガを凝視していた。


「陽ノ華!あんた何でそこからっ……!」


 その娘は陽ノ華の声に応じるように甲高い声を上げた。そして片脚を引きづり、不恰好に近づいて来る。

 陽ノ華もドラガから手を離し、菫と呼んだ娘に駆け寄った。


「戻ってたのね、良かった!」

「そんなことより、そいつは!?」


 菫は震える手でドラガを指差した。その眼には驚きと恐怖、そして僅かに好奇心が見て取れた。

 菫とドラガ両者を見やり、陽ノ華は話し始めた。


「前話したでしょ。桜花仙様の命令で連れてきたのよ」

「そういうことじゃなくて!妖怪を五体満足な状態でここまで連れてくるなんて何考えてるのよ!」


 きいきいと喚く菫を見下ろす位置まで近付くと陽ノ華の後ろに菫は隠れた。

 声の高さに頭が震え、苛立ちを顕にした顔をしていたのだろう。小さな悲鳴が上がるのが聞こえた。咎めるように袖を引っ張る陽ノ華を払い、ドラガは二人を追い越した。


「ちょっとドラガ!」

「この先だろう。俺は行くぞ」


 そう言って門に踏み込んだ瞬間だった。

 鋭い熱さと冷たさが同時にドラガの身体を突き刺した。


「は……?」


 何が起こったか分からなかった。ドラガの喉の中心、首の下、心臓に腕の長さほどの杭が刺さっていた。鈍色に光るそれは血を流し驚愕の顔のまま倒れるドラガと、それを放ったであろう筋骨逞しく顔に傷のある女の姿を映していた。攻撃されたのだと把握した途端、激烈な痛みと痺れるような感覚が全身を巡った。


「なん、だ貴様……」


 痛みで活性化した意識は痺れに上書きされ、立つことすらままならなかった。地面に頽れたドラガはやっとの思いで薄れる意識に抗うように顔に傷のある女に手を伸ばす。陽ノ華の叫ぶ声が聞こえる。女はただ冷酷な眼でドラガを見下ろし、倒れた様子を警戒を怠らず見つめていた。


「穢れた妖怪、そこに伏せて措置を待て」

「先生っ!どうして!?」


 陽ノ華が先生と呼んだ女はそう言い放ち、片手を上げた。すると女の後ろにいた別の女たちがドラガを取り囲み、各々符を取り出した。

 困惑の表情で叫ぶ陽ノ華はその女らに妨げられ、ドラガに駆け寄ることを制されているようだった。

 視界はいよいよ色を無くし、手足の末端の感覚が薄れてきた。身体を巡る血が急激に冷え、耳には己の心音しか聞こえない。


「お前たち、覚えていろっ!」


 最後に地を震わせる勢いで叫ぶと取り巻きの何人かが悲鳴を上げ尻餅を付く。それを見て屈強な女も眉間の皺を深くして歩み寄ってきた。

 掴める位置まで近づいたその足に力無く拳を下ろすと同時に腹に激痛が走りドラガは意識を手放した。

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