18 失踪


『今週は亜純の部屋に行っていい?』


 そう言って、珍しく悠理が私の家に来ることになった。私の家は単身者向けの1LDKの賃貸アパートだ。悠理の住む分譲マンションの部屋と同じような間取りだが、面積が全く違う。そのためいつも広い悠理の家へ遊びに行っていたのだが。

 恐らく今の悠理の部屋は、他人が入れない状況なのだろう。数日前に圭から聞いていたので、特に詮索することなく悠理の提案を呑むことにした。


「ボジョレーの解禁日まで待てなかったから、買ってきちゃった」


 赤ワインを紙袋から取り出して、おどけるように笑う悠理は少し幼く見える。


「嬉しい、私も飲みたい。晩御飯何にしようか迷っていたけど、洋食にしよう」


 冷蔵庫の中の食材で簡単なキッシュは作れるし、あとはデリバリーで少し豪華なつまみを注文しよう。買い出しに行ってもいいが、限りある時間を少しでも二人きりでいたかった。

 時刻は夜。普段なら点けっぱなしのテレビは消したままだ。代わりにPCに繋がれているスピーカーからは洋楽と邦楽が入り混じったプレイリストの曲が流れ続けていた。


 ほろ酔いになった私たちはぼうっとしながら、悠理の家より狭いソファーの上で寄り添い訥々とくだらない話をする。この曲が好きとか、歌詞が詩的で良いとか。互いの音楽の好みなどとうに知っているのに、更に理解を深めていくように。その情緒を楽しむように過ごす時間は一分一秒輝いて見えた。

 悠理の肩口に自分の頭をのせる。そのまま猫のように摺り寄せると、悠理はくすりと笑って私の手を握った。

 悠理の腕時計が丁度見える位置にきたので、その秒針をぼうっと眺める。この針が止まってしまえば、このままずっと一緒に居られるだろうか。現にたまに止まって見える。確か錯覚で、この現象の名前は何と言ったか。


「クロノスタシス、だっけ」


「…なんて言ったの?」


「ううん、何でもない」


 のせていた頭を上げて、悠理の瞳を覗き込む。見つめ返された瞳は相変わらず綺麗で、私を虜にするのだ。そのまま近づいて、触れるだけのキスを唇へ落とす。

 このまま溶けて消えてしまえたら、なんて。


「ねぇ、明日も泊まっていい?」


「いいよ。でも明後日は仕事でしょ、一度家に帰らなくてもいいの?」


「大丈夫、亜純の家に置いてあるもので賄えるから」


 上手くはぐらかされたことに、私の胸が少しだけ痛んだ。私は既に知っているのだ、悠理が休みを取っていることを。二日取った後、午前中だけ出勤。それでもう出社しなくなることも。


 そのことについて私が言及せずにいるのは、私の精一杯の悠理への誠意からだった。自分でもたまに馬鹿らしいと思う。もっと有効な手立てなど沢山あるのに、あえて確率の低い方法をとっていることに。それでも、これが私のやり方なのだ。

 休みの間、私たちはほとんど外へ出ずに二人で過ごした。これが多分、今まで通りに過ごせる最後の時間なのだ。




    ***





 忘れ物をしたから一度家に帰る、と言って悠理は朝早くに家を出た。私は朝の支度を終えた後、圭にメッセージを送る。するとすぐに着信が返ってきた。


『今日と明日ですよね。仕事次第ですが、適当な理由つけて休憩時間に寄ってみます』


「お願いします。出来れば家の中に入れてもらえるよう話してみて下さい」


『わかりました。先週来ていた業者の確認も取りたいですし、やってみます』



 あの日、私は二人を呼んで全てを話した。悠理が近日中に自死する可能性が高い事、それを阻止するために協力して欲しいこと。さとみからは「直接死なないでって何度も言って聞かせてやればいいじゃない」と不満が出たが、それをしても意味が無いこと、ギリギリまで私が助けたいと思っていることを伏せたいことを伝えた。あくまでも自分の感覚で得たものを話しているだけなので、上手く言葉にできずに苦労した。それでもさとみが納得してくれたのは、圭が私の話を聞いてすぐに理解を示してくれたからだった。


「正直に言って、効率も悪いし不確定すぎるとは思います。でも、俺もそれしかないと思う」


 悠理の傍にいたことがあり、今なお気にかけている圭には、私の言いたいことは十分に伝わっていた。

 家が近い圭には、悠理が在宅しているかを確認してもらうことにした。外観から見て電気がついているか、日中は約束せずに直接家へ行って、部屋に何か変化がないか。ストーカーのようなことをお願いして申し訳なかったけれど、圭は二つ返事で請け負ってくれた。

 そしてすぐさま異変を発見した。部屋にあった小物やインテリアが無くなっている。仕事の休憩時間にちらりと覗いたら、マンションのロビーでソファーを運び出す業者と、差し出された書類にサインをする悠理の姿。そのソファーは悠理の部屋にあったものだった。悠理が身辺を整理し始めたことを否応なしに実感する行動だった。


 さとみには、私の家の鍵を渡してある。もともと自宅で仕事をすることが多いフリーランスのさとみは、日中の時間の都合がつけやすい。そんなさとみへの依頼は、短期間でいいので私の自宅に届く荷物を日中確認して欲しいというものだった。


 それは圭が「もしかしたら、悠理から手紙が来るかもね」と言ったのが切っ掛けだった。


 以前会話の流れで、悠理は手紙という連絡手段が好きだと教えてくれたことがある。その時私はふと思いついて言ったのだ。死ぬまでに、私に手紙を書いてと。悠理はぱちりと目を瞬かせると、嬉しそうに頷いた。


『じゃぁ、死ぬ直前に手紙を書いて送ってあげる』


『それじゃまるっきり遺書じゃない』


『そんな欝々しいことは書かないから安心して』


『…でもまぁ、遺書でもいいかな。書いてくれるなら』


 冗談のようなやりとりだったのを覚えている。

 でもそれが今は現実のものとして忍び寄っている気がした。確証は無いが、もし届いたとしたら、何か手がかりがあるかもしれない。もう一つ、これはさとみが提案してくれたのだが、いざという時の長距離運転手を務めてくれるということ。「高くつくわよ」すごまれたので、大袈裟に平伏しつつ感謝を述べると、さとみは楽しげに笑った。






 出社して、自分のデスクに座る前に佐川の元へ行く。


「おはようございます」


「おはよう。あぁ、ちょっと待ってな」


 すぐに察してくれたのか、佐川は目の前にあるPCから社内ネットワークに入り、スケジュールを開いた。これは私も閲覧出来るが、平社員は自分の部署メンバーのスケジュールしか閲覧出来ない。他部署のスケジュールの閲覧権限は役職者にしか付与されていないのだ。

『吉井悠理』と表示されたスケジュールを見せてもらうと、やはり休暇は入ったままだった。今日と明日は有給。残りの有給は捨てるらしい。


「やっぱり、今日は休みですね」


「あぁ、一応明後日は出勤となっているが、挨拶にだけ来て帰るだろうな」


「…ありがとうございます。今週、どこかでお休みを頂くかもしれません」


 周囲に聞こえないよう声のトーンを落として会話した後、お礼を言って自席へ向かう。やはり悠理は出勤していなかった。


『吉井悠理の人事情報が無いか、あと個人スケジュールを見せてください』

 佐川には以前、書庫で全てを話していた。その上で個人情報を教えて欲しいと無理なお願いをして、受け入れてくれたのだ。公にはもちろん言えないので、あくまでも内密に。一定期間だけなら、と受けてくれた佐川には頭が上がらない。

 そうして悠理が退職すること、本人の意向により退職日まで他部署には伏せられていることを知った。佐川が人事の知人から上手く聞き出してくれなければ、知りえない重要な情報だった。しかも退職は今月末で有給も消化せず、退職理由は聞き出せなかったらしい。

 悠理の性格上、周囲に迷惑を掛けることを是としないはず。そう判断した私の行動は正解だったということになる。時期が予想以上に早かったが。


 そこから本当のカウントダウンが始まったのだ。

 昼間に一件だけ電話を掛けて了承を取る。そして先日ダウンロードしたアプリを開いた。これは旅行の夜に悠理の携帯へこっそり仕込んだもので、登録している携帯電話がどこにあるかを教えてくれるものだ。位置情報も常に発信されるように設定も弄らせてもらったので、まだ確認できるということは気づかれていないということ。今、悠理は自宅に居るらしい。最も有力な情報だが、この数日で解約されるだろう。解約するとなれば、きっと退職日の午後。それまでは可能な限り確認すべきだ。




 悠理の二日目のお休み。昨夜いつものように電話を掛けると、悠理は普段と変わらない様子で応答した。それがあまりに自然すぎるので、言いようのない恐怖に似た感情が沸く。規程事項として、そこに向かって進むことに躊躇いは無いのだと思い知らされる。


 明日は昼前に会社に挨拶に来るとのことだったので、タイミングを見計らって会いに行くつもりだ。

 昼過ぎに圭からメッセージが届く。昨日圭が会いに行くと、悠理はインターフォン越しに手が離せないから後日改めて会おうと断られたそうだ。そして今日、昼前にカフェに悠理が来店したとのこと。表情が陰っていることもなく、それどころか明るく見えたらしい。近くの本屋に寄ったのだと、ビニール袋を掲げて見せてきたそうだ。半透明の袋には便箋が入っていて、手紙を書くのかと問えばそうだと答えたらしい。

 それが私宛の手紙だったら、と願う。そんな自分の気持ちを浅ましいと思うも、それがどうしたことかと振り払った。

 浅ましく足掻いて何が悪い。これが、私なのだ。



    ***



 退職日当日。今日は綺麗な秋晴れだった。

 逸る気持ちを抑えながら、手に付かない仕事を何とかこなしつつ、悠理が出社してくるのを待つ。到着したら人事部から佐川へ連絡を貰えるようお願いしてくれているので、只管に待つのだ。一分一秒がとても遅く感じられた。秒針を見るたびに止まっているような錯覚。

 十一時頃になると事前に聞いていた。時計の短針が十一を差す。長針がてっぺんを超えて、いつ来ても良いようにと深呼吸した。

 長針がどんどん進む。十分、十五分、二十分。


 デスクの端に置いていた携帯が何度か振動する。

 差出人はさとみで、その文面を見て息を飲んだ。時を同じくして、離れた席から佐川の声が聞こえてくる。何故かフロアがいつもより静かで、私は汗ばんだ手を握り締めながら妙に響く佐川の声に聞き入った。


「はい佐川。お疲れ様…うん、あー、まだ来てないの?うん…うん…え?…わかった、連絡ありがとう」


 電話を切った佐川はすぐに私の元へとやってきた。表情は硬く、その目には焦燥がありありと滲んでいる。まさか、そんな。嫌な予感が一気に脳内を駆け巡る。


「悠理は今日出社しないことになった。このまま退職だと」


 私は急いで位置情報のアプリを立ち上げた。いつもの通り、登録していた悠理の位置情報の検索を掛けようとしたが、その登録が無くなっている。画面には自分の現在地しか表示されない。


「まさか…」


 さとみとのメッセージ画面には

『郵便受け見に来たら悠理からの手紙入ってた』

『今日ちゃんと出社してきたの?』

『これどうする』と立て続けに表示されている。


 あぁ、今日だったんだ。悠理は今日死ぬつもりだ。






 午後からの有給をもぎ取って、佐川に礼を言いつつ足早に会社を出る。

 歩きながら悠理に電話を掛けたが「現在使われておりません」という冷たいアナウンス。位置情報のアプリを起動し直してみたが、結果は変わらない。解約すると位置情報の履歴も残らないらしく、思わず舌打ちが零れた。


「もしもし、さとみ?悠理の居場所が分からなくなった」


『嫌な予感がしてた。今日までは大丈夫だと思っていたのに』


「私も…。とにかく悠理は出社してこなかった。会社の着信履歴を見せてもらったけど非通知で、市外局番で特定も出来なかった。」


『それなんだけど、まだ午前中は市内に居た筈よ。手紙には切手が無かったから』


「っ…!そう…悠理はうちに来てたのね」


『これからどうするの?』


「ひとまず悠理の家に行く。日中は管理人さんが一階に居た筈だから、何か知っているかも。さとみは念のため私の家の近所を見て回って欲しい。それからこっちに向かってきて。手紙も一緒にね」


『了解。また連絡する』


 無意識に、私は立ち止まって両手で顔を覆った。

 悠理が私の家に来て、直接投函していった手紙。そこに書かれているのはきっと遺書に近いもの。こみ上げてくる感情をぐっと堪えて、目を瞑る。落ち着け、まだこれからだ。

 会社からは公共交通機関を使った方が車より早い。止まっていた足を動かし最寄り駅まで急いだ。



    ***



 何度か部屋のチャイムを押したが反応が無かったため、諦めて管理人室の呼び出しボタンを押す。出てきた管理人は年配の男性だった。マンション番号と悠理の名を伝え、そこの住人が売却予定だというので今日見せてもらう予定なのだと告げてみる。名刺を出して会社の同僚だという事も合わせて伝えると、奥から男性と同年代の女性が出てきた。きっと管理人は夫婦なのだろう。


「あら?そんな話聞いてなかったわ…。吉井さんなら今朝方、マスターキーを返却しに来たから受け取ってあるのよ。だからもう退居しているはずなのだけど…」


 困ったように首を傾げる年配の女性に、私も確認不足だったと丁重にお礼を告げてその場を辞した。退居しているのであれば、もうこの辺りには居ないだろう。


 行くべきか、待つべきか。

 マンションのエントランスを出て、思わず天を仰ぐ。

 薄青の空に浮かぶ雲は、手が届きそうだった夏と違って天高く遠くにあった。存在感の薄いうろこ雲は、まるで夏の入道雲から千切られた綿飴みたいだ。触れてしまえば熱で溶けて消えてしまいそうな。


「届かないの…?」


 空へ翳すように手を伸ばせば、掌には冷たい風が吹きつける。

 まだ、まだだ、諦めるな。

 奥歯を噛みしめて逸る気持ちを抑え込んだ時だった。

 コートのポケットから、着信を知らせる音が鳴り響いた。

 特別に設定していた別れの曲が鳴り響いた時、私の脳裏に一筋の光明が差した。




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