16 打開と思惑


 露天風呂に入って汗を流し、ホテルの豪華なフレンチ料理に舌鼓を打ち、悠理が手配してくれた誕生日のお祝いメッセージが描かれたケーキを平らげて、用意されたホテルの一室へと戻る。移動の間は常に繋がれる互いの手。


 和洋混在の優美な部屋についた途端、悠理は後ろからきつく私を抱きしめた。耳元にかかる甘やかな吐息と髪にくすぐったさを覚えて身を捩ると、そのまま強引にベッドへと押し倒されて、見上げればいつになく真剣な眼で射抜かれる。その眼には情欲が滲み出ていてぞくりと身体に痺れが走った。

 穏やかに求めてくる悠理を見続けていた私は、その姿に堪らなく煽られた。求められている、それも性急に。悠理が、私を。

 両手で悠理の頬を覆い引っ張り、強引なキスを仕掛けた。柔らかな唇の下にある歯がカチンと自分の歯と当たって鈍い痛みが走ったが、お構いなしに欲求は深いキスへと変わっていく。欲しい、今この瞬間を、悠理の中を私だけで満たしてしまいたい。

 呼応するかのように悠理は甘受して、息を荒げて唇を離すとゼロ距離で視線が絡み合う。まるで飢えた獣だ。そこからは、互いに蹂躙するかのように理性を飛ばして抱き合った。




 月の綺麗な夜だった。

 外を見渡せる大きな窓に掛けられているレースカーテンを透かすようにして月光が差し込んでいる。部屋の中は青白い光でぼんやりと縁取られていた。その青に染まった悠理が、すうすうと寝息を立てている。私はそれを見て、そっと起こさないようにベッドを抜け出す。何も纏っていない身体がぶるりと震えて、部屋に備え付けられている浴衣を羽織ると窓辺の椅子へ腰かけた。気持ちよさそうに眠っている悠理を眺めていると、自然と口元が緩んだ。


 お祭りに行った日を思い出す。初めて悠理が自分の過去を話してくれた日。あの日もこんな風にベッドから抜け出して窓際に座ったんだっけ。月は出ていたのだろうか。動揺していた私のことだ、満月だとしても気づかなかっただろう。

 私が出来ることなんて、多分これっぽっちもない。気持ちを強く伝えても、悠理はそれを自死のストーリーの糧として肉付けしてしまう。それが私にとっては残酷で、だけど酷く優しく思えた。私が悠理を止められないことは、私の責任ではないと。だからこそこんなに苦しくて、切ない。

 そんな私でも、最後くらい足掻きたいと思う。


 テーブルの上の携帯電話を手に取ると、以前調べた情報を引っ張り出す。そこから目当てのアプリケーションを幾つかダウンロードし、起動して操作手順を確認する。やることが決まれば気持ちも決まる。ごくり、と喉が勝手に動いてしまい、その音ですら悠理を起こさないかと神経を尖らせてしまう。

 足音を立てないようにそっとベッドまで移動して、悠理を覗き込む。寝返りも打たずに深く眠っていることを確認すると、枕元のコンセントに刺さっている充電コードを引き寄せた。私はコードに繋がれた携帯をそっと外して、そのまま窓辺の椅子へ戻る。何度か盗み見たパスコードを入力してロックを解除し、私は手早く操作を始めた。





「亜純、おはよう」


「うー…おはよ」


 カーテンの隙間から入ってくる日差しが眩しくて瞼が開かない。

 それと、昨夜の寝不足がたたって眠気が酷い。それでも瞼を開けば、ベッドに腰を下ろしてこちらを覗き込んでいる悠理と目が合う。愛おしそうに目を細めて髪の毛を撫でられる。それを私は心地よく受け入れた。

 ホテルの朝食バイキングをしっかり食べて楽しんで、ホテルを退去して帰宅した。悠理の様子はいつも通りで、昨夜の私の行動に気づいている様子はなかった。




    ***




 満員電車に揺られ、決められた時間に出勤し、仕事仲間と挨拶を交わす。それが心地よくもあり残念に思うのは、昨日までの時間があまりに濃厚で満たされたものだったから。

 私の部署ではシルバーウィーク中にさほど仕事は溜まっていなかったが、それでも休み明けは仕事が多い。気が付けば定時を過ぎて残業時間に突入していた。周りを見渡せば未だ多くの社員がデスクに座っている。

 まばらに退社していく同僚たちを見送りつつ、視線を彷徨わせながらある人物を探す。少しすると、分厚いファイルを抱えて別の部屋から出てきて、そのまま書庫へと向かっていく後ろ姿が確認できた。私はさっと立ち上がり、不自然にならないように距離を空けて後を追いかける。ぱちぱちっと電気がつくのを小窓から確認し、他に人が居ないことを悟ると同じく書庫への扉を開けた。


「佐川さん」


「お?どうしたよ小野ちゃん」


 中央のテーブルに資料を広げていた佐川はひょいと顔を上げた。


「すみません、少し話したいことがありまして」


「そうなの?わかった、とりあえず座ろっか」


 佐川は椅子へと手を掛けて私を促し座らせる。長机に備えてあるパイプ椅子へ腰を下ろすと、斜め向かいの席に佐川も座った。


「仕事で何かあった?」


「いえ、あの…役職者の方って、人事からの異動や退職情報は、内示の時点で把握できるんですか?主任である佐川さんに聞きたくて」


「あぁ、それだと課長以上じゃないと内示情報の閲覧はできないようになってる。でも俺の場合、人事で回らない仕事も一部預かってるから例外的に知ることは多いかな。突発的なものとか、本人が発表を控えてほしいとかでなければ」


「なるほど…」


「えっ、まさか小野ちゃん辞めたくなっちゃった!?」


 言い含みのある返事は佐川に誤解を生ませたらしい。急に不安げな表情になって慌てはじめる佐川を見て、私は思わず口元を緩めた。これはあれだ、以前私に好意があると告白したことが原因だと思っているのだろう。別にあの日以降関係性が変わることもなく、今まで通り接してくれている。何を心配することがあるのだろうか。


「いやいや違いますよ!私は全く辞める気ないですから、そんな心配そうな顔しないで下さい」


 ぷはっと堪え切れずに笑うと、佐川は一瞬固まったのち肩を落として「なんだよ~」と情けない声を出した。私も笑ってから自分が緊張していたことを知った。この人はやはり、相手の緊張をほぐすのが上手い。


「いやー、ほんと焦ったわ!驚かせんなよも~」


「あはは、すいません」


「…まぁでも、それを聞くってことは人事で気になることがあるんだろ?」


「はい、実は…」


 穏やかに微笑みながら先を促してくれる。その佐川の真摯な態度に、私も背筋を正して誠実に話そうと決めた。





 私の日常は、そこから目まぐるしく過ぎていった。いや、それはもう日常とは思えない緊張感と葛藤を孕んでいたが。

 季節の変わり目というのは、移ろいが早い。

 今年は寒冬になると天気予報士が言っていた。何とか現象が起こる年は、本格的な冬を迎えると一気に冷え込むらしい。

 十月に入ってからは朝晩の冷え込みが増し、木々の葉は一気に暖色に染まり紅葉が見ごろとなっている。悠理と訪れたときにはまばらに色づいていた地元への道中の景色は、今や立派な紅葉となって人々の目を楽しませていた。


 土曜日に日帰りで実家に帰り用事を済ませてきた私は、日曜の今日は自宅に居た。今週は悠理も用事があるそうで、珍しく会わない週末となっている。

 ペーパードリップした珈琲を啜りつつ、起動したPCのディスプレイを眺める。そんな日中を過ごしていると、携帯電話に着信が来た。発信者はさとみで、そのまま通話マークをタップする。


「もしもし」


『もしもし、寝てた?』


「起きてるよ、さすがに。どうしたの?」


『家に居るなら寄っていい?ポストの開け方も確認しておきたい』


「いいよ、あ、それなら一人紹介したい人が居るんだけども良いかな?合わせて説明しておきたい」


 大体の時間を指定して通話を切ると、そのまま通話履歴から該当の人物を見つけて電話を掛けた。


『はい』


「もしもし、圭さんですか。亜純です」


 通話の相手は悠理の元彼でありコーヒーショップ店員の圭だ。数日前にオフの日を教えてもらっていたので丁度良いタイミングだったと思う。


『それなら、予定していた時間より早めに向かいますね』


「お願いします。急な変更になってしまってすみません」


『はは、全然構いませんよ。俺も時間まで手持無沙汰だったので』


 通話を切って、マグカップに残った珈琲を一気に飲み干す。カフェインの力を借りつつ、今日行われるブレストについて思考しながら支度をし始める。最近珈琲を飲む頻度がぐっと上がったな、なんてぼんやりと考えながら。




 翌日は、通常通り出社。

 悠理も出社することを確認する。

 晩秋へ向かっている天候は崩れやすく、朝から冷たい雨が降っていた。会社に付くとすぐに珈琲を淹れ、冷えた身体を温めながら業務を開始する。朝一に取り掛かっていた案件に一区切りつきそうだというところで、ぽんと肩を叩かれた。振り返れば佐川が立って居て、その表情がどことなく強張っているように見える。


「佐川さん?」


「…小野ちゃんが危惧してたこと、本当だったわ。しかもかなり直近だった。口止めしていたらしい」


「…そうですか。場所変えますか」


 佐川が気落ちしたように、それでもなお気遣うような素振りを見せた。頼んだのは私なのに、申し訳ない気持ちになる。自席を立って、以前話した書庫へと向かう。

 分かっていたことなのに、焦燥に駆られる。もうすぐそこまで迫ってきているのだ。奥歯をぐっと噛みしめる。

 昨日の圭とさとみでのやりとりは比較的スムーズに事を運べた。自分ひとりではカバーできない部分を補ってくれる、貴重な戦力だ。そして佐川もその一人。

 書庫に異動して詳しく話を聞く。どうやら悠理は今月中に決着を付けるつもりらしい。佐川に感謝の気持ちを伝えて頭を下げると、ぽん、と肩の上に手をのせられた。


「…あんまり抱え込みすぎないように、な。万一何かあった時は遠慮なく休んで良いから」


「…ありがとう、ございます」


 佐川の言葉に、私は不覚にも目頭が熱くなった。こんなところで泣くな、と自分を鼓舞してぎゅっと目を瞑る。感情の波が静まるまでそのまま動けなかった。それを佐川も分かっているのか、何度かぽんぽんと私の肩を軽く叩くだけで何も言わなかった。

 漸く顔を上げた時、佐川が困ったような顔で「こんなに小野ちゃんに思って貰えてるのに、あの子はずるいよなぁ」と笑ったので、「その通りですよ、まったくもう」と私も笑った。



 少し遅くなりつつも、仕事を終わらせて自宅に帰る。悠理は定時で上がれたようで、自宅でのんびりしているらしい。送られてきたメッセージにほっと胸をなでおろす。

 その後に佐川から聞いたことを二人へ連絡し、その近辺のスケジュールを確認する。明日の日中にもう一件だけ連絡をする。希望的観測ではあるが、私の中では強い予感があった。最悪、探し回ってでも見つけるつもりである。



 寝る前に悠理から電話がかかってきて、私は次の休日こそは会いたいと提案した。電話の向こうで、一瞬だけ躊躇う様に息が詰まったのを私は感じた。けれどそれはほんの刹那で、何事もないように悠理は「私も会いたい」と言い、了承してくれた。

 通話を切って、私はベッドサイドに置いているジュエリーボックスを開ける。そこに収められている美しい宝石をひとつ撫でてから、部屋の電気を消した。


 また明日、会えますようにと祈りを込めて。



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