17 【独白】


 私は歪んでいる。

 歪みは一見してわかるようなものではない。決められた型へ歪んだ針金をどんどんと詰め、時に折り、只管ひたすらに詰め込んでいって、入りきらなくなった所で型を外して出来上がる、決められた形を模したようなもの。力づくで無理やり詰め込んで、ごつごつした表面の形を整えて。そうして出来上がったのは”普通”という言葉を模したような女性。それが私だ。


 形作られた”私”という人間性は、思い描いた通りに動いた。


 仕事も前向きにきちんとこなし、人間関係に気を配り、数年で人事に携わる立場となった。プライベートも年相応に身綺麗にして適度に遊び、自宅も常に整えられている。その時折で恋人も作り、公私共に充実した毎日を送る。

 そう、悠理はきちんと生きたのだ。


 なのに、悠理の皮を被った私の心は歪んだまま治せなかった。幼く閉じこもったまま、成長などはしてくれない。

 何度も何度も矯正しようと努力したけど治せなかった。表面の悠理との乖離がどんどん進んでいって、時折爆発したように制御出来なくなることがあった。


 それは発作的に様々な形で出てきてしまう。毎晩違う相手と寝たこともあった。その役割に選んだ人間に特別な感情を抱くことも無く、ただ人の温もりがあれば、正気を保って居られる気がしただけだった。他には過食、絶食、過眠、不眠。人間の三大欲求が暴走するのが殆どだったが、まれに暴力的な行動に出てしまうこともあった。


 直近で鮮明に記憶にあるのは、あの黒猫の、どろりと濁って濡れた真っ黒な眼だ。

 午後三時を回っていたのを自宅の時計で見た。夜まで手が空いたので珈琲でも飲みに行こうと街道を歩いていた時のこと。ふと、呻くような、囁くような、背筋をざらりと撫でられるような気味の悪さを感じた。きょろりと辺りを見渡して違和感の正体を探ると、すぐに見つけた。ビルの隙間にある、人が殆通ることのない路地だ。その路地へと歩を進めようとした時に、脳内に警報が鳴る。“悠理”が行くべきところじゃない、また乖離が広がるぞ。

 それでも厭うような気配に好奇心を覚えた躰は止まらない。ただ覗くだけだ、誰でも気になったら覗くだろう、それと一緒だ。


 自分に言い聞かせながら路地裏へ足を踏み入れた。途端、鉄臭い、だけどもまだ新しい血の匂いが鼻につく。曇り空の中、両側を背の高いビルに挟まれた細道は極めて暗く視界が悪い。じゃり、と地面に落ちていたビニール袋を踏んだ時、その路地奥で勢いよく影が立ち上がった。人が居たことに気づかなかった私は驚いてたたらを踏んだが、引き下がらずに立ち上がった人物を見つめる。背格好からするに男のようだ。多分、これがこの気配の原因なのだ。乱雑に積まれた段ボールに隠れていたが、片手にきらりと光る物を握っているのが見えた。

 あぁ、あれは刃物だなと理解した時、その男は刃物を振りかぶって、勢いよく此方へと投げてきた。「―っ」咄嗟に身構えたが、地面に叩きつけるような格好となったので空を舞うことなく刃物は地面を転がっていく。カン、カン、と地面を叩く金属の音。それに合わせてその男は反対方向へと走り去っていく。足元までやってきたのは柄に刃を収納できるようになっている小ぶりのナイフだった。それが暗い赤で染まっている。

 そっとナイフを手に取ると、遠くで感じていた血の匂いをありありと感じる。


「にゃごぉ」溺れているような、くぐもった濁音混じりの鳴き声が聞こえる。もう私には悠理の引き留める声は煩わしいだけだった。振り払うようにして鳴き声のする奥へと進んでいく。先ほどの男がいた場所まで来た時に、鳴き声の主はこちらを見つめてもう一度鳴いた。

 黒猫だった。けれどその身体は赤黒い血に濡れているから、本当は別の色の毛並みなのかもしれない。横たえた身体には生々しい傷がいくつもついていて、一部には傷口を無理やり開かれたような残虐なものもある。一目で助からないと分かった。

「なぁご」その猫は喉もやられているのか、呼吸するのも苦しそうなのにまた声を上げた。こちらを見上げる黒猫の瞳は真っ黒で濁っている。その目は助かろうとして私に縋っているのではないと感じた。私の目をじっと見つめ返してくるその眼が、どうしてか私に似ていると思った。「私に殺されたいの」手に握っていたナイフを掌に乗せ、黒猫に見せるようにする。怯むかと思ったのに。黒猫は私の行動を一瞥したかと思うと、身体の力を抜くようにぐったりと頭を地面へと投げだして、眼を細めて首を差し出したのだ。まるで、これで楽になれると安心したように。


 そこから先は、よく覚えていない。

 気が付いたら大粒の雨が降っていて、私の身体はずぶ濡れだった。目の前の黒猫は既に息絶えていて、その深淵のような黒目は閉じられている。辺りに広がっていた血痕は雨によって更に広がり血だまりになっていて。どれだけの時間、そこで留まっていたのかは分からない。私の握ったナイフから流れ落ちたであろう血も、足元に小さい血だまりを作っている。「悠理」ふと、私の名を呼ぶ声がして、少しだけ意識が浮上した。私は珍しく、縋ってみたいと思った。私を私たらしめている名を呼ぶ、この声の持ち主に。それは今まで出会った人達へ沸くことのない感情だった。


「ねぇ、私を殺してくれない?」


 けれど返ってきた返事は〝一緒に居たい〟だった。その言葉に我に返った私は、自分の行動と言動を誤魔化すように曖昧に笑った。上手く笑えていたかはわからない。ただ、落胆している自分に驚いていた。私は期待をかけていたのだ、亜純に。和を乱さず、時折どうでもいい人間の相手を適当にして、ただ無為に生きていく毎日にふと芽生えた小さな感情だった。



 場面は変わる。それはあの日、夕日に照らされた中で亜純と言葉を交わしたシーン。私のプレゼントに泣いて、それから私をしかと見据えて伝えてくれた。


「悠理が自分で自分を殺すなら、その前に―私があなたを殺す」


 私が持ってしまった期待を、縋る気持ちを、叶えようとしてくれた亜純の意思の篭った強い眼。濁っていない真っ直ぐな瞳で、放たれた言葉はもっと強烈だった。私はあの時、救われたと思った。亜純が私の堂々巡りの人生を救ってくれたのだ。それがたとえ、一時の気持ちだとしても構わない。本当に殺してもらうつもりは無かった、その気持ちだけで充分幸せだったのだ。亜純の手を汚してしまうくらいなら、自決するに決まっている。亜純の為を思うなら猶更だ。それでも、縋った想いに答えてくれたことは私の人生にとっての僥倖だった。その時に私の人生はクライマックスを迎えたのだと思う。



 だからそれ以降、あの悪夢を見てもそこまで気持ちは乱れなかった。

 それは私が変わることを許さないものだ。感情。思念。

 いつも決まって一人の夜に現れる。

 暗い、暗い、悪夢。夢の内容は度々変わる。今回はあの黒猫だった。ごぼごぼとくぐもった鳴き声とも言えないような声で鳴き、じっとりと私を睨む。その黒目からはどろりと闇が溶け出して、私を取り込もうとしてくるのだ。迫る闇から逃れようと薙ぎ払っていると、底知れぬ「恐怖」という感情が私を襲う。全身に力が入らなくなり、かくかくと膝が揺れるのを視界で捉え、漸く震えていることを理解する。あぁ、また来てしまったのか。

 私の視界が、硝子のようにパリンと砕けて所々崩れ落ちた。黒猫が吐き出していた闇とは比にならない、漆黒が崩れた隙間からのぞく。あぁ、その隙間を見てはいけない、そう理解しているのに見てしまう。覗き込んでしまう。

 そこには同じく真っ黒で濁った眼をもった、私の家族が必ず佇んでいるのだ。向こう側からも同じく私を覗こうとしているように。

 その度私は頭を振って、左腕を右手で強く握る。あ、あ、と言葉にならない声が呼吸と共に漏れ出る。親指の爪が二の腕の内側の柔らかい皮膚を裂き、血が滲む。それでもタトゥーの入った箇所を握りこむ。大丈夫、私は普通だ。これは私が勝手に作り出した幻覚なのだ。苦しむ必要はないんだ。なんで置いて行ったのに、私のところにくるの?私だけのうのうと生きていてごめんなさい。でもそれなら何であの時一緒に連れて行ってくれなかったの。どうして一人置いていったの。その顔をしたいのは私だ。許さない。いや、違うごめんなさい。許して。ぐちゃぐちゃになっていく思考。

 どのくらい魘されていたのかは分からない。気づけば見慣れた天井を見つめていて、がっちりと握り続けた腕には青痣が浮かんでいた。二等辺三角形に見える模様は、私の死んだ家族で、真ん中にある黒点は私だ。希望、葛藤、願望。自分の身体に刻んだ時、当時浮かんできた思い全てを込めたのに、今や私を閉じ込める柵と成り下がっている。もはや諦観の境地だ。

 じっとりと汗ばんだ肌に纏わりつく夜着が気持ち悪い。やはりこの夢を見るのはいつも一人の時だ。まるで誰かに邪魔されるのを拒むように、その夢は孤独な心を蝕んでいく。


 けれどもうすぐ、私は私の意思で自分を殺す。この歪んだ感性を抱えたまま生きていくのももうやめだ。脳裏にちらつく、亜純の笑顔があと少しで見納めになることだけが惜しいと思った。それでも私は、こうすることしかできない私は、歪んだ方向だと知っていて前を向くのだ。


 傲慢で哀れな物語は、残すは私が死ぬだけで完結するのだ。



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