11 衝動
シャベルと芍薬の花一輪を持ち、血なまぐさいビニール袋を抱えた雨合羽の女二人が「近くの人気のない林」へ行きたいと告げれば、タクシーの運転手は明らかに不審がるだろう。
人に興味のなさそうな、幸の薄そうな男の運転手だったからまだ良かったのかもしれない。一瞬すんっと鼻を動かし怪訝な顔をしたが、探ることもなく「あぁ、あそこね」と言っただけだった。
私の手に握られている芍薬は、悠理の部屋に飾ってあったものだ。艶やかな赤紫が生きた血のようで、不思議な魅力を放っている。
黒い雨雲のすきまから覗く濃いオレンジの夕日がとても綺麗で、ぼうっと車内からそれを眺める。これをノスタルジックな景色と言うのだろう。雨に濡れたビルの隙間から強い光が差し込んで、ビルが光り輝いている。雨は止んではくれなかった。
ふと、置いていた左手に暖かいものが被さる。悠理の手を私は指を絡めて握り返した。彼女もまた、ぼうっと窓の外の不思議な景色を眺めていた。
あの日と同じだ、イベントに行った日の帰り道も、確かこんな感じだった。二人の手だけが固く繋がれているのに、ここにはぽっかりとした虚無がある。虚無と愛情が入り混じるこの感覚は、不思議と嫌いになれない。
タクシーを降りて、林へ足を踏み入れる。ある程度の大きさがある木の根元にたどり着くと、長靴で地面を叩いて掘り起こせそうなところを探す。草木があまり生えていない一角を見つける。私たちは軍手を嵌めて、悠理がシャベルで固くなった土を解して、私が柔らかくなった土を両手で掻き出した。雨に濡れた土は水分を含んで重くなり、両手で土を懸命に出しているのに中々進まない。猫一匹分は思っていたより重労働だった。
「そろそろいいかな」
ビニール袋からそっと動かなくなった黒猫を取り出すと、横向きに寝かせた。縮こまった手足を伸ばしてやると、どこかへ走っているようにも見えた。もう肉体は死んでいるのに、そんな躍動感を感じるのは何故だろう。その上からトートバッグを布団のようにそっと掛けて身体を包んだ。
「ありがとう。またね」
悠理は寂しそうに微笑んで黒猫に言った。
少しずつ、土を被せていく。黒い姿が見えなくなって、こげ茶色の土の色が全てを包んだ。掘り返された柔らかな土はどんどんと穴を埋めていき、最後には小さな丘のようになる。
丘のてっぺんに芍薬を供えて、両手を合わせた。精一杯生きてきたのであろう黒猫に「またいつか」と脳内で言葉をかける。きっとこの黒猫は、初めてゆりの家へ行ったときに見かけた猫だ。あの日も雨だった。勝手に自分と重ね合わせて見つめた、闇に融けそうな黒いシルエットを思い出す。
悠理も手を合わせて目を閉じている。果たして彼女は何を思い、何を感じているのだろう。暫くそうした後に、悠理はぽつりと呟いた。
「私が死んだら、泣いてくれる?」
「当たり前じゃない。それに私はあなたを死なせたくない。ずっと傍にいる」
「亜純はいつも直球だね。嬉しいよ、ありがとう」
軍手を外して、持ってきたビニール袋に放り込んだ。綺麗とは言えない素手を、互いに差し出して繋ぎ合わせる。柔らかく繊細で、少し脆く感じる手。この手をいつまで掴んでいられるのだろう。いつまで悠理と会話をすることができるのだろう。
「なにがあっても悠理の傍に居たいって思っちゃうから、私は。ねぇ、悠理は私をちゃんと見てくれてる?ほかの人と比較したり、その他大勢の中の一人だと思わずに、ちゃんと」
「見てるよ。きっと亜純が最後の大切な人」
一拍置いて告げられたのは、重みのある言葉だった。一言一句を噛み締めるように、私はその音を租借していく。
悠理は強い。明確な意思と共に生き、そして死を迎えるべき日まで決意している。私は惰性で生き、出会ったものに一喜一憂し揺り動かされている。私たちには明確な違いがある。
繋いだまま、暫くのあいだ黒猫と一緒に雨に打たれた。私の脳内には今までの悠理の表情、態度、言葉、そして圭の姿がフラッシュバックするように飛び交う。
もやもやする、何かが這い上がってくるような感覚が処理しきれない。自分が無力で空虚な人間だと再確認されているようで苦しくなる。胸が痛んだ。私には何もできないのかもしれない、ただ、悠理の傍にいるだけの、彼女の人生に少しだけ介入できる権利を持っただけの人間。
結局、黒猫と何があったのかは聞かなかった。
***
そもそも裏切りなんて言葉は私たちの間には存在しないのかもしれない。けれど咄嗟に出てきた言葉がそれだった私は、感情のコントロールができていないようだった。
黒猫を埋めたあの日を皮切りに、徐々に気温と湿度は下がり、からっとした秋のにおいを感じ始めた。あと半月もすればテレビで紅葉特集などが組まれるのだろう。秋の到来を感じると私の誕生日ももうすぐで、休日を利用して悠理と地元に帰ることも決定している。
私へのプレゼントは考えてくれているのだろうか。悠理なら「私が死んで亜純を開放してあげる」というプレゼントを持ってきそうだとも自嘲したが、冗談ではなく本当にやってしまいそうで考えるのを止めた。
金曜の今日、悠理と飲みに行く約束をしていた。けれど部内のミスで情報漏洩が起こってしまい、事実確認と謝罪対応に追われ、とてもじゃないが定時には帰れなくなってしまった。こんな時に限って、と一瞬恨み節も出かけたが、自分にもあり得るミスであり一概に攻められない。しかもその発生元は佐川だったのだ。真面目で実直な彼が膨大な仕事量に頭を抱えているのは見ていられない。悠理に断りを入れ、事務処理関連のバックアップをし、漸く目処がついた時には時刻は十時半を回っていた。
「皆、本当にありがとう、こんな時間まで…助かったよ。お礼に飲みに行こうと言いたいけど、遅い時間だしな」
この時間まで残っていたのはいつものメンバー、飲みに行く仲間たちだった。珍しい佐川のミスに、普段の借りを返すと言わんばかりにサポートしたのだ。今回の件で上から厳重注意を受けるものの、迅速な対応ができたこと、流出したデータ自体の重要度はそう高くはなかったこともあり、佐川がそれ以上の責を負うことはないだろう。
「じゃあ来週にでも飲みに行きますか、佐川のおごりで!」
皆がその一言に笑顔で頷いて、結局今日は解散となった。会社を出て歩きながら携帯電話を取り出し、通知画面を浮かび上がらせる。特に通知は来ていない。
二時間前に悠理とやり取りはしたのだが「飲みに行ってくる」と連絡が来てからは返事を返していなかった。
きっといつもの店で飲んでいるのだろうと踏んで、店がある方向へと足を向けた。
店が入っている雑居ビルが見えてきたところで、ビルの前で女性二人が立ち止まって何やら話しているのが見える。一人は何度か見たことがある店の常連だったのだが、手前で背を向けている人物は顔がわからない。けれど数秒見つめれば、見慣れた背格好であることがわかる。
ふと、嫌な予感がした。悠理の向かいにいる女は尻軽で有名な女だ。悠理に強引に腕を絡ませて何か喋っていて、それに反応して体を捩った悠理の横顔が見えたが、その表情が笑顔だったことに何故かぎくりとしたのだ。
一本手前の道路で思わず横道に逸れた。大丈夫、二人とも私には全く気づいてはいなかった。
隠れるように裏道からビルの横の細道へ進み、道路に出る手前で立ち止まると路上にも関わらず大きな声でやり取りしている声が聞こえてくる。
「…でだから…お願い!」
「…」
「あっちに確か…ね?」
悠理の声は全く聞こえないし、相手の女の声も活舌が悪く聞き取りにくい。どうやら相当酔っているようだった。
そのうち悠理の笑い声が聞こえてきて、女の甘えたような声もあとから続いた。
「タクシー拾お?あそこまで歩くのはやだぁ!」
「…モリアルはシャンプーが…」
「別にシャンプーなんていーの!はやくホテルいこーよぉ」
血の気が引いて、自分の顔がさぁっと青ざめていくのが分かった。
これから行く場所がホテルであるということを理解してしまったから。
押しつぶされたように動けなくなり、なんとか壁にもたれかかる。歩き出した足音がこちらへ向かってきて、二人が細道の前を横切った。その時の、悠理の色めいた笑みが鮮明な映像として脳裏に焼き付く。笑っていたのだ。私に向ける笑みと同じ笑みを、他の女へ向けて。盗み聞きを気付かれなかったことへの安堵感なんて感じなかった。
ふらふらと細道を出ると、二人は道路わきに止まっていたタクシーに乗り込んでいて、その光景を呆然と眺める。こちらへ見向きもせずに乗り込んだ二人の頭がくっつく。タクシーはホテル街の方向へと走り出した。
次の信号を曲がったところまで見送った。それから携帯電話を取り出し、無意識のうちにさとみに電話を掛けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます