15 望郷/ノスタルジア


 もうお金は遺したところで使うこともないだろう。そんなことより、貴女にはきちんと贈り物がしたいと思ったから。

 私が居なくなっても大丈夫なように、何か残そうと決めていた。

 そして、やっぱりそうだった。これでよかった。

 私たちが出会ったのは、必然だったのかもしれない。



    *



 あの頃の幸せな記憶を誰かと共有することは苦痛だった。苦痛を超えて憎しみまで覚えたこともある。だからこの街を出て、こことは真逆の自然の少ない土地を選んで住んだ。他人とこの事柄について共有することを避けるために。それが、もう死のうと決めたあの日から薄らいでいることに気づく。失笑した。誰かと過去を共有することが心地よく感じたのは初めてかもしれない。乾いてささくれだった心が、自然と鎮まりを取り戻していくのはむずがゆかった。


 私の兄を、記録に残してくれている人が居る。あの日の景色を私に近い場所から見てくれていた人が居る。それだけで、亜純とこの地に来ることが出来てよかったと思った。


 矢島家の玄関を出てすぐのこと。

 目が少し赤くなっている亜純が可愛らしくて、思わず頭を撫でると「もう、子供じゃないんだから」とぶっきらぼうに返される。それでも撫でる手を払いのけないのは本心では無いからだろう。


「ねぇ悠理、行きたいところがあるの。着いてきて」


 すぐ近くだから歩いていこう、と手を引かれて私は歩き出す。

 向かう先はなんとなく想像がついた。

 きっと私も望んでいる場所だ。


 手を繋いで導かれるように坂道を降りていき、右に曲がったところの高架下から住宅街の裏手へと入り込む。少し歩くと舗装されていた地面が砂利と土に変わり、雑草が腰以上の高さまで茂っていた。見上げた先の堤防へ行くために、それをざくざくと手で掻き分けながら進んでいく。亜純が歩く道は幼い頃に作った獣道とまるで同じで、伸びた雑草と相俟って自分の体があの頃のように小さくなったと錯覚してしまう。

 傾き始めた日差しはオレンジ色を帯び始め、木々や葉を黄色やオレンジへと変化させる。ざあっと木々が風に靡かれて音を立てた。


 堤防を登り切った先で見たものは、あの日と変わらない景色。木々の隙間から望める一級河川は柔らかな水音と共に流れていて、堤防の周りには大木が密集している。そこから背の高い草もまじって周囲を埋め尽くし、ここら一帯は雑木林のようになっていた。様々な喧騒から遠ざかったような、揺るがない強さと嫋(たお)やかさがここでは共存している。大小の木々が至る所で葉をざわめかせて、川のせせらぎと共鳴している。その全てが紅葉の兆しを見せていて、きらきらと西日に照らされる姿はとても綺麗だった。


「ここが私の場所だった」


 西日の眩しさに目を細めながら亜純がぽつりと零した。


「悠理もここが居場所だったんじゃないの?」


「…私の居場所……だったのかもしれない」


〝居場所〟という言葉は、私をはっとさせた。

 自分にとっての居場所など考えたことが無い。あの日から私は根無し草のように、人にも住処にも執着せずに生きてきた。全ては上澄みだけの色褪せた世界で、ある程度の立ち回りだけで損しない程度にやっていく事だけを漠然と繰り返していた。

 今は亜純の言葉が素直に心に入ってくる。そうか、ここは私の好きな場所でもあり、居場所だったのだと。

 繋いだままの掌に少しだけ湿り気が帯びる。


「私はよく、一人でここにきてはぼうっと景色を眺めてた。何かしなきゃいけないっていう概念から抜け出したみたいに、ここでは心が落ち着いたの。今思えば不思議ね、あんなに小さいころからそんなこと感じてたなんて。」


 私も同じだ。家族円満だった頃も、歯車が狂いだしてからも、なんとなく一人でふらっとここへ来ていた。特に理由があった訳ではない。ここへ来ると自分の中の何かがリセットされたような気持ちになって、また日々の喧騒に戻っていく。その間はこの場所のことは、一切思い出さない。それくらいの重要性だったはずなのに、この街を離れてからは何度も思い出すようになってしまった。

 あの頃、同年代の先客が居たこともあったが、あれはきっと亜純だったのだと思う。そして私も気づいたように、彼女も私が来ていたことに気づいたのだ。木々の香りを肺に入れて吐き出して、私は口を開く。


「私の、私が幸せだったころの様々な思いや葛藤が、ここには残っている。もうあの家は他人の物になった。でもここは変わらない…ずっと変わらずにただ存在している。それだけで十分。あの頃の自分の居場所でもあったのかも。それに、こんな大人になった今の私にでさえ、居場所としてここはある気がする。」


 取り残された私にとって唯一の、幸福な思い出と共生できる場所。


「今の私は、他のどんなところより、ここが好き。少し寂れた雰囲気とか、綺麗なのにどこか暗い、というか」


 自分を終わらせたいと願った時に思いついたのは―


 そう、私が最期として選びたいのはこの場所だった。


 口角が緩む。一つ一つ埋まっていく私のレール。もう道は整った。

 押し込んでいる真っ黒な私が、


「完璧よ、亜純」


「え?」


 繋いでいた手を強く引いて、バランスを崩した亜純を抱き止める。掻き抱くような勢いだったのに、亜純はすんなりと私の腕の中へ納まった。


「何よ、突然」


「ふふ、やっぱり亜純を選んでよかったなぁって」


「なにその上から目線、私だって選んだのは一緒なのに~」


 これは最近よく怒られること。けれどどうしても口をついて出てしまうのは私の悪い癖でもある。見下しているわけではなく、私なりの愛着心。

 私のことを、私が思う全ての中で理解しようとしてくれる人。

 他人の垣根も恋人の垣根も乗り越えて私の深淵に踏み込もうとする人。

 想えば想う程にじんわりと潤んでいく自分の瞳。感情も一緒に零れ落ちないようにと言葉を放つ。


「亜純に渡したいものがあるの」


 神様とやらが居るなんて思わない。理不尽も暴力も別にもう否定すらしない。だけど亜純に会えたことは純粋に奇跡だったのかもしれない。必然はその中で生まれてきたのかもしれない。

 きっと私が死ぬことを選ばなければ、亜純と、なんて。

 そんな世界があったらと夢を見させてくれて、ありがとう。




    ***




 ひとつ思い出すと、数珠つなぎのように一緒に仕舞われていた思い出が蘇えるのは不思議だ。思い出したくなかった訳じゃない、ただ切っ掛けがないと記憶の奥底に沈んで浮かび上がってこないのだ。

 そしてまた一つ思い出したのは、幼い頃遊んでいたこの小さい林。

 背丈のない私たちには周囲の家から見えないこの場所を「隠れ家」と言っていた。その隠れ家で好きな子と遊ぶときめきも、わくわくもあった。親には川が近いからあまり行くなと言われていたが、その目を掻い潜っては遊びに来たことも。


 思春期を迎えてからは一人で来るようになって、大人になってからも偶に足を運んだ。何もかも憂鬱な時は、ひっそりとここで心を休めにきた。たまに、隣の学生服を着た女子が堤防に佇んでいることもあった。今思えば、あれは悠理だったのだと思う。


 あの時の私たちには、ここは特別な場所だったのだ。


 そして、今は一人ではなく二人で居る。じわりじわりと心が温かいものに満たされていく感覚。まるで探していたものが見つかったときの様に、足りなかったものを埋められたように。




 急に腕を引かれ、ぽすんと抱き留められる。そこから繰り広げられる取り留めの無い会話は終始上擦っていて、明らかに悠理が高揚していることが伺えた。漸く互いの身体が離れると、悠理は鞄から小さな箱を取り出した。


「お誕生日、おめでとう」


 そう言って差し出されたのはジュエリーケースだった。誰しもが見たことのあるハイブランドのロゴマークが蓋に印字してある。呆気にとられ言葉が出せずに固まっていると、促すように悠理があけてみてとほほ笑んだ。

 そっと受け取って、蓋を開く。


「…わぁ」


 とっさに漏れたのは感嘆の声だった。

 透き通る淡いピンクの宝石が水滴ティアドロップ型にカットされていて、その宝石の周囲とピンクゴールドのチェーン部分にはダイヤモンドが散りばめられている。恐ろしく綺麗なネックレスだった。上品かつ華やかなデザインは、私がこれまで見たどんなジュエリーより美しいと思った。そしてブランド名を思い出し、その値段を考えてぞっとしてしまう。これは明らかに過剰だ。


「すごく綺麗…けど…これ…高価なものでしょ…?さすがに受け取れないよ…」


「そんなの気にしないで!絶対にあげるって決めたから、返品は受け付けないからね。亜純に似合うだろうなぁと思ってこれにしたの」


 腰が引けている私に気づいた悠理は「それにお金に困ったら売れるよ、一石二鳥!」なんて能天気なことを謳いだす。流石にそれはないだろう、と戦々恐々としていたが、それ以上に頑なな悠理に負けた私は受け取ることにした。

 大事をさらりと流してしまい、朗らかに笑ってみせる悠理。そういう豪胆なところも好きだった。


 ここへ来ることができて、誕生日を祝って貰えて、本当に嬉しいと心から思えた。


 それなのに。

 それなのに。


「私からの感謝の気持ちも沢山込めました。出会ってから今まで…一緒にいてくれてありがとう」


 そう言って優しく笑った悠理は、私を見ているようで見ていない。

 その顔を見て、私の心は絶望に突き落とされた。


 息が上手く出来なくて、悟られないように必死に呼吸をしながら笑顔を作る。


「…っ!こちらこそ…ありがとう、嬉しい」


「ふふっ、どういたしまして。だからそんな、泣かないで」


 そっと抱きしめられて、背中を擦られる。私の身体は宥められることなく震えたままだ。

 優しくなんかしないでよ。

 これは嬉し涙なんかじゃない。


 悲しいの、私は…!

 猛烈に、悲しいんだ。

 気づいてしまったから。悠理が何を考えているのかを。


 ありがとうという言葉の理由を。柔らかな、そして晴れやかな表情を。まるでもう、思い残すことは無いと言っているようなものじゃないか。悠理の一挙手一投足が私の予感を確信へと変えていく。

 どうして、どうしてこういう時ばかり私は気づいてしまうのだ。

 私にはもう、悠理と一緒にいられる時間が僅かしかないのだと。

 悠理は全ての工程を終えて、後は実行するだけなのだ。


 こんな日が来ることは解り切っていた筈なのに。それでも突きつけられた現実は想像よりも遥かに辛いものだった。考えることをやめた、少しでも一緒に居られる時間を引き延ばせたらという浅はかな願望は本当に願望でしかなかった。わかっていたじゃないか。

 悠理の中での私の役割は、悠理の自死を助長するための最後のピースだったのだと。

 悔しい、悲しい、情けなく縋りついて死なないでと叫びたい。

 でも、私も決めたのだ。心を暗闇に漬け込んできたのだ。感情を無理やりねじ伏せる為に、握りしめた掌の爪を皮膚へと食い込ませる。


 このまま泣いて縋って終わりじゃ、今までの私となんら変わらない。

 少しでも強く、前に踏み出したいと思ったのだ。悠理に強い私を見せる為に。自分を鼓舞してでも、虚勢でもいいから。私が凛として立って歩いていくために。

 何でもいいから、我武者羅に。

 私を抱きしめて、ぽんぽんとあやす様に背中を撫でる手を、失わないために。


「…悠理」


「大丈夫?少しは落ち着いた?」


 肩を軽く押して腕の中から離れると、真っ直ぐに悠理を見据えた。私の真剣な表情を見た悠理は少し驚いたように目を瞠ったが、一度瞬きをすると慈愛を含んだ瞳で優しく見つめ返してくる。

 今まで大切にしていた、中指に嵌めた指輪をきゅっと引き抜いて、悠理の手を取りそれを握らせた。


「これ、悠理にあげるから持っていて欲しい」


「え…?」


 私のお守りだった指輪は、今日からもう必要ない。


「一つだけ、私の我儘を聞いてほしい」


「…うん」


「悠理が自分で自分を殺すなら、その前に―」


 見開かれた目は真っ直ぐに私を射抜く。



「私があなたを殺す」



 沈黙。

 どれほど時間が流れたのか判らない。あるいはほんの数秒だったのかもしれない。


「…ありがとう」


 くしゃりと泣きそうな顔で笑ったあなたを、きっと生涯忘れることはないだろう。




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