第4話 吸血鬼、旅立つ

 土の匂いを懐かしく感じるなんて思わなかった。

 木漏れ日の注ぐ山道を陽ノ華は歩き、新鮮な思いを巡らせた。

 海も嫌いじゃないが山に近いところで育った身としては緑の香りに包まれ駆け回ることが懐かしい。


「白梅もありがとうね」


 白馬がブルルと鼻を鳴らし、陽ノ華の花笠と同じように花の飾りを編み込んだたてがみを揺らした。

そよぐ風には野の花の匂いも混じり陽ノ華は目を細めた。

 寒すぎず暑すぎない気温の中、陽は穏やかに差し込み、風は撫でるように優しく吹く、ここで昼寝なんて出来たらなんと幸せなことだろう。


「おい、まだ着かないのか」

「……当たり前でしょう、あんた話聞いてたの」


 行きには白梅に括り付けていなかった縄から伸びる黒く長い箱から声がする。

 聞けば棺桶だったか、死人を入れておく為の箱だというのにいささか上等すぎやしないか。

 そんな棺桶の中に入って、件の妖怪、ドラガは運ばれていた。



 話は少しだけ巻き戻る。

 夜の海にて怪魚磯撫を斃したドラガは貪るようにその屍体を食らっていたが、腹が膨れたといって舟に戻りそのまま寝始めた。

 陽ノ華の都に来てほしいとの頼みに応えもせずに。

 傍若無人な様に舟に残された二人は呆れかけていたが、何はともあれ助かったと、海から落ちる原因となった岩屋に戻り、そのまま五郎の家で体を休めるに至った。

 濡れて使い物にならなくなった霊符やらは仕方ないとして、殆ど傷もなく生還できたことに今更ながら陽ノ華は驚いた。

 五郎は命を救ってくれたことに土下座する勢いで二人に感謝を伝え、快く衣食を提供してくれた。

 土間と竈の他には寝るところが一部屋しかなかったが文句は言っていられない。陽ノ華が着替え終えてから五郎は部屋に上がり、獲ってきた魚を焼き始めて馳走になった。


「腹が減った」


 夜が過ぎ、朝の早い頃に家に転がり込んで寝ていたドラガがむくりと起き上がりそう呟いた。

 冷えた身体が温まり眠気が襲ってきた陽ノ華はその声に無理矢理起こされる。

 五郎は朝市から何か買ってくるからと少し前に出て行っていた。


「さっき磯撫をあんなに食ってたのに」


 不機嫌そうな顔と顔がかち合うと、またドラガの腹から大きな音が出た。

 無言でドラガは囲炉裏の串に刺さった焼き魚を掻っ攫いがつがつと食べ始める。服は襤褸になってしまったため五郎の服を貸してもらっているようで紺色の着流を見に纏っていた。

 自分の朝飯まで取られてはたまらないと、串を一本手にし陽ノ華もゆっくり食べ始めた。

 食べている時間、何も話すことはなかった。


「帰りに話したことだけど」


 互いに食べ終わる頃、陽ノ華は切り出した。居住まいを正し、真っ直ぐ見据える。


「一緒に都まで来てくれるかしら」


 銀の髪が朝日に照らされ、昨日の夜とはまた違った煌めきを見せていた。赤い眼はじっとこちらを見つめ、ゆっくりと瞬きしている。


「いいぞ」


 ずいぶんとあっさりとした返答でいささか拍子抜けしてしまった。


「理由を聞いても?」

「ここに居ても腹が膨れないことが分かったしな。お前といれば妖怪を食って腹が満たせるとみた」


 気まぐれか、敵を手元に置く算段かと疑ったが、ドラガの解答は至極単純であった。

 妖怪を食うことでしか腹を満たせず飢えが続くならば、退治する人間の近くにいた方が効率がいい。妖怪に会える確率も倒せる確率も上がる、というわけだ。

 これは桜花仙の「昼巫女の力となり得る」というお告げ通り、昼巫女の立場としても戦力が増えたことに等しい。そして陽ノ華及び人の血を好まないとあれば、安全面は担保されていることだろう。

 ……首の縄のこともあるし。

 陽ノ華はドラガに見えない様に懐で霊力を手に込めると縄の様な感触を確かめて、手を離した。

懸念すべきはドラガの力だ。

 ドラガ自身が強力な妖怪であることはこちらとしても認識している。磯撫程の巨体を蹴り飛ばす膂力を持つ妖怪と協力することは熊や大猪を手懐けるより難しいだろう。何より気まぐれで食料目的でなくこちらの首の掻き切ることだってありえるのだ。

ならばこちらも相手を翻弄までいかなくとも制御できる術がなくてはいけないだろう。

 命綱は何本あってもいいくらいだ。

 腹を括り一呼吸おいて陽ノ華は答えた。


「わかったわ、あなたを都に連れて行きます」

「おう、疾く連れて行け」


 にやにやと笑いながらドラガは言った。

 何とも偉そうにするところだけは気に入らないが。

 だが都までの辛抱だ。順調にいけば十日少しで到着する。都には日輪の総本山があり桜花仙はそこにいる。桜花仙に報告し、この男を突き出せばいいだけの話なのだ。

 荷物を纏めつつ、地図を出し陽ノ華はドラガに旅程を説明することとした。


「早くても今日の昼出れば隣の村まで夜には着け……」


 すると遮るように横やりが入った。


「待て、行く前に持って行きたいものがある」



「そう言って持ってきたものがこれってさぁ……」


 そして時は進む。棺桶をずるりずるりと引き摺る羽目になろうとは思っていなかった。

 白馬の白梅号を移動手段として連れていなかったらどうなっていたことか、少なくとも最短の日数で辿り着くことは不可能だろう。


「仕方ないだろう、俺はこの中で寝るが好きなのだ。むしろこれを運ぶことで何処でも寝てよいと許可を出しているようなものだぞ」


 眠れないわけじゃなくてただそこがいいというだけの理由なのが腹立たしい。しかも逐一宿を取らなくてもいいだろう、と傲慢な親切心を出しているつもりだが余計なお世話だと言う他ない。


「それに唯一この身以外で共に流れ着いた物だ、何かしらの価値はあるのではないか?」

「ただの悪趣味な箱でしかないわよ」

「なんだと!」


 結局運んでいるのは白梅なのだし、陽ノ華としては申し訳ない気持ちであった。白梅は陽ノ華にとって大事な友に他ならない。都で修行を積んでいる時からこの馬の世話をし、種が違うだけの姉妹みたいなものである。

 疲れもみせず黙々と進む白梅のたてがみをゆっくり撫でた。


「あはは……それにしても短い間でしたが別れが名残惜しいです」


 棺桶のそのまた後ろから五郎が声をかけた。

 彼は別れに際して、幾つかの食料と隣村までの見送りをしたいと言ってきたのである。

 そこまでするのは悪いと何度も断ったが命の恩人にできるだけのことはしたいと言って食い下がらなかったのだ。


「私もです。この男はどうだか知りませんけど」


 棺桶の蓋がガタガタと揺れ何か叫ぶ音が聞こえる。また文句を言ったのだろうが蓋を開けてまでドラガは顔を出そうとはしなかった。


「……ドラガは昼に活動はしなかったですか?」

「そういえばそうですね。夕方起きて日の出くらいにいつも寝ていたような」


 昨日棺桶を五郎の家までやっとこさ引っ張り上げた時には、結局夕方になっておりそれまでドラガは大の字で寝ていた。夕飯まで馳走になって明日の朝出発しようと話していたときに、むくりと起き上がりつまらなそうに話を聞いていたのを見た限り、人間とは昼夜逆転した生活を送っているのかもしれない。

 妖怪の習性としては昼は大人しく夜に活発になるものは少なくない。

 夜の方が不意打ちがし易いとも言われているが、一人で山道など人気の無い所でもよく遭遇するという。野盗の類いに近いのだろうか。

考えを巡らせていると不意にごとり、と棺桶から音がした。

 棺桶の長い蓋を開け、不満そうにこちらをドラガが見ていた。成程、日が出ている時に行動出来ない訳ではないようだ。


「喋っている暇があればさっさと進め。そのオウカセンに会うにはまだかかるんだろう。ちんたら進めば俺が飢えて逃げだすかもしれんぞ」


 脅しなのか分からないことを言うが、とどのつまりはまた腹が減ってきているのだろう。五郎の背負った荷物から干し魚を奪い取り、不服そうに齧り始めた。

 この男の言い分に腹が立つが、歩みを早めることについては異論はない。しかし白梅号を酷使させたくはない。


「出来る限り最短の道のりで行くつもりよ……あれ?」


 視界の先に人が見えた。

 しかも一人だけではない、何人もまばらにおり親子連れや馬を連れた商人も山道の先へ先へと進んでいる。


「そうか。村の市が今日終わったから、みんな隣村に行く途中なのか」


 五郎が合点が言ったように声を上げた。

 そういえば柴浜村の市は今日が最終日であったようだ。市で買った物を隣村へ持って帰る人や村の外から来て出店したのを畳んで別の地へ移る人、逆に柴浜村の品を隣村まで売りに行こうとする者と思しき人々が見える。

 こんなに人がひしめく理由は簡単だ。隣村までの道はここしかないのである。

 道の片方は山の斜面が切り立っており、もう片方は崖になっている。川のせせらぎが聞こえてはくるが、その姿は見えないほど鋭角になっており、一度転がり落ちれば無事でいられないだろう。

 やっと人が通ることのできる場所を開拓したのが今歩いている道なのだ。


「こんなに人がいっぱいになるんですか?」

「そうですね、今日はやけに多いけれどこの道は広くないからなぁ」


 陽ノ華にとってはここを通るのは二度目にあたる。行きでは全く人を見なかった訳ではないが、それでもここまでの人の多さではなかった。行きの道程でも見た地蔵には真新しい供物が置かれて山のようになっており、ひっきりなしに往来していたことを見せつけていた。

 そして地蔵の真横に来たくらいで陽ノ華達一行はぴたりと歩みを止めてしまった。

 人が細い道に鮨詰になっているのだ。


「そうだ、ここは細い道になってたんだった」


 白梅から下りると陽ノ華は人混みのいく先を目を細めて眺めた。

 そこは崖が崩れたのか道が半ば途切れ、簡易的な丸太橋が掛かっている。橋はそれほど新しくもなく、端を踏めばみしみしと音を立てて冷や汗をかいたのを思い出した。


「ほれ、行け!早よ進まんと帰れんぞ!」


 ちょうど丸太橋の前には黒々とした牛が大荷物を背負って立ち尽くしていた。その後ろでは牛飼いが紐を牛の尻に当てて先を促しているが、唸るだけで一向に牛は動こうとしない。

 まぁ動けない気持ちもわかる。足を踏み外せば崖下へ真っ逆さま、足元の木は多くの人に踏まれ虫に食われ雨晒しで朽ちかけている。人でさえ足がすくむのだ。

 牛飼いもこの様子に相当困っているようだった。申し訳ないと後ろの人々に時折謝りつつ、牛を再度けしかけるが全く進展がない。

 後方の人混みはこの状況に困惑しつつもどうしようもなくなっていた。

 苛立つ者もいれば仕方ないと座り込む者、一旦村に帰ろうと元の道を歩こうと言い出す者もいる始末だった。


「大変なことになってますね」


 数人に声をかけて状況を掴みつつ、丸太橋の前まで来たものの陽ノ華もどうすることはできない。ざわめく人のうちには昼巫女だからなんとか出来ないか、と無茶振りをしてくる人もいたが生憎橋の増設や補強は専門外であった。

 せめて牛を進ませられたならば何か変わるかもしれない。大荷物の人もいるがこの牛より重い物は見たところおらず、この丸太橋は人が一度に沢山通らなければ進めそうではあるのだ。

 そして、そのことに気づいた途端後ろから声がした。


「おい、何をもたもたとやっているんだ」


 ぬうっといつの間にかドラガが後ろに立っていた。

 足音も影も無く突然現れた男に周りの人間も驚きどよめいている。


「見て分からない?あの牛が橋を通らないから人が詰まってるのよ」


 陽ノ華も勿論驚いたが、顔に出さず冷静に振る舞った。本当にどうやって来たのだろうか。ドラガは普通に歩いて来たような平然っぷりである。


「あの牛か?そんなの思い切り尻を蹴ってやればいいだろう」

「ちょっと待ちなさい!」


 佇む牛に歩み寄ろうとするドラガをぐいと引き止めた。正確には彼の首飾りに付けた術であるが。

 昨日の磯撫との戦いを思い出す。空腹時とはいえ人間を凌駕する跳躍力に膂力、舟ほどの巨体の魚を吹き飛ばす蹴りの力を持っている、そんな男が牛を思い切り蹴る?想像したくもない。橋を飛び越え、吹っ飛んで姿が見えなくなるくらい遠方に吹き飛ばしかねない。

 それは人のため、牛のためにならない暴力的な解決策だ。避けなければならない。


「じゃあどうするつもりだ、お前が何とかするのか」


 首の締まりに不快感を見せるドラガは牙を剥けながら陽ノ華に向けて文句を垂れる。


「なんかこう、もうちょっと穏便な策を……」

「知らん、お前で考えてやれ」

「ちょっと!」


 風より気まぐれな男は陽ノ華の手を払い除け、棺桶の元に戻ろうとしていた。

ドラガの馬鹿力の使い道次第ではある、その筈なのだ。

 そしてどう使うか、そしてじゃじゃ馬めいたこの妖怪をどう乗せるかが問題なのであって。

 人混みへ戻るドラガの後ろ姿がまだ僅かに見える時、咄嗟に口が回った。


「……そうよね、ドラガみたいな力自慢でも牛を乗せて橋を飛び越えるなんて難しいわよね?」


 思ったより大声が出てしまったが、それが逆によく働いた。

 途端ぴたりとドラガの動きが止まり、鬼のように顔を顰めて振り返った。

 目は吊り上がりぎらぎらと輝いている。

 周りの人々も異様な気迫と様相に目が奪われ、ドラガと陽ノ華を交互に見つめている。


「貴様、何だって?」

「言った通りのことよ。牛を抱えてピョンとあそこを飛び越える器用さ、あんたは持ってるの?」


 大股で怒鳴りながらドラガは戻ってきた。ただここまでのせやすいのはいささか心配になるが、今はどうこう言っていられない。

 周りの人間、尻を叩いていた牛飼いすらも手を止めて何だ何だとこちらを伺っている。この状況を打開できる策をこの異様な風体の男がもたらすのか、面白半分すがる気持ちで半分といったようだ。


「できるに決まっているだろうが!」


 吠えると同時に、旋風のように走り出す。

 と思えば既に荷物を積んだ牛を俵のように左肩にどっかり担いでいた。


「に、兄さん。気持ちは嬉しいが無理はやめてくれ」


 目を白黒させて牛飼いの男が止めようとするも、ドラガの鬼の形相と威迫に気圧されて強く言えなかった。


「うるさい!見ていろ!」


 両脚を肩より広く開き、ぐっと腰を落とす。そのまま四股を踏むような体勢でゆっくり息を吸い込む。

 数秒止まったかのように見えた。

 瞬間、ドラガと牛の姿は人々の目線のもっと上、山肌から伸びる木々より高いところにあった。

 彼の飛ぶ瞬間があまりにも早く、誰の目にも映らなかったのだ。

 人によっては彼が消えたかのように見えただろう。

 抱えられた牛も自分が飛んでいることに気付かず、鳴き声を上げていない。

 そして、どすんという音と共に丸太橋の向こうにドラガと牛が着地していた。

 あまりにも高すぎたのか、衝撃に耐えるための足が脛まで埋まっていたが。


「こんなの朝飯前だ」


 その姿を目にした途端人々は歓声を上げた。

 前の方で見ていた人から徐々に後ろに、波のように広がっていった。

 それを皮切りに橋を人々がずんずんと渡り、道を進んでいく。

 陽ノ華と牛飼いが一番に橋を越え、ドラガと牛に近付いた。


「ありがとうございます!牛も無事なようで」

「いえいえ、こちらこそ突然ですみません」

「おい何でお前が答えるんだ」


 牛もいつの間にか渡っていたことに気づいたらしく、先に進もうと言わんばかりに声を上げ始めた。

 不服そうなドラガの顔を押し退けながら陽ノ華は声を顰めて告げた。


「あんたが妖怪じゃなくて力自慢の人間だって言い訳しとくからチャラにしてよ」

「何だと……別にバレてもいいだろうが」

「いいから!少し黙ってて」


 何とか立ち往生は打開できたが、咄嗟のことで煽ってしまい、そして思った以上に上手くいってしまったこの状況はよろしくない。

 人間離れした技を見せたドラガが「人間離れ」た妖怪と分かったら、ここにいる人達を怯えさせてしまう。しかも人を襲う妖怪だと思われたら(実際襲ってもいるが)最後、細い道で混乱を招き事故を起こしかねない。

 しかも、あの言い方では妖怪を退治する昼巫女という立場の自分がまるで妖怪に命じたようにも見えてしまう。

 いや間違ってはいないのだが。妖怪を妖怪でもって退治する策は昼巫女の内の計画であり一般に浸透はされてはいない。何故昼巫女が妖怪を従えているのか、真面目にゆっくり説明する手もあるが、先を急ぐ身でもあるため、今は「ドラガは力自慢の人間である」という嘘を痛む心を抑えてついてしまった方がいいかもしれない。


「彼は、えーと、妖怪退治のために訓練を積んでいる者でして、むしろこちらがすみません。ほとんど無理矢理のような形で」


 深々と礼をする。牛飼いも納得したのか、深追いせずににこやかに笑いながら感謝を伝え、牛と共に先ゆく人々の流れに飲み込まれていった。

 ドラガを振り返ると鬼の形相は取れ切れておらず、憎憎しげな眼差しを陽ノ華にぶつけていた。


「あはは……」


 その答えとして陽ノ華もドラガに苦笑いを返すしかなかった。


「お二人とも、先に渡っておられたんですね」


 五郎が白梅を連れて渡ってくるまでこの睨み合いは続いていた。



 さてもう一日進んで行った先、隣村とのちょうど間に位置する旅籠の辺りでドラガ達三人と一頭は休んで出立の準備を整えていた。

 旅籠ではあるが部屋は大部屋しかなく床も柱も所々傷んでおり飯も出ない簡素な場所であったが、隣村まで夜通し歩く人以外はほぼ使うため大部屋にはかなりの人が滞在していた。

 陽ノ華は昼の一件があったため旅籠で人に囲まれることを避けるように出来ることなら夜通し歩いてしまいたかったが、思ったより疲れが出てしまったことと五郎や白梅達も無理して欲しくない気持ちから提案した。

 ドラガだけは夜通し歩いてでも進みたがっていたが、その理由は部屋の中に入って判明する。


「昼巫女様の連れで妖怪退治の強者なんだと」

「派手な髪と目は呪いかしら?厳しい修行されたとか」

「牛を抱えて跳んだんだ!おれは見たぞ」


 昼間の牛を担いで跳躍したあの場を見ていた者、見ていないが噂を聞いた者がこちらに好奇の目を向けて矢継ぎ早に声を掛けて来て、この日の部屋の話題はドラガ一行の件で持ちきりだった。

 じろじろと不躾にこちらを伺ったり、牛を担いだのは本当か、昼巫女の加護が欲しいといった声かけをひっきりなしにされて、こんな状態では休めるものも休めない。

 しかもいつのまにかドラガは姿を消しており、人々の会話の担当は陽ノ華が一手に引き受けていた。

 雀の涙ほどの睡眠を取ったものの疲れは取れきれることなく朝を迎えてしまった陽ノ華と五郎は、出来るだけ他の旅人と出向く時間をずらそうと朝霧の立ち込める中準備を進めていた。


「もう行くのか」


 霧の中、ゆらりと影が現れる。

 どうやら外に出ていたドラガが入れ違いで宿に戻ってきた。


「あんたがいないせいであたしが質問責めにあったのよ……」


 今の陽ノ華には強く言い返す力も出ない。

 やっとこさ顔をはたいて気を引き締める様子を五郎は心配そうに見つめ、ドラガは馬鹿にしたような笑いを浮かべながら棺桶の蓋を開けて中に入った。


「じゃあ俺は寝るから」


 蓋が閉じる寸前の指を蹴ると閉じた棺桶が喚きながらがたがたと揺れた。



 霧の中では一寸先も見えない。そのことは覚悟していたが、この山の中では致命的であることを歩き始めてすぐに実感した。

 空気は昨日の昼よりも重く湿り気を帯び、しっとりと衣服と荷物を濡らしていく。

 肌に張り付く不快感と共に、太陽の光が届かない時刻なことも併せて陽ノ華たちの体温をじわじわと下げていった。

 夏に片足をつけたような春の昨今であるというのに、暖かさは微塵もないが、汗の代わりに浮かぶ水気は似たような気持ち悪さを加速させた。

 それでも文句を言う暇はない。陽ノ華は険しい顔で少しずつ慎重に、崖へ足を踏み外すことのないように出来るだけ山肌に沿って白梅号に乗り歩いて行った。


「あっ見てください!」


 道を知っているからと白梅号を導くように先を歩いていた五郎から声が上がった。

 指差す先を見ると朽ちかけた看板があり、何か書いてある。


「この先の吊り橋と村を指す看板です。もうすぐですよ」


 陽ノ華の顔に少し明るさが戻った。やっと陽が差してきたこともあり、身体の冷えは徐々に取れていった。

 このままなら夜にならないうちに隣村まで行けるかもしれない。早めに宿を取って体を休めたい気持ちでいっぱいだった。

 聞けば隣村は飯の旨い大きな宿もあり、温泉もあるのだという。海につかった身としては魅惑的であった。

 ドラガはともかく五郎は同じような気持ちなのかもしれない、浮き足だつのを抑えるように少し歩く速度が速くなった。

 霧の中へ隠れるように先を行ってしまったが特に止めはしなかった。五郎は迷うこともない一本道だとも言っていたし問題なく進んで行けるだろう。

心にこびりつく不安や不快感が薄くなっていくのを感じる。

 深く息を吐いて前を凛と見据えて白梅号を走らせた。

 暖かい布団と飯そして湯が待っている想像を巡らせていたが、思ったよりも早く声が聞こえてきた。


「あ、あれ?」


 霧の薄くなりかけた道のど真ん中に五郎がいた。

不可思議そうな顔をし間抜けに声を上げ、道の先の空気にへばりつくように手を前方に出してはまた別の場所にと移している。だがその手はある一定の奥から先まで行く様子を見せない。


「ど、どうしましたか?」

「見えてるのに先に進めません!」


 白梅号から下りると絶望した表情で五郎は迫ってきた。


「ええ?そんなわけ……」


 陽ノ華は五郎と位置を入れ替え、ゆっくりと手を伸ばす。目に見えている限りではそこは霧が立ち込めているだけで何も触ることはなく空を掴むだけだ。

 だが指先の爪にこつん、と固いものが当たった。

ぐ、と押し込んでもある一定の空間から先へは進まず指は爪を起点にへばりつくように下へと展開されていった。

 掌で壁を押すような感覚があるが傍目から見たら手を翳している様子であり、陽ノ華を混乱させる。


「どういうこと?」


 次は拳を作り叩こうとする。これほどこの拳が当たって欲しくないと願ったことはなかったが期待には添えず振りかぶって下ろされた拳は突っかかるように、また空中のある一定の場所までで止まってしまった。

 叩いても何も音はない、触った感じもただ固いとしか言いようはない。

 別の場所に向けて同様に触ったり、撫でてみたりとしたが変化はない。道幅の端から端まで試したが、崖先まで手を伸ばしても同様であった。

 霧由来ではない冷や汗が背中を伝う。

 陽ノ華の足先、二尺もないところに透明な壁がある。

 そうとしか言えなかった。

 振り返ると困惑した顔の五郎と目が合う。陽ノ華自身も同じ顔をしているだろう。

 全身の体重をかけて押し込むも空気の壁は動く様子を見せず、霊符を飛ばしても空中に張り付いてしまった。

 霧は薄くなっていたと思ったらまたたちこみ始め、冷や汗と不快感を増長させた。

 どうしよう、どうすればいい。

 焦る心が影を落とす。

 やれることがいよいよ見つからず膝を折って肩で息をし始めた頃、陽ノ華の後ろから重い蓋が開く音がした。


「また詰まっているのか」


 あくびと共に出てきたドラガが胸元を掻きつつ近寄ってきた。


「透明な壁があるのよ!意味わからない!」


 陽ノ華は声を荒げ叫んだ。

 寝不足と肌に張り付く不快感、予定通りに行かない苛立ちに焦燥感、妖怪の仕業と断定出来ない不測の事態への不気味さが陽ノ華の心をじわじわと余裕のないものにさせていた。

 山道に木霊する叫びに五郎は心配そうな目を向ける。そのことに苛立ってしまった自分の心が狭くて嫌で嫌で仕方ない。

 ドラガは眉間に皺を寄せて見下ろして呟いた。


「そりゃあそんなにカリカリしていたら見えるものも見えんだろうよ」


 その言葉に考えるよりも早くドラガの襟首を掴んでいた。

 冷えた目がじっと見つめる。


「っあんたねぇ!あんたのせいで予定は狂うわ、眠れないわで……」


 言葉が矢継ぎ早に出ると思ったが、胸元まで来て止まった。陽ノ華は思い出していた。

 この旅の前、初めての巫女としての使命を果たさんとする直前に何度も叩き込まれた心構えだ。

 心が恐怖や焦りで荒れ狂い、惑っているときほど妖怪はそこにつけ込みやすくなる。

 妖怪でなくてもなんでもない些事が大事のように見えて自滅することもある。

 夜道で妖怪が音を立てて脅かしたと思えば実態はただの草が擦れた音だったなんて例があるくらいだ。

 警戒を怠らず、さりとて恐れを抱きすぎてはいけない。

 平静な視点でなければ真実は見えない。

 分かっている。こんな状況でこそ冷静になり、周りをちゃんと観察すべきなのだ。

 ドラガの襟首に伸ばしていた手を下ろし、目を瞑ってすうと深呼吸する。

 再び目を開けるとドラガが未だ見下ろしていた。だが眉間の皺は少し薄くなっていた。


「気は済んだか」

「……突然怒鳴ったことは謝るわ」

「素直に受けてやろう」


 鼻を鳴らしてドラガは笑った。

 振り返り進めない道の先に向き直る。


「ドラガ、あんたもこの先にどうやって進むか色々探ってくれる?」

「ふぅむ……?」


 二人を押し退けてドラガは先頭に立つ。

 そしてさっきまでの陽ノ華と同じように手を出し、四方八方へ動かして探っていた。

 結果として同じようにある一定の先からは腕が伸びない、と思っていた。


「お?ここからは伸びるな」

「え!?」


 山肌に一番近い道の端、そこからのみドラガの生白い手が奥まで伸ばされていた。

 隙間が出来ている。

 ドラガは伸ばした手で山肌と透明壁との距離を測っている。どうやら腕一本は伸ばせるが、身体の幅よりは狭いようだった。

 足元の小石を拾い、その隙間目掛け放り投げる。

開始は空中で跳ね返ることはなく、少し離れた道にぼとりと落ちた。


「さっき調べた時はなかったのに……」


 陽ノ華もドラガの後ろにつき、覗き込む。

 ふと、隙間であろう空間の下、山道が目に入った。

 濡れている。

 土が霧や朝露で濡れたものかと思ったが、よく見ると細かく光を反射している。

油のような、純粋な水ではない粘性を含んでいるような液体にも見える。

 その奇妙な湿り気を帯びた道は五尺か六尺続いていた。

 陽ノ華も小石を手に取り、山肌に一番近い所から対角線上に伸びる湿った箇所の少し手前に向けて投げた。

 かつん、と固い音を立てて空中で小石は跳ね返り土に落ちた。


「この壁、厚みがある」

「それにどんどん隙間が開いていないか?」


 そう言われて地面を見直すと確かに初め見た時よりも湿り気を帯びた面積が広がっていた。今なら少し無理をすれば人一人は倒れるかもしれない。

 そう思った矢先にドラガは身を乗り出し、見えない壁と山肌の隙間に体をねじ込んだ。


「変な感覚だ……足元がぬめるぞ!?」


 山を背にし、両手を慎重に動かしながら進む。一見広い道の端を進むように見えるが、彼の肩のすくめ具合や着物の不自然な皺やめくれ具合がそこにしか道がないことを示していた。

 そして足元からは水音が立ち、何かしらの水分がそこにだけあることも明白であった。

 道の幅は一定ではないようで中頃に来たあたりでうめき声をあげてドラガの足が止まってしまった。


「なんだ、ここだけ異様に狭い……!?くそっ」


 顔は見えないが焦っている声が聞こえてくる。

 八つ当たりのようにドラガの足が透明な壁の下部、地面との設置面すれすれを蹴った途端だった。

 ぐにゃり、と壁にあたる空間が歪んだ。

 視界は捻れ地面は隆起する。それ渦を巻く水面を覗き込んだような有様だった。

 透明な壁にあたる場所は捻れ波打ち、震えてそして……

 突然黒々とした岩壁が現れた。

 何が起こったか分からず陽ノ華は口を開いて呆然としていた。ドラガも目前で変わった視界に混乱しているようだった。


「なんだこのでかいやつは!」


 未だ崖側で探っていた五郎の声がして、陽ノ華ははっと気が付き駆け寄る。

 五郎は腰を抜かし、黒い岩の聳える先を指差していた。

 黒々と輝く岩の下部から赤土色のぬらりとした軟体が現れ、崖に向かって広がり、崖の壁面を沿うように頭があった。触覚が二対伸び、探るようにゆらゆらと漂っている。


「これは…蝸牛?」


 巨大な蝸牛、そう形容すべき生物であった。

 牛を四体ほど縦に高く積み上げたように聳え立つ殻は岩山としか形容出来ないが、数歩下って遠目から見れば蝸牛だと分からなくもない。

 触覚のみならず首と思しき箇所を上下左右に振って、自分を蹴った犯人を探しているようだった。


「おい!この黒い壁はなんだ!?」


 まだ挟まったままのドラガが叫ぶ。


「これは『塗壁』よ……多分」


 多分と付け足してしまったのは、姿を見たことも聞いたこともなく、塗壁の突然現れ行く手を塞ぐという性質しか当てはまるものがないためであった。


「こいつの対処法はあるんですか?」

「塗壁は待っていればいつのまにか消えていることがあるの。もしかしたら、このままずっと待っていればいいのかも……」


 五郎は立ち上がり、恐る恐る見つめている。

 塗壁と戦ったという話は聞いたことがないが、陽ノ華も念の為臨戦体制で塗壁を観察する。

 だが塗壁はこちらに気付く様子が何故かない。視界が悪いのだろうか。

 何にしろあからさまな敵意は無さそうだ。もしかしたらこの道を山から崖にかけてただ進んでいただけなのかもしれない。

 そうすれば初めに探った時には通ることのできなかった山側の道がいつのまにか通ることができるくらいまで空いたことの説明にはなる。

 このまま進んでくれれば無駄な怪我や争いもなく済むかもしれない。

 陽ノ華としてもこれほどの巨体であってもなくても敵意のない妖怪を攻撃するのは出来る限り避けたかった。

 少しして、気のせいだと思ったのか塗壁はまた正面を向き、崖下に向きなおった。そして、


「……おっそい!」


 蟻にも抜かされる速度で進み始めた。

 息を呑んで見守っていた五郎と陽ノ華であったが、そのあまりの遅さにうっかり声を上げてしまった。

 読み通りこの塗壁は山から崖に向かって道を横断するように進んでくれていた。

 放っておけばそのまま通り過ぎて陽ノ華一行は問題なく通れる、その筈でもあった。

 しかし遅い。遅すぎる。

 ちなみに進んでいる、と分かったのは殻に張り付いた霊符がじわりじわりと崖に向かって寄っているのに気づいたからであった。

 それでも注視しなければ気付かなかったであろうその速度は亀と同等、むしろ遅いくらいであった。


「こんな速度じゃ昼を過ぎてしまいそうですね」


 五郎も額の汗を拭きながらため息をつく。

 いつの間にか日は高く登り始めていた。

 なぜか昨日までいた旅人が後ろから来ていないことが気にかかったが、この事態を見て混乱を起きないのは幸いであった。

 それに加え、鳥のさえずりも聞こえていないことに気づいた。

 白梅は不安そうに鳴き、木々のざわめきがそれを増長させる。

 妖怪が出るような状況なのだ。いつ他の妖怪が出たっておかしくはない。

 滴る汗が足元の影に落ちたその時だった。


「何突っ立っているんだ」


 塗壁の向こうからドラガの声が降ってきた。


「ドラガ!あんた通り抜けたの!?」

「お前達がデカブツにうつつを抜かしてる間にな」


 どうやら山肌側の隙間が通り抜けられるまでには進んでくれたようだ。


「ねぇ、なんとかこの塗壁をどかすことはできない?」

「よく見れば進んでいるし、待ってればいいだろう」

「流石に遅すぎるわよ。このままだとあたし達が進むことが出来ないじゃない」


 少し間があって苛立った声が返ってきた。


「……知るか、勝手にしろ」


 土を踏む足音が奥の道へと遠ざっていった。

 なんと薄情だろうか!と言いたいところだがぐっと堪えた。それよりも塗壁の思うままにさせてやれ、といった口振りであったのが少し気にかかる。

彼もまた無駄な争いは避けたい性質なのだろうか。

 いや、今は長く考える必要はない。

 今一度目の前に聳える塗壁の殻に相対する。

 ドラガが通れるくらいまで広がったならもう少し待てば陽ノ華や五郎、白梅も通り抜けられるだろう。

 そうなれば隣村はもうすぐだ。

 白梅号を連れて山側の道へと歩みを進める。

 五郎も既に向こうへ渡っていたようで道の向こうから声が聞こえてきた。

 陽ノ華も意を決して一歩踏み出した時、五郎の呻く声といつの間にか戻ってきていたドラガの苛立った声が聞こえてきた。


「な、なんで、下ろしてください!」

「ゴロー、お前はこの先に吊り橋と村があると言ったな!」

「も、勿論です……」

「嘘をつくな!俺はこの先に行ったがそんなものは無かったぞ!」


 激昂する声が山々を駆け巡った。

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