第5話 吸血鬼、隠れ里を訪れる
「橋がない……」
流れる河を見て陽ノ華は目を丸くした。
対岸は霧の中では確認できないほどの遠さであり、水がどこまで自分たちの足をとるか判断もつかないほど濁っている。
陽ノ華の言葉に五郎は陽ノ華の比じゃない程に落ち込み、地に膝をついて狼狽えていた。
「そんな、でも、本当に、この場所には橋がかかっていたんです!」
「本当か?嘘ではないのか?」
ドラガは未だ五郎を疑っている。
もう喉元を掴んでいた腕は離しているが、それほど嘘をつかれたことに腹を立てているのか。
陽ノ華としては五郎の声の震えようからして嘘は言っていないと見ている。
いや嘘ではない、陽ノ華だって柴浜村への往路は橋を通ったのだ。
あの時渡った橋は無骨だが頑丈で、白梅を乗せても全く問題なかった。簡単な雨で壊れるほど脆くはないだろう。それに何かの拍子で壊れたにしては綺麗すぎる。
壊れたならば橋だったモノ、木片や板が散乱したり川底に刺さっていてもいい筈なのに全くそれが無いのだ。まるで最初から橋などかかっていなかったかのように。
「もしかしたら、道を間違えたのかも」
陽ノ華はふと口に出した。
思いあたる理由としてはそれが一番妥当ではあった。
先ほどから自分達以外の旅人がいない点について気にしていたが、これならば説明がつく。自分達がうっかり道を間違えて橋のかかっていない道を選んでいたならば、続く者もいないのは当然だ。
それに深い霧だ、少し先も見えない状況で間違えることはよくあるだろう。
心の中で納得しかけた時、五郎とドラガから同時に声が飛んできた。
「そんなわけはないです!ここしか道はないんです!」
「なんだ、そうしたら『上の道』が正解じゃないか!」
「え?」
「ん?」
「は?」
霧の立ち込める中三人は顔を見合わせた。
ドラガは顰めた顔をし、五郎は戸惑いからか左右を見回している。
「柴浜村から隣村には村人含めてよく人が行き来しますが、分かれ道なんて無いです!僕も何回も行っているから本当です!」
縋るように声を上げる。
五郎の言い分を陽ノ華としては信じたかった。自分が村へ行く道中でも分かれ道らしき場所は見当たらなかったし、五郎の誠実な人柄を見て嘘をついているなど信じられない。あの焦りようからして本人としてもどうしてこんなことが起こったのか理解が追いついていないのだろう。
「あの宿から分かれ道があっただろうが。見ていなかったのか?」
一方のドラガは眉間に深い皺を刻んでこちらを伺った。五郎ともども黙って首を振ると大きく溜息をついた。
分かれ道?あの宿?
今朝に宿から出立する直前までドラガは姿をくらませていた。霧の中から現れたのだった。
あの時どこに行っていたのかと疲れて質問しなかったが、ドラガは何かしらを見つけていたのかもしれない。
「そういえば出発する直前、あんた出歩いてたわよね。その時に道を見つけてたの?」
「見つけるも何も目の前から別れていた。少し歩いてみたがどちらも似たような道だったしな。ゴローに任せたらこの有様だ」
冷たい視線を感じて五郎は瞬きが増えた。
「ちょっと待って……ドラガ、あんたこの霧の中で道がわかるの?」
視線に立ち塞がるように陽ノ華はドラガの前に出て問いた。
「霧……?そんなものかかっていないぞ」
また三人は黙って顔を見合わせた。
混乱と沈黙が過激な言い争いに発展する前に、元来た道を遡ることとした。
威張り散らしていたドラガも他の二人の尋常ではない表情と自分を見る目に耐えきれなかったのか、まぁいいとだけ返し棺桶の上に座り周りを見ている。
五郎は陽ノ華と同じく霧があることに異論を持たなかった。この山道は霧が時たま出るようで不思議に思うことはなかったのだ。ただ訝しんでいたのはドラガの言う宿前の分かれ道のことであり、そんな風に別れている筈はないとしきりに繰り返していた。だが橋の架かっていない道の存在を聞くとだんまりになる辺り、彼もまた飲み込まざるを得ないのだろう。
陽ノ華としては段々とこの話題の堂々巡りや誰が悪いかの追及より先に、隣村に辿り着きたい気持ちが優っていた。だから一旦宿に戻ろう、来た道が間違っているなら別の道を歩けばいい、と声をかけたことは間違いではない筈なのだ。
だがそれも少し歩みを進めていくうちに話が変わってきた。
「あれはさっきのデカブツか?」
顎で示す先は霧に包まれていた。しかし岩山の如き殻の輪郭がぼんやりと浮かび行きがけに出会った塗壁だとすぐ判断できた。
ただ前と違うのは道を横切りきっており、山肌に沿うようにゆっくりと降りていた。かなりの傾斜だというのに滑ることなく着実に降りており、側からみれば巨大な落石が蝶の羽ばたきより遅い速度で転がり落ちるのを眺めているようだった。
「あんなところ進めるんだ」
五郎がこぼした言葉に心の中で頷くと、遠くから音が聞こえてきた。
しゃき……しゃき……
掌より小さい物を鳴らすような、米を研ぐような音が霧の向こうから聞こえてくる。
陽ノ華だけではなかった。五郎も不安そうに辺りを見回し、ドラガも棺桶の上に立って全身で音の出る先を探っている。
「この音、一体何かしら」
「あっちから音がするな」
陽ノ華の言葉を無視してドラガは棺桶から降りると一歩、また一歩と道を進んでいく。
五郎と顔を見合わせ、白梅を優しく撫でながら静かに後に続いた。
来た道を戻るのかと思いきや、道の側の藪に躊躇なく突っ込み、笹や低木を突っ切るようにドラガは進む。付かず離れずの距離でないと霧が彼の姿を攫ってしまい枝を踏む音や葉を掻き分ける音でしか判断ができなくなることを恐れて、息を乱れさせながら背中を負った。
悪路ではあったが不思議なことに全くの整っていない道ではなく、少し広い獣道が歩けるように土が平されているのは幸いであった。
だが馬を引き連れつつ後ろには棺桶を括り、さらには身軽ではないとあれば快適ではない。白梅や五郎の呼吸や蹄の音が崩れてきた頃、陽ノ華は声を上げた。
「ドラガ、ちょっと待って!」
その声すらうまく喉から出てこなかった。咳のようにつっかえて出てくる言葉に自分でも驚き、大きく息を吸って吐く。
すると陽ノ華の目の前、ドラガの背との距離がぐいと縮まり背中に顔面を打った。ドラガが足を止めたのだ。
「…….急ぐのは分かるけど、もう少し冷静になって」
「ここだ」
陽ノ華の忠告を珍しく聞いたわけではなかったのだ。鼻を押さえている間、こぼすように出たドラガの言葉に一瞬何のことか分からず横に立って同じ方向を見た。
「ここ、村?」
目の前には包み隠すような霧は忽然と消えていた。
藁葺き屋根の家々が所々に並ぶ訪れたことのない村がそこにあった。
人影は無い。だが、どこに人がいるかよりも先に目を引くのは、眼前に広がる家の多くが上から大岩が落ちてきたかのようにひしゃげていたり、悪漢か猪が突撃したかのように壁や床が破壊されている様相であった。
「こんなところに村があったなんて…」
しぼり出すように声を出した五郎は地面に転がる桶を拾った。古いものではなかったが底は渾身の力で殴ったように大穴が開いており本来の役目を果たすことはもう出来なかった。
「……て…か……」
異様な村の有様に誰もそれ以上の声を出さない束の間、風に流れて何かが聴こえてきた。
三人は足音を極限まで潜め、耳をそば立てた。
声は川縁から聞こえてくる。
霧中で聞いた物音がいまだ聞こえ続けて声を隠していることもあり、緊張が三人の間を支配した。
「小豆洗おか、人取って喰おか…」
川にどんどんと近付きやっと声が淀みなく聞こえてきた時、陽ノ華は何を言っていたのか意味を反芻するのに一瞬思考を割かれた。
そのせいか風より素早く飛び出したドラガを制することが出来なかった。
「おい貴様!」
「ぎゃあ!」
考え事を遮るような大声にはっとするとドラガは何者かの肩を掴み、川縁の地面に押し倒していた。ドラガの背中しか陽ノ華の目には見えないが、地面に押さえつけられた人影の正体ははっきりと確認できた。
陽ノ華より低いであろう背丈に見窄らしい服を身につけている小男であった。
頭の上は禿げてわずかに側面に残すのみとなり、顔は鼠を真正面から見たのを誇張したように、吊り上がった目と黄ばんで飛び出したような歯が印象的であった。
これだけの姿なら通常ならば近寄りがたい印象を受けるが、今はドラガの手により怯え弱々しく呻いてきた。
「ひぃ……お情けを……」
細すぎる腕と手の指が北風になびくように震える。よく見ると彼の側には何かが落ちていた。
「別に俺は呼び止めただけで……何だこれは?」
「これは小豆ね」
陽ノ華はドラガの後ろまで近付き、桶の中身を覗いて言った。赤茶色の爪先くらいの豆が水を弾いてきらきらと光っている。
「何だ紛らわしい」
ドラガは小男から手を離しその姿を見据えた。
「男、ここはどこだ」
よろよろと立ち上がった小男は怯えた視線を三人に投げる。そして枝ぐらいに細い手を組み、ぽつぽつと話し始めた。
「こ、ここは…『うろ』の村でございます」
「そんな村、聞いたことないぞ」
陽ノ華の後ろから絞り出すような声が出てきた。
五郎は真剣な顔で首を捻り、不可解そうに小男と周りの景色を見回している。
陽ノ華もそんな村の存在は知らなかった。ただ地図を読んでいなかったから、という理由ならわからなくもないが、近くの村に何年も住んで隣村と行き来さえしている五郎でさえも知らなかった場所とはあり得るものなのか。
心境としてはドラガも同じなのか、五郎の姿を見てこう言った。
「隣りの村に住んでいる男があぁ言っているが」
「それはそうでございましょう……貴方様が招き入れたのでは?」
「は?俺がか?」
逆にドラガが面食らう番であった。
「ここに来たいと思って訪れたのではないので?」
「そうでなければお前を突き倒して此処がどこだなんて聞くわけないだろうが」
「あぁ……それは確かに?」
「それに、あんな霧深い中に村があるなんて、俺は思いませんでしたよ」
「霧……?」
「えぇ?」
小首を傾げる小男に突っかかるドラガを横目に陽ノ華は静かに考えた。
近くに住む五郎でも知らない「うろ」の村、視界を隠し村に着いた途端に晴れた霧、小豆を持っていた小男、ドラガがいたことでここに来れたのだと言いたいような小男の言葉。
何かが繋がりそうで繋がらない。
しかし、この眼前のつまらない漫才に切り込むように一つの仮説を陽ノ華は溢した。
「ここ、隠れ里ね」
ドラガと五郎が同時に陽ノ華に目を向けた。
「それであなたはおそらく、小豆洗い」
小男のじっとりとした目がこちらに向いた。
その目を見て姿勢を正し、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなたが何か危害を加えない限りは私も何も仕掛けません。ここが隠れ里ということは人間に見つかりたくないからあるのでしょう」
小男、もとい妖怪小豆洗いは怯えの色を含んだ目を伏せた。
陽ノ華は小豆洗いという妖怪は耳にしたことがあっても人を襲ったという事例は聞いたことがなかった。小豆を洗う音で人を怖がらせるなんて説もあるが、荷を攫ったり作物を盗む等の実害を及ぼさない限りは然程気にしなくてもいいとまで昼巫女のうちでは言われていた。
妖怪の中にも人を襲わないものもいる、というのは昼巫女の修行の中で知ったことである。彼等は野兎や雉と同じで人間を恐れていると言う人もいた。
そんな存在も纏めて退治すべきだと言う勢力もいるが、陽ノ華は正直そうは思わなかった。
「この村はどんなところなのか、教えていただけますか」
小豆洗いは静かに口を開いた。
「『うろ』の村は人を恐れる妖怪しか住まぬ村でございます。普段は人を塗壁と妖気の霧で追い払っております」
「成程、どおりで……」
「妖怪の気を感じてこの村の道は開かれます。なのでこの方によって村へ着くことが出来たのかと」
「そこで俺か」
ドラガと五郎は納得した様子を見せた。
おそらく妖気の霧は妖怪にとっては視界を隠す意味をなさないものなのだろう。ならばドラガが霧を確認出来ていなかった理由が分かる。
陽ノ華としても塗壁は小豆洗いと共に現れることがある噂を思い出して心の中で頷いていた。
だがもう少し気になることがある。
「どうしてここまで荒れているので……?」
この村に人気、いや妖怪の気配は全くない。
人がいないならば煮炊きや賑わいの声が聞こえないのはあり得るかもしれないが、それでも残骸に成り果てた家に住むには無理があるのではないか。
長閑な風景が広がっているが荒れ果て潰れた家家がどうしてそうなっているのかの見当はつかなかった。
陽ノ華の言葉に神妙な顔をして小豆洗いは告げた。
「この村はある妖怪に襲われたのでございます」
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