第3話 吸血鬼、食らう
さて、少しだけ時間は進む。
陽が傾きかけ岩場の隠れ家に赤い光が差し込み照らしている。
波の音が響く中、陽ノ華と妖怪らしき男は一定の距離を保っていた。
陽ノ華は岩壁に背をつけ、男は黒い箱の上にまた座り直していた。
一触即発かと思われた爆発の後、互いに何もしない状態で喧嘩しかけた猫のようにそろりと伺っていた。
「…探し物ってこれのこと?」
懐から赤い宝石を取り出す。この村の市で老婆からほぼ無理矢理渡された品であり、おそらく外海から来た船が沈んだ際に海の底から引き上げられた物であろう。
夕日に当てられ宝石は血のように赤い色をさらに濃くしていた。しかし硝子のような透明感は残し、透かして陽ノ華の掌が見える。
男の視線が鋭くなったのを見逃さなかった。
「それは俺の物だ」
「その証拠は何処にあるの」
「お前はその宝石から出る何かしらの匂いを辿ってここに来た、元々俺の物であるなら俺の匂いがあるのも当然だろう」
「犬みたいに言わないでくれない?」
言い方はいけすかないがあながち間違ってはいない。陽ノ華はこの宝石に宿る魔力を辿ってこの男の住処を探り当てたのは事実であるのだ。
魔力を持つ品というのは陽ノ華のような霊力を持つ人間にとってはほぼ一目瞭然だが、一般の人間にとっては他の品と全く見分けがつかない。だが「なんとなく嫌だ」の感覚はあるらしく、おそらく老婆が手渡してきたのは在庫処分も兼ねて、まぁ昼巫女なら路銀の足しに出来るだろうというお節介なのかも、とまで推測してやめた。
そして、別の考えがすっと割り込んできた。
「でもこれは私が村の人から頂いた物だからアンタにあげる筋合いはないと思うんだけど」
懐に宝石を仕舞うと男の眉間がぐっと深くなる。口元もひん曲がり苛立ちを隠そうともしない。
しかし先程のように力を持って奪おうとする気は何故か見せないのは謎であった。
「でもまあ、必ずしも私に必要ってわけじゃないし、場合によってはね…」
「何が言いたい」
男は我慢ならず立ち上がる。
そこまで苛立つほどにコレは彼にとって貴重な品なのだろう。
海に投げ込む脅しをかけるよりは単刀直入に切り込んだ方がいいかもしれない、そう思い言った。
「…とりあえず、あんたの名前を教えてくれる?」
ぐっとこちらも一歩男に歩み寄る。
「ドラガだ」
「ドラガ…聞いた事のない響きだけど分かった、じゃあこれ返すね」
ぽい、と放り投げられる宝石をドラガと名乗る男は慌てて手にする。
赤く乱反射する煌めきが生白い手に収まり、血を掬っているかのように見えた。
ドラガは思ったより呆気なさすぎる返却に少し戸惑っているようだった。
「何のつもりだ女」
「女じゃないわ、私にも陽ノ華って名前があるのよ」
陽ノ華を睨んで訝しむ顔を崩さずドラガは宝石を上衣の首元にするすると取り付ける。よく見ると紐らしきものが彼の首にかかっており、そこにあるべきものがあるべき箇所へ帰るように宝石は難なく付けられた。もしかしたら首飾りの部品だったのかもしれない。
持ち主の元へ戻った赤い宝石は、持ち主の眼と同じ血のような赤が霞む事なく煌めき側から見れば目が三つあるような妖しさをもたらした。
そして欠けた自分を取り戻したかのようにドラガの顔は少し綻び、年相応の笑顔を見せた。
「そんなに大切なもの?」
「そうだ、唯一俺が持っていたものだ」
ドラガは振り返り赤い眼が陽ノ華を捉える。
陽はすっかり落ちていた。赤みを帯びた水平線を残し、紺碧の夜が紙に染みる墨のように覆っている。
「さて、もう用はない。血も要らないことにしてやるからさっさと立ち去れ」
踵を返してドラガは外へ出て行こうとした。
コツコツと彼の靴か岩床とかち合って鳴り、空間に響かせる。
その言葉を陽ノ華は待っていた。
いや正確には彼が一瞬の隙を見せるところを。
「あんたはもう用無しかもしれないけど」
ぐっと手に精神を集中させる。
馬に括り付ける綱のように太く頑丈なものを想像し、それを離さないつもりの力強さで掴む。
「私にはまだ用があるのよっ!」
腰を入れぐっと引き寄せた、つもりだった。
「おわあっ!!?」
ドラガの姿が宙に浮く。
ふわり、と形容するには生ぬるい。一本釣りされた魚のように首根っこを起点に引っ張り上げられた。
その状態も一瞬で終わり、ざぼんという音とともにドラガは岩場から海へ真っ逆さまに落ちていった。
「えっ、ちょっと!?」
これに驚いたのは陽ノ華もである。
ドラガへ宝石を渡したときに彼女はとある細工をしていた。霊力による捕縛の術である。
本来ならば犬の首に縄をつけるように、妖怪の首や手足を縛り行動を制限し監視下に置くためのものであり、陽ノ華が万が一として宝石から霊力を感じた際にかけたものである。
ただ彼女がこの術をかけたことが初めてのために、加えてドラガの体重が予想以上に軽かったのもあり、力加減が全くわからなかったことは予想外であった。
本来なら少し首を引く筈が思った以上の距離を出してドラガが海に放り投げられたのを見て唖然とした。
そしてドラガに引き摺られるように陽ノ華も海へ手を引かれて飛び込んでしまった。
「貴様!俺に何をした!」
牙を剥きドラガは陽ノ華に吠える。
しかしずぶ濡れの姿に加え、泳ぎ慣れていないのか、もがいて焦った顔を隠そうとしない。
だが陽ノ華も絶体絶命であった。こちらも泳げないのである。
「あんなに跳ぶと思わなくてっ!でも今は!それどころじゃ!」
もがけばもがくほど濡れた服が張り付き、身体を水底へ引っ張る。
懐に入れた巫女としての道具類もその重さにより、今は彼女の命を削る凶器でしかない。
暗いを超えて闇の色をした海は透明さの欠片も見せず、大穴のようにドラガと陽ノ華が沈むのを狙っている。
(やばい、こんなところで…)
慌てるほどに塩水が顔にかかり、ついにはがぶりと飲み込んでしまう。
彼女の脳裏には夜に海に出ることを禁じているという老婆の発言がよぎる。
村から見えるわけでもないこの夜の海では助けてくれる可能性は少ない。
絶望感が陽ノ華を襲い、身体の温度が急激に下がるのを感じた。
海の水か自分の涙か分からないが、視界がぼんやりと霞がかってきたその時
「大丈夫ですか!」
声が聞こえてきて、意識が引っ張り戻された。
小舟だ。松明を持った誰かが舟にのってこちらに近づいている。
何故いるのかはこの際どうだっていい。渡りに船といっても過言ではない。
一抹の希望が差し、陽ノ華は顔を思い切り水面から離してありったけの力を振り絞り、舟上の人に向けて手を振った。
「ここです!助けてください!」
「ゴロー!!早く助けろ!」
ドラガの声だ。存在を一瞬忘れていたが彼もまだ息をつないでいたようだ。
船から投げられた縄を引っ掴み、二人は舟へと引き揚げられた。
「驚きました。魚を獲っていた最中に何かが海に落ちる音がしたから」
穏やかな顔をした青年は真面目に、でも気を遣うように柔らかに声をかけた。
それはもちろん夜の海に落ちて濡れ鼠になった人間(と妖怪)がいれば、当然のことかもしれない。
「本当に、ありがとうございます」
服の裾を絞り、海水をできるだけ取り除いてから、深々と礼をする。
「そんな、いいですよ。人として当然のことをしたまでで」
青年は両手を振り、恐れ多いといったように困った笑顔をする。
陽ノ華が昼巫女であったから助けた、というような邪推をするまでもない誠実さが溢れていた。
彼のおかげで運よく一命をとりとめられた奇跡に感謝し、心から陽ノ華は礼を何度も言う。
ただし、一つ問題があるとすれば……
「遅いぞ、俺が危険なら早く助けろ」
肩で息をするびしょ濡れの男、ドラガは舟の上で偉そうにふんぞり返っていた。さっきまで同じように溺れていたというのに。何故この男まで助けてしまったのか。
確かに一見すれば人間に見えなくもない、青年が哀れに思って助けたかもしれないが。
何より気になるのはドラガの言い方からして彼をもともと知っているような口ぶりである。
しかもまるでしもべのように扱っているのが心に引っかかった。
「そうはいっても、飯がないからというから魚を獲っていたんです」
青年は申し訳なさそうに首をすくめて答えた。確かに舟の上には釣果とおぼしき魚籠があり、中をのぞかなくてもぴちぴちと音を立てていた。
ドラガは食料の調達のために彼を遣わせていた?
人間を小間使いのように使役させる妖怪を陽ノ華は聞いたことがなかった。
「また魚か!もう飽きたぞ。たらふく食っても腹が減るばかりだし」
薄い腹に手を当て、ドラガは大きくため息をつく。
途端地鳴りのような腹の虫が鳴り響いた。
少しの沈黙が訪れた後、ドラガは無言で魚籠の中に手を突っ込み、暴れる魚を眺め始めた。
「あの、彼…ドラガと知り合いなんですか?」
風がだんだんと出て舟が揺れる中、青年に近づきドラガに聞こえないよう声を潜めて陽ノ華は尋ねた。
もしかしたら、ドラガを妖怪と知らないで食料を与えているのかもしれない。
あるいは、知ったうえで脅しをかけられ嫌々ながらも自身の命を守るために尽くしているのかもしれない。
(だとすればこの人を守らないと…)
そことない人間臭さに絆されかけてはいるものの、ドラガは危険視すべき妖怪なのだ。
青年は困った顔をしてこちらに向き直る。
「ええと、なんと言えばいいのか」
「そいつは俺の眷属だ」
ドラガの声が二人の会話を遮った。地獄耳のようだ。
眷属?
ふとドラガに捕まえられた時の言葉を思い出した。
『この俺の飢えを満たし眷属にする』
その言葉の通りだというのだろうか。
だが目の前の青年は陽ノ華と同じ人間に違わないだろう。妖怪らしき特徴を持ち合わせてはいない。
陽ノ華は勝手に妖怪の眷属というものは主である妖怪と似た容姿、異形の使い魔を連想していた。
「はい、その通りです」
そう言うと青年は包帯を巻いた左腕を突き出し、するすると包帯をほどき始めた。
固い筋肉の腕に太い針が突き刺さったような赤い穴、噛まれたような傷跡が二つそこにはあった。
陽ノ華ははっと息をのみ、ドラガに噛まれかけた自分の首筋を押さえた。
その様子をドラガは魚をかじりつつ眺めていた。
「…嚙みついた獲物の血を糧にして眷属にさせる力があるってわけね」
「察しが悪いな、そう言っただろうが」
ドラガを睨みながら吐き捨てるように言うも、本人は鼻で笑った。
また二人の間に緊張が走りかけるその時、ぴりりと張り詰めた空気をかき分けるように青年の声が割り込んだ。
「その、陽ノ華さん、でよろしいでしょうか。僕は五郎と申します。それに僕は彼に襲われて噛まれたとかそういうのじゃあないんです、多分」
すがるように陽ノ華の服の袖を軽くつまみ、申し訳なさそうにうなだれる。
「ドラガさんには前、夜の海で化け物に襲われたとき救っていただいたのです。その時交換条件として血を渡したんです」
「だがこの男の血はまずいし腹にはたまらないしで、吸い尽くして殺すよりは飯を持ってくるための眷属にした。」
顎で五郎を指し、ドラガは見せつけるようにため息をついた。
まだこの海に妖怪がいることにも驚いたし、ドラガがそれを退けた、そして人間の五郎から食料提供されているというのもすぐに信じられない話ではある。
「血をあげるってこちらから言う前に噛まれたような気もするのですが…」
ぼやく五郎の声は黒い海に飲み込まれた。
風で揺れる舟の縁を掴み、陽ノ華は続けた。
「五郎さん。村まで戻ったら私、解呪の符を作ります。それを使えばあなたの眷属の呪いを解けるかも」
「えっ、そんなこと出来るんですか?」
今の陽ノ華は全身水浸しであるがゆえに紙に霊力を込めた墨で呪を書いた霊符は全て使い物にならなくなっている。
申し訳ないが少しの辛抱である気持ちを込め提案するが、当の本人は解呪する方法を考え付かなかったように素っ頓狂な声をあげた。
「多分ですが。それに傷跡を直したり、火をつけて暖めたりくらいは出来ますよ」
「すごいですね…!色々と聞いてもいいですか?」
五郎は持っていた櫂の動きを止めて、目を輝かせて陽ノ華に近づいた。
……もしかしてこの人あんまり危機感を持っていない?暢気じゃない?
「おい!俺の眷属であることを呪いというな!」
舟底を音が出るくらい足を鳴らしてドラガが叫んで立ち上がり、陽ノ華と五郎のいる場所まで詰め寄った。
「そも女。お前は俺を舐めすぎている。俺に攻撃を仕掛けるどころか紐を括り付けて海に投げ飛ばし、挙句には眷属に手を出そうとする。流石に行き過ぎるぞ」
陽ノ華が気づいて振り払うよりも早く、ドラガの手が伸び顎から首にかけてを掴まれる。
長い爪が皮膚に食い込み鋭い痛みが走る。片手でそのまま持ち上げられ、陽ノ華の足が宙に浮いた。
赤い目はぎらぎらと輝き、荒ぶる風によって銀の髪は逆立っていた。夜の海から異質なほどに目立つその様相に陽ノ華は体をこわばらせる。
「ドラガさん、やめてください!」
「ふん、ここから村まで投げ飛ばしてやっても…ん?」
五郎の静止を振り切り投げ飛ばされるかと思った瞬間、ドラガが変な声をあげた。
この小舟から柴浜村までの海面を見て何かを見つけたような口ぶりであるが、陽ノ華の視界は固定されておりそちらを見ることができない。
掴んでいた手の力が少しずつ弱まり、足はゆっくりと船に着いた。
「なんだあれは、魚か…?」
完全に首から手が離され、陽ノ華は大きく咳き込んだ。潤む目でドラガを睨むが彼はあらぬ方向を見て眉を顰めるばかりであった。
こんな小舟ではこいつと距離をとることもできない、危険と隣り合わせな状況であることを実感させられた。
ごう、ごう…
乱れた呼吸を整える間、ふとこんなに風が強くなっていたことに気づかされた。
そして磯風が生ぬるいような、嫌なぬめりを帯びていることにも。
「風が出てきた…!」
陽ノ華のそばで心配していた五郎が舟の周辺を見渡し、焦るように声をあげた。
耳を切る風の音が大きくなり、その声も明瞭には聞こえない。
立ち上がり陽ノ華も周囲を見渡す。黒々とした海面は視界いっぱいに広がっている。
荒れ始めた風に呼応して波が立ち、生き物の呼吸のようにうねりを増す。
そこに逆らって、動きを増す「何か」がいた。
いることはわかる、しかし姿は闇に紛れ掴めない。
波を大きく立てることはせず、海面を撫でるようにぬるりと近寄ってくる。
輪郭は不明瞭だが巨大な魚のようにも見え、その大きさは陽ノ華達の乗る小舟と並ぶかそれ以上に見えた。
ドラガがもっとよく見るためか、ぐいと身体を乗り出した。
「あれは何だ?」
陽ノ華は警鐘を鳴らす頭の端で記憶を掘り出していた。
海、吹き出す風、音もなく近付き、魚のような姿。
途端、陽ノ華は大声を上げた。
「ダメ!身体を出さないで!」
しかし叫んだ時には遅かった。
ドラガの姿はそこに無かった。
音も無く舟の上から消えていた。
「ドラガさん!?」
声に気づいた五郎が慌ててドラガの立っていた場所まで近づこうとするのを陽ノ華はしがみついて止めた。
「止まって!あなたも海に連れて行かれちゃうから!」
「なんだって…!?」
なんとか踏みとどまってくれた五郎は心配そうに陽ノ華とドラガのいた場所を交互に見つめる。
陽ノ華は震える身体を抑えて静かに言葉を紡いだ。
「あれは『磯撫』です。海から音も無く近寄り海中に落として襲う、恐るべき魚の妖怪です」
五郎の顔が真っ青に染まる。
そうだ、なぜ気づかなかった。これまでに予兆は沢山あったというのに。
海の妖怪、磯撫。
それは大きな尾鰭を海面から出して静かに風を起こす。そこで浜から離れた舟に乗っている人間を棘のついた尾鰭に引っ掛け、それこそ魚を釣るように、音も無く捕らえて食ってしまう。
この妖怪は海に出なければ出会う事もないが、出会って仕舞えば最後、こちらに対抗する術は殆ど無い。
こちらが磯撫を認識する頃には既に磯撫の捕食範囲内に入っているということなのだから。
警戒して周囲を見回すことすらその首に釣り針がかけられていることと同義なのである。
陽ノ華はこれまで磯撫を見たことがなかった。他の巫女から教えてもらう情報しかなく、それも直接倒したり逃げた内容は殆ど聞かず襲われて命を落とした者の死因の一つとして挙げられていた。
黒い海面がまた波打つ。
風が強くなり生臭さを増した。
音もなくドラガが姿を消した意味がこれで判明した。
おそらく身を乗り出したところを尾に引っ掛けられて海に引き摺り込まれたのであろう。
だがもがく音すら聞こえないのが不気味であり二人の焦りを増した。
もしかしたら海の深く深くまで連れ込まれているのかもしれない。
心臓の底からぐんぐんと冷えていくのが分かる。口から込み上げる唾が止まらない。
あいつが、ドラガが磯撫に食われた?
先ほどまで軽快に偉ぶっていた男が声も上げず忽然と消えたことに、どうしても実感が持てなかった。
だが二人しかいない小舟の空間が現実を映し出していた。
唖然としている間にも、波は動きを増していく。
陽ノ華は揺れる舟の縁にしがみついて考えを巡らせた。
どうしたって今の状況は絶体絶命である。
懐の霊符は濡れて悉く使い物にならず、傍には妖怪に対抗する力のない一般人である。
一方の磯撫はこちらからは姿は見えず、音もなくこちらを引きずり込む力がある。
頼れるものは何もない、と思いかけたその時。
ドラガが最初に海に落ちたあの瞬間を思い出した。
「五郎さん、私に手を貸して!」
突然声を掛けられ五郎は隣にいた陽ノ華に向き直った。
彼女は太い綱を掴んでいる、ように見えた。
ただ五郎の目には綱はぼんやりとした輪郭であり、まるで霧か雲をまとめて捩じ上げたような形になっている。
綱の先は海面へと垂れ、目視できない仄暗い底へ向かっていた。
「陽ノ華さん、それは…?」
陽ノ華は五郎の手を綱へ導き握らせた。
思ったよりもしっかりとした感触で驚いたが怯む暇はない。
「引っ張り上げます」
彼女が大きく息を吸ってから吐き、綱をしっかりと掴んだ途端、綱の輪郭は明瞭さを増し白い一本の光の束のように輝き始めた。
それでもまだ海の底は夜より暗く、綱の先端はどうなっているかわからない。
道理は五郎には理解ができなかった。しかし今の状況を打開できる唯一の策だと陽ノ華の気迫から感じ取って大きくうなずき、綱をしっかと握りしめた。
「せえの!」
掛け声に合わせて綱を大きく引く。
体にかかる海面からの抵抗が、綱の先に何かがいることを示していた。
舟縁から陽ノ華達の間を綱がびんと張り、踏ん張る足をずるずると引きずり始める。
陽ノ華は海面に引き寄せられるほどの重量に焦りを覚えた。
どうしたってドラガ一人、水をたらふく飲んだと仮定しても青年一人の体重にしては重過ぎる。
嫌な予感は背を駆け巡るが、もうここまで来て引き返すことはできない。
風は先ほどより穏やかさを取り戻していた。だが波の動きは止まらない。
否、陽ノ華達の持つ綱の先が中心となって、海の深いところから渦が巻き起こりそうなほど水流が荒れ狂っている。
それこそ大きな魚が食いついたように。
「もう一回、せえの!」
一縷の望みをかけて二人は綱を引っ張り、海面へそれを引き揚げんとした。
途端、
どおん!
海中から爆音とともに水柱が上がる。
水煙にまみれ五郎は尻もちをつき、陽ノ華はひっくり返った。
白い綱の先は水の塊を釣り上げたかのように見えた。
だが水の塊のその奥、陽ノ華達の乗る小舟を飲み込むことも容易いであろう巨体が目の前に現れた。
黒々とした巨大には鎧のように鱗が敷き詰められていた。尾鰭は普通の魚より長くびっしりと棘が並び、海水の粒を弾いていた。口は狼よりも深く切れ込んでおり鋭い牙が互い違いに生えている。
どんな魚より巨大で禍々しい様相をした怪魚、磯撫に二人は釘付けになった。
そして陽ノ華の持った白い霊力の綱の先が磯撫の口先へ続いていることに再度目を見開いた。
(一足遅かった…!)
ドラガは磯撫に海に引き摺り込まれるどころか喰われてしまったのだ。人間より大きいであろうと予測していたが、丸呑みするほどの巨体を持つとは思ってもいなかった。
磯撫は空中高く放り投げられたことに驚いたようだが、すぐ怒りへと変換し綱をちぎる勢いでその頭を左右へ振り吠えた。
陽ノ華と五郎はその声に踏ん張ることが間に合わず、耳を抑えてうずくまる。
それどころか音圧に耐え切れず、舟縁に頭をぶつけてしまった。
いよいよもう駄目だ。あの時のように運良く助かるなんてことはないのだ。食われてしまうのだろう。
五郎は揺れる視界とふらつく頭の中で自分の命の終わりを再び感じ始めていた。
一度目は海坊主、二度目は磯撫、とことん海に嫌われたものである。
村の掟を破って海に出たことによってばちが当たったのがしれない。
五郎自身が早世することへの申し訳なさを伝える相手は村にはいないことがこんな形で幸いするなんて思ってもいなかった。
ただ一つ悔いることがあるとすれば、陽ノ華とドラガ、彼ら二人を連れて早く海から帰ればよかった。
そうすればこんなことにならなかったかもしれないのに。
傲慢であるが生活に新鮮さを与えてくれた夜の男と隔てなく優しい巫女に声無き謝罪を捧げた。
「起きなさい!あんたそれくらいで喰われるタマなの!?」
だが静かな祈りは夜の海を割く一喝にかき消された。
霊力の綱がどくんと波打った。
陽ノ華の手から血の流れる管のように波打ち、磯撫の口の中へ波は進んでいく。
陽ノ華がドラガの宝石にかけた捕縛の術には副次的な効果として、繋いだものから繋がれたものへ霊力を送ることができる。
霊力は巫女の持つ力であり捕らえられた妖怪には毒になるため、この仕組みは寝たふりや昏倒している妖怪への気つけや拷問に使われるのが常である。
今、陽ノ華が行なっているのも霊力の直接供給であった。
だがこれでドラガが目覚めるかは分からない。彼の身体を目覚めさせるものがこれで正解かは分からない。
それに既に死んでいたら、魚の口の中で事切れていたら。
本当に賭けであった。
だが結果は生臭い血飛沫と共に帰ってきた。
「魚如きが俺を食えると思うなァ!」
磯撫の口から闇と血が溢れ出したかと思うと長い口を内側から跳ね上げてドラガが空中へ飛び出した。
着ていた服は歯や棘に引っ掛かり無惨な有様だが、その顔は舟に空腹で揺られていたときより明るく見える。
体内から予想外の攻撃を喰らった磯撫は体勢を崩し身悶えして着水しようとした。
だがそれを見過ごす筈がなかった。
ドラガは飛び出した勢いから空中を蹴ると、磯撫の腹側へ近づいた。
そして突き刺す勢いで拳を腹に突き立てる。
文字にできない吠え声をあげて磯撫の落ちる向きは上へ逸れた。
すかさず蹴りを尾鰭に叩き込むと、薪を割るような音と共に尾鰭は磯撫から分離し、硬い音を立てて陽ノ華達の舟に突き刺さる。
身体を捻り牙で一太刀浴びせんと磯撫は最後の抵抗に出たこともドラガは見逃さず、すかさず蹴りを追加したことで互いの距離は瞬く間に開いてその牙は何も貫くことはなかった。
放物線を描き、村のある浜の方へと吹き飛んで着水すると、磯撫は腹を向けて浮かんだ後ぴくりとも動かなくなった。
たった数秒の妖怪達の攻防に陽ノ華と五郎は理解が追いつかなかった。
現実に引き戻したのはドラガが凄い勢いで舟の間近に落ちて水柱を上げた瞬間からだった。
「おい!呆けてないで助けろ!」
また無様に溺れかけているドラガに向かって五郎は必死に小舟は進めて引き揚げた。
「よくも二度も狗のように引っ張ってくれたな、女」
濡れ鼠のドラガは陽ノ華に吐き捨てた。
「助けてくれたことは礼を言うけど、あれしかなかったのよ。あんただって気を失ってたんじゃないの」
陽ノ華の手元の綱はいつの間にか無くなっていた。
ドラガは不満げに鼻を鳴らすと何かに気付いたように少し考え込んだ。
「あの魚も持ち帰るぞ」
小舟を岩場の隠れ家へ進もうとした時、ドラガが顎で浜を指し示した。
「何する気?もしかしてまだ生きてるとか?」
緊張が解け夜の海風の寒さに気付き始めた陽ノ華が嫌悪を示す。
五郎がゆっくりと方向転換をするとドラガは訥々と話し始めた。
「あの魚に食われた時、確かに腹が減りすぎて力が出なかった。術で目覚めた後もそれは変わらなかったんだが…」
磯撫は既に事切れていた。波に揺られ、巨体がゆらゆらと抵抗なく漂っている。
舟がある程度まで近づくとドラガはひらりと磯撫だったものに飛び乗り、膝をついた。
そこで初めて陽ノ華は気づく。
蒼白い顔ではあったが、いつの間にか生気を取り戻したように見える。
飢えた狗のようであった眼差しが幾分和らいでいる。
それはまるで磯撫の中から出てきたときに無かったもの、足りなかったものが満たされたように。
「あんたそれ…」
口を出す前にドラガは腹にがぶりと噛みついた。
そしてそのまま磯撫の肉を千切り飲み込んだ。
血が口紅のようにてらりと光る。
五郎も陽ノ華も驚愕し口を開けて佇んでいる。
波の音の他に彼の音しか聞こえない。
「ふむ、やはり、そうか」
ドラガの声がうわずっていた。
「妖怪を食うと、力が出るのか」
指先に付いた海水とも血ともわからぬ液体を舐めとると不敵に微笑んだ。
口の端から血が垂れ、首から生白い腕かけて線を描く。
そして腕を躊躇いもなく死骸に突き立て、肉を抉り始めた。
海の香りに混ざって血生臭さが増す。
白い腕、胸、破けた衣服から覗く肌が上から悉く赤黒く染められていく。
その異様な光景に五郎は腰が抜けたのかへたり込んだ。
陽ノ華はここで初めて目にした。
「妖怪を食う妖怪」がいることを。
ここ数年で急激に数を増していると噂には聞いていた。
そしてそんな妖怪はもれなく強大で残虐で悪辣で人を殺して食うことに迷いがないと。
だが、それを御する術があるならば。
(桜花仙様、こいつが…)
声に出さないまま、彼女は最高位の昼巫女、桜花仙から直接賜った使命を思い返した。
『我らの力になりえる妖怪が南端にいると預言がありました。その妖怪を連れて参りなさい』
それが今、目の前にいる。
息を呑み、妖しく笑みをこぼす男をしっかと見つめる。
陽ノ華の視線に気付いたのか肉を貪る口を止めてこちらを見つめ返した。
その口には血と笑みがべったりと張り付いている。
「怪我の功名というやつか?ここ数日ろくに飯にありつけていない中、やっとまともな食い物を見つけ出したお前を褒めてやってもいい」
上機嫌になったのか、けらけらと声を上げて笑う。子供のように飢えが満たされた喜びを全身で受け入れていた。
「さてヒノカとか言ったか」
ぎらぎらと光る眼と体が同じ色に染まっている。
側から見れば恐ろしさしかないのに、それでもどこか艶かしく見えるのは何故だろうか。
「まだ用件があると言ったな、聞こうか」
牙を見せて笑う男に陽ノ華は意を決してこう告げた。
「私と一緒に、都まで来て」
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