あと80万

夕方は嫌いだが日が夜に向かって沈むにつれて、僕は少しずつ元気になってくる。

朝昼と転がっていたベッドから離れて、小学生の頃の運動会で使った大玉ころがしの玉くらいあるクッションに沈み込む。その前にベッド全体に除菌消臭液を掛けて、枕にかぶせていたタオルを取り換え、タオルケットを畳むことは忘れない。僕は意外と几帳面なのだ。

除菌消臭液のナチュラルソープなる香りが広がる室内で考える。

「今日は、何をして、何を食べようか。」

1日のうちにほとんど人と話すことのない僕は、少なからず独り言を言う。

網戸が外れた時、熱いやかんから熱湯が飛び散った時僕のそれはさらに存在感を増す。まるで誰かが同じ部屋にいるかのように。


先ほど取り込んだ少し不快な匂いのする洗濯物と隣り合って、クッションに身を委ねてお茶を飲む。

お茶は昨日の夜、やかんで煮出した麦茶だ。

夏にやかんで煮出した麦茶ほど、全身に染み渡るものはない。朝昼をまともに食べない僕の体には特にそうなのかもしれないが。

さて、コップ一杯のお茶をゆっくりと飲み干して窓の外を確認する。

日も気温も落ちて、真っ青だった空はすっかりオレンジ色に染まっている。雲がまばらにあって、その隙間から差す控えめなオレンジを好ましいと思う。

時計は18:40を指している。

「よし、まだ間に合う。」

1日分の汗をしっかりと受け止めて、柔らかくなったTシャツと短パンを脱ぎ、洗濯機に放り込む。そして先ほどまで着ていたものとあまり変わり映えのしないT シャツとジーンズを履き、黒い小さなショルダーバッグに、昨晩読み終えた文庫本と財布、スマートフォンを入れ、鍵を握りしめて外に出る。

歩いて5分。

コンビニに行くかのような気軽な立地にこの町の図書館はある。

閉館時間は19:00。

もしかしたら噂になっているかもしれないと想像して、1人うつむき口角を上げる。天気のいい日の閉館間際に来る、覇気のない若い男。それも悪くない。


もうすっかり顔なじみになったおおよそ50代女性のカウンター担当に本を返し、図書カードを提示して予約していたものを借りる。何も言わなくても彼女は勝手に読み終わった本を返却処理し、カードをもとに新しい本を持ってきてくれる。とても助かるが、ここでもコミュニケーションを逃してしまうことが少し寂しい。それはとても傲慢なことだが。

1冊読んだら、1冊返す。そして1冊借りる。そう決めている。この生活で一番の娯楽に、借りた本を部屋の端に積み上げ返却期限というストレスに侵させるわけにはいかない。カウンターの向こうで彼女が対応してくれている間に、カウンターの隅にあるカレンダーを確認する。そこには今日の日付であろう7月18日(月)の字が赤く記されている。そこで初めて今日が祝日であったこと、3連休最終日であったことを知った。どうもこの生活は、日付や曜日の感覚を失ってしまって仕様がない。毎日をある意味規則正しく堕落している僕は、息をするように社会から切り離され、脱落していくしかない。


本を受け取り、図書館を出ると日は完全に落ちて当たりは濃紺に染まっていた。

僕はまた少し歩き、家から一番近いスーパーに向かう。

お茶を飲みながら食べたいものを考えたが、今日は全く思い浮かばなかったから

安売りしていたカップラーメンを2つ買うことにした。

「ポイントカードはお持ちでしょうか。」

「はい。」

「ご提示ありがとうございます。お会計は2番でお願いします。」

「ありがとうございます。」

最近導入されたセルフレジとやらは便利だ。そして恐ろしい。

この機械も僕から、コミュニケーションを優しさの仮面を被って奪っていった。


本1冊とカップラーメン2つを持って、家に帰る。

「ただいま。」

玄関を開けて、靴を脱ぎながらそう呟き、あと80万と繰り返し心の中で唱えて泣いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る