第21話 ハンカチに刺繍を

 マイラはダンスに乗馬、体幹を鍛えるトレーニングと、身体を動かす機会が増えた。

 同時にファーレンホルスト王国の歴史、地理、貴族の名鑑や領地の特産物などを学び、忙しく過ごしていた。


 習い事がない日は気の向くまま刺繍を刺している。前世では刺繍道具を両親に捨てられ、できなくなった刺繍を、今は思う存分楽しんでいる。


 優しく接してくれる国王とフレーデリックに感謝をこめて、ハンカチを贈ろうと刺繍を刺す。

 国王には紋章を、フレーデリックには前世である福の姿を。

 国王のハンカチはすでに仕上げており、今は福の姿に取りかかっている。






 フレーデリックは数日前から視察のために宮殿を留守にしている。一週間ほどで視察を終えると聞いた。


 フレーデリックが戻るまでには完成させたいと、一針一針丁寧に刺す。


 無心で刺していると、時間が早く過ぎていく。



「」

「……」

「――――」

「マイラ様」


 マイラは我に返り顔を上げる。どうやらカルラに何度も呼ばれていたらしい。

 ようやく気づいてもらえたと、カルラは小さく息を漏らした。


「マイラ様は集中力がすごいですね」


 カルラの発言が良い意味なのか、そうではないのか、意図がつかめずに小さく首を傾げる。


「お茶の用意が整いました」

「分かったわ。今、行きますね」


 マイラは刺繍の針をハンカチに刺し、刺繍箱の上に置いてお茶が用意されたテーブルへと急ぐ。



 今日のスイーツはイチゴタルト。イチゴ好きにはたまらない逸品だ。


 スライスされたつややかなイチゴが放射状に幾重にも並び、カスタードクリームにバターが香るタルト生地。一口頬張ると、至福の時間が訪れる。


「ん〜、美味しい!」

「マイラ様はスイーツがお好きですね」


 ニーナも頬をゆるめてタルトを味わっている。

 タルトが一番好きだというカルラはお茶の時間のスイーツがタルトだと、少女のように目を輝かせてマイラたちに目もくれず、黙々と食べている。


 食べ終えると幸せそうに息をつく。いつもはクールビューティーなカルラが可愛らしい笑顔を浮かべている。


 マイラとニーナはカルラの意外な一面に、ほっこりとした雰囲気を楽しんでいる。

 侍女とティータイムを楽しんでいても、ふっと思う。


 フレーデリックのいない宮殿はどこか寂しく感じられて。


(寂しい? どうしてそんなふうに感じるの?)


 不意に湧いた寂しさに戸惑いを覚えた。

 宮殿に住んでから高熱で寝込んだときとケッセルリング王国から帰国して以来、フレーデリックを見ない日は無かった。


 気がつくと、なぜかフレーデリックの姿が視界に入っていたからだ。姿が見えないだけで心細く感じるのは、マイラとフレーデリックの距離が縮まってきたと、マイラが気づいていないだけで。


(ハンカチだけで感謝の気持ちは伝わるのかな? 何かを添えて渡すのはどうだろう?)





 前世で黒柴犬の福のおやつに、犬用のクッキーを作っていたのを思い出した。


 さつま芋や南瓜、りんご等で数種類のクッキーをレシピ通りに作り、好みのクッキーは何かと、一日一種類ずつ与えてみた。

 福は全てのクッキーをおいしそうに食べてくれた。


 福がおいしそうに食べるので、茉依もクッキーが食べたくなり、自分用のクッキーを作り、焼き上がったクッキーをかじる。


 バターと卵の風味が混ざり、甘さと香ばしさが鼻腔をくすぐる。気分が高揚し、もう一枚食べた。


 おいしい物を食べると幸福感に包まれるが、茉依には気分が高揚したことが幸福感だと、結びつかなくて。




(ハンカチにクッキーを添えて渡すのはどうだろう? 迷惑に思われないかな?)


 人と感覚がズレていると自覚しているマイラはカルラとニーナに、何かあれば相談にのってもらうことにしている。


 大好物のタルトを平らげ、ほんわかしているカルラと紅茶を飲んでいるニーナを前に、マイラは背筋を伸ばす。


「あのね。今、陛下とフレーデリック様に贈ろうとハンカチに刺繍を刺しているけど、ハンカチだけだと、物足りなく感じて……手作りクッキーを添えて渡すのは迷惑かなぁ?」


 カルラとニーナの動きが止まる。二人は目を丸くしてマイラを見つめる。


(あれぇ? 私、変なことを言ったのかなぁ? やっぱりやめたほうがいいのかな)


 カルラとニーナは顔を見合わせ、何度も頷き合う。これはマイラとフレーデリックの仲が一歩進むいいチャンスだとお互いに理解した。


「クッキーを添えるのはいいと思います!」


 ニーナは身を乗り出して瞳をキラキラさせている。


「陛下もフレーデリック様も甘い物がお好きですし、マイラ様の手作りだと知れば、より喜ばれるかと」

「そっ、そうかな? なら明日、厨房の隅を借りて試しにクッキーを作ってみようかな」


 照れているのか、ほんのりと頬を染めたマイラだったが、突然身動きひとつしなくなり、無表情になる。


(明日、料理長にクッキーを作る場所を借りたいと、ちゃんと言えるかしら? 断られるかな? 大丈夫かな?)


 後で料理長に厨房を借してほしいと頼むために厨房に行くが、きちんとお願いができるか気がかりで、カルラとニーナの存在を忘れて考え込んでいた。


「マイラ様、どうかされましたか?」


 心配そうにニーナが声をかける。


「あ……あのね、料理長に明日、厨房の隅でいいから邪魔にならない場所を貸してほしいと言えるかなって、心配になって」

「料理長には私からお願いしておきます。料理長は優しい方なので、心配しなくても大丈夫ですよ」

「ありがとう。お願いしますね」


 カルラの言葉でマイラは安心したように頷いた。





 翌日。

 汚れてもいいようにとカルラがメイド服を持ってきてくれた。メイド服に着替えたマイラは髪の毛を三つ編みにしてもらい、姿見で確認する。


 カルラとともに厨房へやってきたマイラは緊張がピークに達し、顔が引きつって悪役顔になっている。


 悪役顔とは裏腹に、料理長や料理人にきちんと挨拶ができるだろうか、邪魔に思われないかと行動を起こす前から心配している。


 カルラとともに来た令嬢はライラック色にリラ色のメッシュが入る髪色で、銀色の瞳を持つ容姿は冷たそうな雰囲気で、料理人たちに緊張が走る。


「料理長、昨日お願いしたクッキーを作るマイラ様です」


 カルラが料理長に声をかけると、穏やかそうな男性が近づいてきた。


「マイラ様、宮殿の料理長をしているマルクと申します。クッキーをお作りになるとか。緊張しないで楽しく作りましょう!」


 マルクはマイラの緊張を解くように穏やかに声をかけて、人懐っこい笑みを浮かべた。


「あ、あの、マイラと申します。マルク料理長、厨房の皆さん、お世話になります。皆さんに迷惑をかけないように心がけます。よろしくお願いします」


 前世が日本人だったマイラは身についた習慣で頭を下げる。


(しまった! 頭を下げちゃいけないんだっけ)


 慌てて頭を上げたマイラは緊張とやらかした思いで無表情でパニックになっていた。


「マイラ様、大丈夫ですよ。力を抜いてください」

「ええ」


 マイラは深呼吸をし、真剣な表情で料理人たちと向き合う。


 令嬢が頭を下げるのを初めて見た料理人たちはびっくりしたが、マイラの真剣な表情に、遊びで来たんじゃないと理解した。


「マイラ様、困ったことがあれば何でも聞いてください。こちらこそよろしくお願いします」


 料理人たちも頭を下げた後に笑顔になっている。


 きちんと挨拶ができたと、ホッとしたマイラは無意識に柔らかく笑みを浮かべていた。


 料理人たちもマイラの笑みに、冷たそうな雰囲気が一蹴されてほんわかした空気になり、気分よく料理の下ごしらえに取りかかり始めた。


 昨夜のうちに料理長と料理人たちはミーティングを開き、料理長がマイラに付きっきりになることを予想して、明日の夕食の仕込みなどを誰が担当するのか、細かく決めていた。


 令嬢が厨房に入るので、ぶつかったりしないように、動くときは周りを確認してから動くようにと、料理長から細心の注意を払うよう指示された。広い厨房なので、普段でも料理人がぶつかることはないが。


 令嬢にもクッキーを作るなら、楽しかったと思ってもらえるようにフォローをしようと、マルクは考えている。

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