第6話 吸血鬼、旋風と相対する
荒屋と呼ぶにも疑わしい潰れた家だったものの隙間を縫って、ドラガと陽ノ華と五郎、そして小豆洗いは歩みを進めていた。
「この村は一月も前はただの村でございました。人を襲わぬ妖怪達が慎ましく住んでいたのです」
小豆洗いが言葉を紡ぐ。
「ですがある日、人の形をした妖怪と巨大な獣の形をした妖怪が現れました。たちまち全てを壊し、喰らい、何処かへ去っていきました」
遠い目をして周りを見渡す。彼には賑わっていた在りし日の村の姿を思い起こしているのだろうか。
「拙はここに居を構えてはおりませんが、脚繁く訪れておりました。運悪く離れていた時にそれは起こったようで…手負の友を見つけた時に聞かされました」
陽ノ華は妖怪でも村を造るのか、この村にどのような妖怪が住んでいたのか、と聴きたい気持ちもあったが小豆洗いの口ぶりに胸の奥へと引っ込んでしまった。
「その…友である方というのは」
「…先日息を引き取りました。ここに眠っております」
指差す先には杭が等間隔に刺さっていた。遠目から見たら柵かと思っていたがそうではない。崩れた材木から作られた墓標であった。
所々煤がかかったり長さが不均等であるが、全ての杭の根元に欠けた盃や皿、摘まれた野の花が添えてあった。
「こんなにも犠牲が…」
五郎が静かに声を発して首を振る。妖怪であるにしろ悲しむ心を持つのは稀有だろうが、陽ノ華もまた同じ気持ちであった。
「半数が獣の妖怪に喰われ、残りの半数は人の形をした妖怪が放った毒にやられたといいます。彼奴等が去った後に毒を喰らったものが残された力で喰われたものを弔っていった」
多くの杭の刺さる場所、もう墓地と言っても差し支えないだろう。小豆洗いの足取りに合わせ三人も近づく。
陽ノ華の思った以上に杭らが奥まで続いており、それほどまでにこの村にいる妖怪が少なくなかったこと、そして命を落としたことを物語る。
ドラガはぽつりと小豆洗いに投げかけた。
「生き残りはいないのか」
「僅かばかりおりましたがみな散り散りに逃げていきました。…行く当ても分かりません」
杭の一つ一つには彼らが身につけていたものなのか、着物の切れ端や小物が添えられていた。
陽ノ華には妖怪だけの村がどのような暮らしを送っているのか想像つかない。
しかし小豆洗いが友のために、友の妖怪が喰われた同士のために墓を作ったことはいささか陽ノ華が思っていた粗暴で人を襲うだけの妖怪の姿とはかけ離れていた。
妖怪にも種類はあるというが、これほど人に近い営みをしている。人と何ら違いはないのではないか。
深く考えたいところではあったがそれよりも優先させたいことがあった。
「小豆洗いさん、昼巫女の身ではありますがどうか祈らせてください」
「良いですが、昼巫女というのは?」
「えっと、太陽を司る神、天照に仕えて悪心を律し生命を尊ぶ巫女でであると思っていただければ」
嘘は言っていない。妖怪を倒すという信念も持っていること以外は。
「なんと!妖怪であっても神は見離さずにいるのですな。その心遣い誠に感謝します」
深々と小豆洗いが礼をし、陽ノ華の唱える弔いの言の葉が空に吸い込まれていった。
祈りが終わり、ふと足元に目をやると影が思ったより長いことに気付く。橙の光が村の方々に満ち、冷たい風が吹き始めていた。
つまり、陽が落ちかけている。
霧が無くなったのでやっと認識できたが思った以上に時間が経っていたのだ。
「えっもう日暮れ!」
咄嗟に声に出していたのだろう。陽ノ華以外の三人が一斉に陽ノ華を見た。
「こ、この村の出口はどこでしょう。私たち先を急いでいるんですけれど」
ただでさえ寄り道をしていられない旅路だというのに、雨を凌げるような屋根もないこの村で夜を明かさねばならないかもしれないという可能性が陽ノ華の顔を曇らせた。
それに再びうろの村を襲った妖怪が帰ってくるかもしれない。根拠のない不安であるが段々と闇に沈む村のどこかから妖怪の手が伸びてきてもおかしくはないのだ。
五郎もこの状況の芳しくなさに気付いたようで不安そうに松明を取り出し、陽ノ華と小豆洗いを交互に見つめていた。
一方、ドラガは特に何も思うところは無いのか、表情に翳りはない。しかし忙しなく辺りを見回して何かを探すようにしている。こんな暗闇で見えるのだろうか。いや妖怪だから関係ないのかもしれない。
「ふむ、出口ですか。あなたたちのいらした入口を除けば東に進むとございます」
小豆洗いは闇に沈みかけた道を指差した。
「ここを道なりに進めば滝壺の近くまで出ます。滝の裏に洞窟があり、そこを通り抜けると人の通る山道に出るでしょう」
「成程、ちなみにそこから一番近い村の名前などご存知ですか?」
「ううむ、そこまで拙は存じておりませぬ。申し訳ない」
「いえ、教えていただきありがとうございます」
陽ノ華が礼を言うと五郎が近寄って耳打ちした。
「柴浜村から東に行けば隣村でしたので、彼の言うとおり進めば元の道に戻れるかもしれません。ですが滝というのは僕は聞いたことがなくて…」
不安そうな顔でこちらを見つめる。長年この近くで住んでいた五郎は、聞いたことのない霧深い道やうろの村を目にしたことであまり自分の感覚に自信が持てなくなっていたのだろう。ドラガに掴みかかられたこともあり、怯えが見えている。
五郎の言葉を信じたいが妖怪が住む村というだけで常識を当てにしてはいけないだろう。だが立ち止まってもいられない。
もだもだと悩みかけた時、ドラガが滝への道を躊躇うことなく踏み出して声を上げた。
「アズキアライとやら、驚かせてすまなかったな」
「いえ、そんなことは…。あなた様も妖怪であるならこの異様さに気が立つのも道理です」
「そうなのか。…いやそもそも俺は」
ドラガが振り向き小豆洗いに何かを言おうとした瞬間だった。
たん
鋭い風がドラガの背中の後方から流れた。
何もかもを巻き上げる暴風ではない、例えるならば大きな包丁を振り上げて何かを一思いに断ち切ったような静かな風であった。
そしてその風は滑らかな金属のような冷たさを纏って、ドラガの背に大きな傷を付けた。そして傷つけられた痛みが熱となって全身を走る。
「っつぁ…!」
ドラガは突然のことに何も反応できず、痛みによる声を絞り出した。
幸いにも出血は大したものではないが、身を翻して周囲を警戒し始める。
「一体どうしたの!?」
突然ドラガの背中から血が吹き出す様子を見て驚愕と緊張が陽ノ華たちに走っていた。
陽ノ華の声にドラガも叫び返す。
「分からん!だが何かがいる!」
視界には何も動くものは映らない。
しかしドラガを斬った冷たい風の名残はいまだ頬を撫でるように感じられた。
(一体何だ?そもそも何で俺を斬った?)
背中から袈裟斬りにされたことを把握してから痛みを覚えるほど、その斬れ味は見事なものであった。
ドラガの勘が少しでも鈍ければ、斬られたことに暫くは気付かなかったかもしれない。そう思わせるほどであった。
もし再び前触れもなくもう一太刀浴びせられたらどうなってしまうか…と想像しかけた途端、目の端に動くものが見えた。
何かを口に出すより早く、それに向かって足元に転がっていた小枝を手にして射出する。
しかし矢よりも疾く飛び出した枝は空中で音を立てて割られた。
それに怯むことはなく、続いて飛び出したドラガは動くものがいた場所、路傍の叢に腕を突っ込んだ。
「そこに居る奴!出てこい!」
姿は草葉に隠れて視認できない。しかし手の先に柔らかい毛の感触と熱、磨いた金属の鋭さと冷たさが同時に伝わった。
爪を出しつつ、その何かを引っ掴み叢から放り出す。
「うわあっ」
子供のような高い声をあげてそれは道に放られた。
夜の闇が迫ってくる中、陽ノ華は目を凝らしてじっと見つめ符を構えた。
それは手先から膝までの長さをした鼬であった。茶褐色の毛に覆われ、長細い躰をくねらせ叩きつけられた痛みを抑えこんでいる。
しかし人のように言葉を介したことと、その手に草刈りに使うような鋭い鎌を手にしていたことが、普通の鼬と全く異なる点であった。
「なんだ?こいつは」
ドラガの素っ頓狂な声が上がる。妖怪か何かだろうと思ってはいたが、予想外の姿に驚いたようだった。
全員が突然の来客に動けなくなっていた一瞬、その鼬の姿が風と共に瞬時に消えた。
警戒を解かず、ドラガは周囲を見渡して叫んだ。
「何処にいった?」
「捕まってなんてやるか!」
声が風と共に流れて来た。肌に当たる風の速さと流れから、素早くドラガの周囲を周り、鼬の方もドラガを警戒している様子が伝わる。
だが未だ視認は出来ない。先程のような死角からの一撃を喰らいたくはない。
すぐ飛びかかれるように周囲の物音に集中すると道の端の草が斬られ、枯れ木の枝が折られる音が四方八方から聞こえてきた。
それと共にドラガの服の端々が切られ、切り傷が走る。
音のした方へ小枝を打ち込んでも何も起こらない。その素早さによって既に逃げてしまっているのだろう。
一方的に嬲られる攻撃に苛立ちがたまり、ドラガはぎり、と歯噛みした。
何処から来るか分からない攻撃に目を光らせるだけでも夜が訪れかけている。
ふと心配そうにこちらを見る陽ノ華と五郎がドラガの目とかち合った。見えぬ敵に傷を付けられるその姿に不安があるのだろう。差し伸べかけた手が空を漂い、どうすべきか分からないといった様子であった。
周囲に夜目の効くドラガはまだしも人間の二人が見えない刃を受けたとしたら?ドラガはそう考えた途端腹の底から覚えのない冷えた不快感が昇るのを感じた。
「その姿、鎌鼬の三男坊か!?」
途端、小豆洗いが叫び五郎と陽ノ華の間から突然飛び出し、その勢いのまま地面に倒れ込んだ。
すると鎌鼬、そう呼ばれた生物が再び風と共に目の前に現れた。
「小豆洗いのおっちゃん!生きていたのか!」
あり得ないといった驚愕に喜びが滲む声であった。
しかし瞬時にこちらに向き直ると、牙を見せ爪を剥き出して威嚇した。小刀にも匹敵する長さの爪はぐわんと湾曲し、鎌のような鋭さを見せている。最も長く伸びる中心の爪からは血が滴っており、この武器がドラガの背を裂いたのだと証明していた。
「村のみんなを殺すだけじゃ飽きたらねえってのか!」
「あぁ?何を言って…」
「違う!違うんだ!…待ってくれ、お前の兄達は?」
這いずって制止する小豆洗いの声に鎌鼬の逆立った背がわなわなと震え始めた。
「兄ちゃん達も…村を襲った獣に殺されちまった!」
絞り出された叫びと共に豆粒ほどの眼からぼろぼろと涙が零れ落ちる。
小豆洗いは額を土に付け呻き嘆いた。
「なんと…あいつらもか」
「もしかして、あの鎌鼬もこの村に住んでいたのですか?」
陽ノ華は膝をつき小豆洗いの肩に手を添えて問いた。
骨ばった肩は震え、頷く体の振動が直に伝わる。
「あの子らは明るく勇猛な三兄弟でした。姿を見てはいなかったがこの村の誰よりも素早く…その脚ですんでのところで逃げられたのだと、信じたかった…」
筋張った指の間から涙がすり抜ける。
ドラガはそれをみて眉間に皺を寄せた。
「お前の境遇はなんとなくわかった。だが、俺に刃を向けるのは間違っているぞ」
「そんな訳はない、お前の匂いはあいつ、獣と一緒にいた人の姿の妖怪と同じだ!また獣のやつを呼び寄せる気なんだろう!」
「何?」
ドラガが首を傾げる間、文字通り噛み付く勢いで叫んだ鎌鼬は飛び上がり闇夜へ姿を隠した。
瞬間、風がごうと舞い上がる。吹き荒ぶ風のうねりはドラガを中心に渦を巻いているようだった。
「さぁ苦しめ!この村からさっさと失せろ!」
土埃をまとい、葉や枝に小石も巻き上げ、風に乗った勢いのままドラガの身体に雨のように降ってくる。四方八方からの攻撃に躱すのがやっとであった。
「待て。俺のことを知っているのか?」
ドラガを中心に立ち上る風の渦、それは土を巻き上げた巨大な旋風にも見えたそれをしっかと見つめていた陽ノ華はドラガのそんな大声を聞いた。
渦の中はまだ乱暴な霰が降り続いていた。
ドラガの弾いた小石らがまた渦に吸い込まれ、再度彼に降り注ぐ。耳の端で弾くような音が聞こえ、そちらに向けて手を翳した。
途端、肉が裂ける痛みが掌を襲う。中指と人差し指の間に真っ直ぐに赤い線が引かれていた。
それが斬られた傷だと認識するより先に太腿に焼けるような痛みが走った。
着物の裾ごと生白い腿に血が滴る。
それだけではない、頬に脛、腕と赤い切り傷が風が吹くたびに付けられていく。じりじりとした痛みに顔を歪ませ尚も降り注ぐ石や枝を振り払った。
この攻撃はドラガの読みどおりではあった。あの鎌鼬という妖怪はこの周りの風に姿を隠し、ドラガの無防備なところを狙って斬りつけている。先程藪の中から捕まえたことから、真っ向から立ち向かいはせず、ある程度別の攻撃で弱らせるか視界を紛れさせて弱らせる算段としているのだろう。
しかし腑に落ちぬ点がある。
「生ぬるいな、それぐらいじゃ俺は死なんぞ」
ドラガにつけられた傷はどれも致命的ではなかった。しかも付けられた傷は浅いものからじわじわと塞がれつつある。ドラガの持つ妖怪を喰らう力がそうさせているのかは分からない。しかしこの状態のままでは膠着しつつあり、むしろだんだんと目が慣れてきたドラガの方が優勢になりつつあった。
ずぱん、と一際大きい音が鳴る。肩から腕にかけて切り裂いた痕から血の飛沫が飛んだ。ドラガの声に応じた返しか、今までより最も深い傷であった。
だが尚も死を間近に狙ったものではない。ドラガは歯を食いしばったまま肩の傷口に手をやり、指先が赤く染まったのを確認した。
「違うぞ、カマイタチとやら。狙うなら『ここ』だ」
そう言って指先に付いた血を首の中央に引く。赤い線は真一文字に引かれ、鮮血特有のぬめりと鮮やかさがここを切れ、と禍々しく誘う。
「斬ってみろ」
ドラガは四方の攻撃に対する構えを解き、顔を高く上げて首を突き出した。
目を瞑り、呼吸を荒げることのない姿は祈りを捧げるかのような静かさであった。
首を斬られることを待つその姿に向けて、一陣の風が吹き下ろされた。
そしてその首に爪が突き立てられた、かのように見えた。
「そこだな」
鎌鼬によって真正面から首筋に立てかけられた爪は横に引くだけでこの戦いを幕引ける筈なのに細かく震え、躊躇うかのように一瞬止まっていた。それだけの僅かな間でもドラガの両手が鎌鼬の身体を鷲掴みするのに十分な時間だった。
「殺す気が無いのなら、俺も殺さないでやろう。その代わり俺の問いに答えろ」
「何を言ってんだ!くそ!離せ!」
細長い身体を蛇のようにくねらせて捩り逃げ出そうとする鎌鼬の喉笛を掴む。
荒ぶる呼吸で上下する身体が手に直に伝わる。牙を剥き出しにして敵意を露わにしているが、その目の影にドラガは気付いていた。
「お前、人を殺したことがないだろう」
鎌鼬の小さな目が開かれる。手を引っ掻く爪がぎりぎりと食い込み血が混じるも、振り解くまでの強さはない。
「いや、ここでは妖怪か?何にしろお前の刃には」
「殺すなら殺せ!」
「は…?」
手に込めた力が増し、ぎりと片手に収まる頭蓋の軋みが伝わる。
どこから来たのか分からない苛立ちがじりじりとドラガの心を燻らせる。
一人と一匹を取り巻く風の渦はいつのまにか消えて、夜の澄んだ空に鎌鼬の声が響いた。
「上の兄は獣に立ち向かって喰われた!下の兄はみんなを助けるための殿になって毒を喰らった!おいらだけ逃げて泣いて何も出来なかった!おいらが、おいらだけが!」
鎌鼬の眼からぽろぽろと涙が落ち、ドラガの指先の隙間に消えていった。
食い込む爪の感触をいつの間にか感じなくなっていた。
ぶらりと小さな手は垂れ下がり抵抗の様子を見せない。
「…ここで死ねば、兄ちゃん達に…」
その癖、目はしっかりドラガを見つめている。
この鎌鼬は本気でドラガを殺す意図はない、あるいは確実に殺せる術が分からないのだろうという予測は当たっていた。
それでも追い返すためなら十分な力である。ドラガには効かないし、彼としても聞きたいことがあるのですごすごと帰る気はなかったのだが。
何にしろ話し合いに繋がるまで時間の問題だった。どちらも怪我を負わせる気はあれど互いに殺す気は無かったのだから。
だが死のうとしているなら別だ。
紅の眼が闇の中に一際妖しい輝きを放つ。
「俺は諦めて命を投げ出す奴を、嬉々として殺せるほど落ちぶれちゃいない!」
牙を剥き出してドラガは吠え、陽ノ華たちの目の前の地面に向けて鎌鼬を放り投げた。
土埃をあげて打ち捨てられた鎌鼬は困惑の目でドラガを見つめる。
「何故…俺はこんなに苛立っている…?」
自ら疑問を口にしても鼓動が昂まり息が上がる。
胸に燻る炎が身体を覆い尽くし、血の流れが一層速くなり銀糸の髪がざわりと逆立った。
人の姿をぎりぎり保った妖怪が敵意を持った眼でゆらりと近寄る。
鎌鼬は脳裏にあの日村を襲った獣の姿を思い出した。荒屋に隠れ震えていた中、兄に言われ尻尾を巻いて逃げ出して最後に見た景色。
立ち向かう兄らと家を優に超える大きさの獣の妖怪。
あれよりも禍々しい気配をこの男は纏っている。
恐怖の震えが鎌鼬の背を伝う。
「お前の兄どもを殺した仇と同じ匂いなのだろう、牙を突き立ててみろ!爪で切り裂いてみろ!お前の怨みはそんなものか!」
鎌鼬の声よりも遠く響く叫びだった。
その声を聞いて鎌鼬の心臓が跳ねた。
兄らの骸を見ることすら叶わなかった無念が、あの時そうしていればと堂々めぐりする悔しさが、何もここに残らぬ虚無感が、何も出来なかった己への怒りが、それら全てを内包し燃える感情が生まれて、恐怖を塗りつぶした。
身体にその熱は伝播し、四肢の動きに力が漲る。
しかしそれを遮るのは別の声であった。
「ちょっと!ドラガ!なんで怒ってるのよ!」
「落ち着いてください!ドラガさん!」
飛び出した陽ノ華と五郎は荒れ狂い息を乱すドラガの前に立った。
当惑した表情でこの事態を飲み込もうとしているが理解が追いつかない。しかしここで誰かが傷つき倒れるのを二人は望んではいなかった。
「敵に抗って最後に死ぬならいい…お前のやることは愚かだ!死ぬなんて言うな!」
五郎に身体ごと抑えられ、陽ノ華に額に霊符を押し付けられた状態でもドラガは吠え続けた。
「くそ、お前ら邪魔を……いや、そもそも何で俺は…?」
しかし息が切れ、背中が大きく上下し地面に頽れる。
霊符の効果か、力が抜けて膝が地面に着き腰を落とす。
そしてへたり込み目を閉じた。
月が荒れた村を煌々と照らす。
地面にへたりこんだままの鎌鼬はまだ動けずにいた。
燃え上がる魂、復讐の意志が立ち昇ったも束の間、それを焚き付けた男は地に伏せてしまった。
拍子抜けに近い、やり場のない気持ちをまだ飲み込みきれずその姿を見つめていた。
「ごめんね。あいつがあなたに何か嫌なことを言ったんでしょう」
五郎が寝転がるドラガを背負うのを目にし、陽ノ華はため息をつきながら近付いてきた。
そしてかがみこみ、鎌鼬の目をじっと見て口を開く。
「でもね、私たちはあなたのことを何も知らないけどあなたが死ぬのを見たくはないわ」
力強い、確信に満ちた言葉であった。
鎌鼬の小さな手を包み何を唱えると蛍のようなあたたかい光が浮かぶ。
じわりじわりと手の先から傷が塞がっていく。
「死んでどうにかなるものなんてない、それは本当よ」
鎌鼬がその声に顔を挙げると陽ノ華の澄んだ黒の瞳とかち合う。
嘘の色はそこに全く見えなかった。
「そうだ、拙もお前に死んでほしくない」
小豆洗いがいつの間にか鎌鼬の側に来ていた。
「勿論この方は村を襲ったあいつらじゃあない…」
「そうね、それは保証します」
苦笑いして陽ノ華が頷く。
「じゃあ、どうして殺してみろなんて」
「…とても不器用だがこの方はお前が命を捨てるのを救ってくださったのだ。恨みを持ってでも復讐に燃えてでも前を向かねば始まらぬと…」
小豆洗いの目には涙が光っている。
「お前の命はここで捨てるためのものでは決してない」
枯れ枝のような腕が伸び、鎌鼬の背を撫でる。
その時、兄たちは何と言ってあの惨状から逃したかを鮮明に思い出した。
『走れ、つむじ!』
『お前の速さなら逃げ切れる!』
迫る妖怪に立ち向かう勇敢な背を。
あの時兄らは自分に託したのだ。
己の命を捨ててでも守りたい命が自分であったのだ。それを今ここで捨てかけたのだ。
何とも馬鹿なことをしようとした、と自嘲した途端に身体の強張りが解ける。その時だった。
ぐぅ
場にいる全員が顔を見合わす。
腹が減っている。何とも久しぶりだった。
何日も怯え惑って逃げ続けて、疲れていた筈なのに極度に緊張から一切空腹を感じなかったのだ。
「これ食べて」
陽ノ華が懐から握り飯を取り出した。
冷めてはいたが丸々としたそれを目にした途端、涎が口の中から溢れてくる。
手渡されたそれを見つめかぶり付く。
腹が満たされる感覚に安堵感を覚えるとじわり、と視界が潤んだ。
胸から込み上げる感情が溢れ呼吸の調子が狂い始めた。
心臓に湯が注がれるような温かさが鎌鼬の全身に巡っていき、その温度が目まで到達すると、涙が溢れて鎌鼬の毛皮を濡らす。
言葉にならない啜り泣きが夜の静かさに飲み込まれていった。
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