10 黒猫


 最中、さとみはよく喋った。

 それは優しい言葉ではなく蔑むための言葉で、ひどく乱暴なセックスだった。


 どんなに心が受け入れがたくとも、与えられれば躰は反応する。嫌だと抵抗してもずるずる流され、気がつけば脳内は快楽に支配されていた。ひどいセックスなのにそれが何故だか強烈に善く、訪れる多幸感に私は恐怖し、同時に満たされた。これは頭を悩ませている一切を掻き消してしまう麻薬なのだ。漠然と理解する。憂いを消したければそれと同等かそれ以上の刺激でなければ効果がないのだと。

 私は幸せなセックスより、背徳的なセックスを求めている。

 いつから歪んでしまったのだろう。思えば、物心ついた頃には自分が人より臆病で弱いことに気づき、心に踏み込まれないよう誤魔化す所から始まったのかもしれない。

 上手くいかない日々、人間関係に疲れ果てた中学時代、たまたまネットで見つけたリストカットをしてみたら気持ちよくて癖になった。自傷することが自分の何処へもやれない感情の捌け口になることだと知った。

 人を傷つけることもした。それによって満たされる自己顕示欲と承認欲求、そして強い罪悪感に幼い自分の器は耐えることが出来なかった。それでもやった、やめられなかった。社会に順応できず、皮をかぶって生きて、私の中身は空っぽだ。




「亜純、起きて、起きてってば」


 夢か現実なのか曖昧な境界線で、聞こえてくる声は徐々に鮮明になる。時を同じくして襲ってきた頭痛は酷く、ガンガンと鈍器で殴られているようだった。


「いっ痛…」


「飲み過ぎ。潰れたあなたをここまで運ぶの、大変だったんだから」


 身体を無理やり起こし、ゆっくり目を開けば照明に照らされたチープな壁紙と真っ白な掛布団が目に入ってきた。一瞬にして血の気が引いた。どれだけ飲めばラブホテルに寝かされることになるのだ。久しぶりの強烈な二日酔いも相まって気分は最悪だ。


「えっと、ラブホ…?」


「なーんもあるわけないでしょ。着いたらすぐベッドに転がって寝てたわよ、亜純ちゃんは」


 否定されたさとみの言葉とは裏腹に、私の脳内には既に昨夜の出来事が蘇ってきていた。さらりと嘘をついた、私が思い出す前に。


「まじか…ごめん、酷い二日酔い…シャワー浴びる時間ある?」


「浴びたいだろうと思って早めに起こしたから、大丈夫。行ってらっしゃい」


 その前にこれ、とペットボトルを差し出され、素直に水分を身体に流し込む。さとみはいたって普通で、寧ろ心配そうに私の背中をさすった、その手が数時間前を思い起こさせるとは知らずに。

 大丈夫だと制してシャワールームへ入ると、鏡に映るひどく疲れた顔を見て堪えきれずにしゃがみ込む。


 覚えていない筈がない、忘れるはずがない。

 まだ触られた感触が生々しく身体に残っている。自分の身体を抱きしめる様に腕を回すと、より鮮明に思い出される行為の数々。そして強い熱を帯びて、身体が思い出したようにふるりと震えた。少し冷たい足元のタイルからかろうじて熱を吐き出す、裸足の足がやけに生々しく温度を伝えてくる。


「なにやってるんだか…」


 本人に聞くことなんて到底出来ない、さとみの考えが読めない今、深追いしても良い結果を得られるとは思えない。


 私は酔っても記憶を飛ばさない。それをさとみはよく知っている筈なのだ。





 ***





「そんなに飲んだの⁉もー、言ってくれたら迎えに行ったのに」


「ありがとう、けど電話する余裕もなかったの。今日は夜までには行けると思うんだけど良い?」


「いつでも良いよ、のんびり待ってるね」


 真っ直ぐ自宅へ帰り、ウコンの錠剤を水で流し入れて昼過ぎまで眠る。起きたときには二日酔いは大分マシになっていた。

 まだ時刻は六時前。昼前に電話した時の会話から、てっきり家に居るものだと思って早めに悠理の家に向かった。いつもの間延びしたチャイムを何度鳴らしても出てくる気配がない。私の読みははずれていたようだ。


「寝てる…?」


 電話をしても呼び出し音が続くだけで留守電にならない。暫く待ってみたものの、諦めてマンションのエントランスを出た。今までスムーズに連絡が取れていたので若干の不安はあったが、予定より早く来てしまったのだ、用事で家を空けている可能性も十分に考えられる。

 暇つぶしに近くを歩いていると、徐々に灰色がかってきた空からぽつりと雨粒が落ちてきた。そして堰を切ったように激しく降ってくる雨に、慌てて近くのコンビニへと非難する。止む気配の無い雨に天気予報をチェックしたが、通り雨程度だと書いてあった。それでもなんとなく止まない予感がして、ビニール傘を買って店を出る。


 大通り沿いを歩いていると、カフェの路面店が姿をだした。ふと思い出したのは以前悠理の家へ来ていた男で、思わず奥歯を噛みしめる。毎度コーヒーを飲むたびに思い出すなんて鬱陶しくてたまらない。ふうと息を吐いて気持ちを切り替える。悠理と連絡がつくまで少し休むことにした。


 カラン、と入口のドアに付けられたベルを鳴らして店内に入る。レジカウンターは空いていた。愛想の良い女性店員に薦められた「本日のおすすめ珈琲」を注文し、受取口で待つ。ぐるりと店内を見渡して席を探す。残念なことに見晴らしの良い窓際席に空きは見当たらない。

 コーヒーを受け取り、仕方なく奥まっているテーブル席へ歩いて行くと、左手にあったスタッフルームの扉がタイミングよく開いた。慌てて立ち止まって、マグカップのコーヒーを零さない様に注視する。どうやら無事みたいだ。

 目の前に出てきたスタッフは、私に気付くと「すみません!」と頭を下げた。いえ、と短く返事を反す。そのまま進路を開けてくれると思っていたが、何故か頭を上げても立ち止まって動く気配が無い。


「亜純…さんですか?」


 その声にどきりとして、マグカップから視線を上げると、端正な顔立ちの男が亜純を見つめていた。身体中の血液が一気に逆流するような感覚が襲う。それは先日から、先程も思い出しては頭を悩ませていた人物、ケイに違いなかった。客としてよく利用しているかも、とは思っていたが、まさかここで働いていたとは。驚きのあまり声を出せない私に、彼は安心させるように微笑んだ。


「すみません、突然声をかけてしまって。笹原圭と言います。この近くに住んでる悠理の友人で、よく亜純さんの話を聞いてたので、つい」


 そう言って、彼はエプロンの胸ポケットに付いているネームプレートを持ち上げた。


「あ、あぁ、悠理の」


 友人なんですね、と大きく首を振って笑顔を作る。私はうまく笑えているだろうか。自分の挙動が不審に思われていないだろうか不安になる。


「僕これから休憩なんですけど、もしよかったら少しお話しませんか?」


 急展開すぎる。でもここで曖昧に拒否するのは心証が悪い。これから席に座ってコーヒーを飲もうとしている私に拒否権は無かった。

 笑顔で了承し、両脇に客が居ない丸テーブルの席へと腰掛けた。

 店のエプロンをさらりと外し、白シャツと黒っぽいズボンのシンプルな服装になった圭は、まさか会えるとは思ってませんでしたと笑顔で向かいの椅子へと腰掛ける。握ったマグカップには甘そうなクリームが乗っていて、よりその雰囲気を柔らかくさせていた。


 他愛無い日常会話から始まって、このカフェの店長として最近この店に異動してきたことや、最近のおすすめのメニューのことのなどを話した。圭は終始穏やかに、相手の気持ちをくみ取って話す人だった。その姿に好印象を受けるものの、同じくほの暗い嫉妬心も増幅してしまい何とも心中複雑だ。だが、彼の目的が読めない。ただ単に友人として話したかっただけなのだろうか。疑問に思いながらもコーヒーを三分の二程飲み終えた頃、また穏やかに彼は言った。


「亜純さんは、悠理の恋人なんですよね」


 はっとして圭を見やれば、笑顔を消して真剣な眼差しをこちらへ向けていた。それは威圧するようなものではなく、寧ろ少し苦しそうな表情に思えた。


「…いえ、付き合うことは出来ないけど、傍にいることならできると言われました」


「…そうですか。以前悠理から女性も恋愛対象に入ると聞いていました。亜純さんの話をする時の悠理の表情が恋愛のそれだったので…。俺、実は悠理の元カレなんです、今更すみません」


「それはなんとなく気付いていました。今も悠理を大切に思っているというのも、わかります」


「はは、そうですね。俺は振られた身なので…。けど、こうして今も気にかけているのは、未練があるからじゃないんです。亜純さんとお話がしたかったのも、悠理から遠ざけるためでも牽制するためでもない。こんなこと言うのもどうかと思うんですが…悠理が消えてしまいそうで不安なんです」


 私は思わず息を飲んで、言葉の衝撃を飲み込もうとした。

 彼は悠理のこれからやろうとしていることを知っている、いや直感しているのだ。悠理の危うい部分を知ったうえで、私に事の重大性を訴えている。

 今の今まで増幅していた嫉妬の情はみるみる萎み、恋愛的な面でしか捉えず敵対視していた自分がたまらなく恥ずかしくなった。自分の過剰な恋愛脳に嫌気がさす。彼は、私のような浅ましい人間ではない。


「私には、もうすぐ死ぬ予定なのと言っていました。最初は飛躍しすぎていて全く意味を掴めなかったけど、今はなんとなく、察しています。圭さんには何と言ったんですか」


 圭はすぐさま表情をこわばらせて、ごくりと唾を飲み込んだ。悠理が嫌な予感を決定づける発言をしたことが余程ショックだったのだろう。マグカップを両手でぐっと握り込むと、俯いて絞り出すように話した。


「俺には、将来子供を産めないから結婚できないと言っていました。そんなの気にしなくて良いと何度も説得したんですが、変わらなかった。圭に辛い思いはさせたくないと、逆に説得させられるように」


「結婚前提だったんですか」


「少なくとも、俺はそう思っていました。別れたがる理由もいまいち腑に落ちなくて、どんどん、悠理の考えがわからなくなっていったんです。寂しそうな笑顔を俺に向ける様になった。それから早い段階で別れることになって。吹っ切れた後に、悠理がちゃんと生活しているのか気になりはじめました。そんな時にタイミングよく異動が決まり、思い切って様子を見に行きました。それでたまに会うようになって。あ、ただ彼女も俺に対して未練なんて無いですし、会っても軽く世間話をする程度です。すみません、余計なことをして」


 それは私も実際に見ているので知っている。毎回カフェの袋を持って、きっと会うのを楽しみに、ちゃんと存在していることを確認しに。

 大丈夫ですよとほほ笑むと、圭も強張った表情を少し緩めた。


「そこで亜純さんの写真を見て、最近よく会っていると聞いて、ぴんときました。悠理は男ではなくこの先ずっと女性との関係を選んだのかとも思いました。けど…やっぱりそれだけじゃなかったんだ。自分の力じゃ、悠理は助けてやれなかった。どうしても、突然消えてしまいそうな予感がして、不安なんです。それでたまに家に様子を伺いに行くんです。ずっと胸騒ぎがしている感じで」


「私も圭さんと同じ感覚でした。ただ…私にとっての悠理は、私なんかよりよっぽど強く意思のある人だと思っています。その意思が今は悪い方向に向かっている」


 悠理はずっと自分よりも経験値が高く、考え方も大人で、全てにおいて己を上回っている存在だった。言葉にすれば余計に感じる、彼女と私の距離。別次元で何かと葛藤している、自分には入り込めない高次元の領域。


「悠理は確かに強いです、けど、どこかにすごく脆い部分がある気がします」


 厚かましいお願い事をしてしまって、申し訳ありません。お願いします、悠理を気にかけてやって欲しい。この心配を杞憂に終わらせたい。

 私もまた、マグカップを包み込む手に力が籠る。







 雨は依然として止まない。

 通り雨の予報だったのに、結局これだ。勢いは弱まったものの、だらだらと降り続く雨は止みそうになく、地面を色濃く濡らしていた。未だ悠理の携帯は繋がらない。家に居るのかも定かではないが、ひとまず悠理宅へと足を向けることにした。

 何だか、嫌な予感がする。今日はまだ何かが起こりそうな、そんな予感がするのだ。


 暗雲の中、圭とのやりとりをぼんやりと思い出しながら水たまりを避けて歩く。ふと顔をあげると一匹の猫が目の前を横切り走っていった。以前見かけた猫は黒猫だったが、横切ったのは茶と白の縞模様が入った猫だ。この辺りは野良猫が多いらしい。そう思って何気なく猫が出てきた路地に目をやって、ぎょっとした。

 こんな暗がりの汚い路地に人が立っているのだ。シルエットは俯き加減で横を向いていて、手にはきらりと光るものが握られている。それがナイフだと判った瞬間不審者だと確信して血の気が引いた。逃げようと思ったが足がすくんでしまう。タイミング良く路地裏を通った一台の車がライトを光らせそのシルエットを照らした。


「…悠理」


 驚きのあまりうまく声が出なかった。

 でも見間違えなんかじゃない、悠理がナイフを持って立っている。

「どうしたの」なんて野暮な質問は出来ない。一瞬ライトに照らされた悠理は、何かをじっと見つめていた。その表情からは喜怒哀楽が抜け落ちたようで、ただ漠然と何かを見つめている。それは冷酷な、あの日の夢に出てきた悠理の表情に似ていた。

 ゆっくりと近づきながら、傘をそっと折りたたむ。彼女はまだこちらには気づいていないのか微動だにしない。近づいてわかったが、濡れた服が肌にべったりとくっつき髪も水が滴っている。随分前から傘もささずに此処に居たのか。

 彼女が見つめる先は、無造作に置き散らかされた段ボールの山に隠れて見えなかった。漸く見える範囲まで近寄ったとき、血のような生臭さが鼻を掠めて全貌を表した。驚きのあまり呼吸が止まり、気づけば口元を抑えていた。


 そこにあったのは、血まみれになった黒猫の死骸だった。

 何ヶ所も傷つけられたのか、身体はいたるところ新そうな刺傷があり、どれも致命傷となりえるような痛々しいものばかりだった。蹲るように身体を丸めてぴくりとも動かない。表情は寝ているそれと同じに見えたが、すぐに死んでいると判った。けれどその見た目の痛々しさとは無縁のような柔らかい死に顔が奇妙で、刺された時の情景が想像できないのだ。強烈な違和感。そしてその血は点々と地面に後を付け、その血は悠理の持つ小さなナイフへと繋がっている。そのナイフの血も殆ど雨に流されたのか、地面に赤い染みが広がっていた。


「悠理」


 今度は身体がぴくりと動いた。けれど視線はそのまま黒猫に向いていて、何か話し出す様子もない。唇をしっかり結んで黙り込んだままだ。


「寒くないの」


 自分の口から出た言葉が、この状況に不釣り合いすぎて呆けてしまう。けれどその言葉に弾かれたように、悠理は私へと振り返った。一瞬だけ眉を下げて泣きそうな顔をしたが、すぐに感情を押し込めるように顔を歪めた。そして口元に貼り付けたような笑みを浮かべて、言った。


「亜純。人に殺されるって、どういう感覚なのかな」


 雨に濡れ、雨音に今にも掻き消されてしまいそうな細い声。悠理は今まさに見えない何かと戦っているのか、足掻いているのか。私は少し思案したのち、口を開く。


「誰かの愛や憎しみで殺されるなら、幸せなのかもしれない」


 愛する誰かが自分の幕引きをしてくれるのなら、一人じゃないのかもしれない。それは究極の愛で、尊厳死の類に分類されてもおかしくないと思っている。憎しみならば、両者とも縛られた苦の感情から解き放たれ、自由を手に入れる。それに愛情も憎しみも紙一重だ、いつひっくり返ってもおかしくはない。私が告げた想いに、悠理は安心したように表情を和らげた。けれど肩の力は抜けず、強張っているように見える。ふと視線を下げて悠理の手元に目をやる。その視線に気付いたのか、彼女は勢いよく私の目の前にナイフを突き出した。出された刃先の鋭利さに、怯んだ私は思わずのけ反りたくなった。けれど今それをしてしまったら、もう悠理との郷里は埋まらない気がした。


「ねぇ、私を殺してくれない?」


 溶け入りそうな闇の中で、同じ色の瞳が私を捉えて離さない。純粋な投げかけに含まれる狂気と本気が私の喉を鳴らす。


「私は、ゆりと一緒に居たい」


 かろうじてそう告げると、悠理は寂しそうに眼を細め、諦めたような笑みを浮かべた。

 突き出された手はぱっと開かれナイフが足元に落ちる。派手な音を立ててコンクリートの上に転がったナイフは、段ボールに当たって動きを止めた。

 私は悠理に近づき、濡れた頬に手を伸ばす。冷たくなった頬はしっとりとしていて陶器みたいにすべすべだ。そのまま悠理に口づけた。悠理は何も言わずに受け入れ、そして唇が離れると、悠理の冷たくなった手を握った。刹那、強烈な血の匂いが蘇ってきたように襲ってきて咽せそうになるのをぐっと堪える。冷たくなった悠理の腕に自らの熱を押し込むように自身の腕を絡め、暫く黒猫の前で立ち尽くした。

 先に沈黙を破ったのは私だ。


「埋めてあげようか」


「…そうだね」


 罪の意識の共有か、潔白前提の慰めか自分でもわからない。初めて見てしまった悠理の心に潜む闇に、私は何をしてあげられるのかとただそればかりを漠然と考える。


 猫の傍らには、トートバックがへにゃりと形を保てず落ちていた。そのトートバックは悠理が気に入って使っているのを知っている。迷わずそれを手に取って広げた悠理に、私も覚悟を決めて猫に手を伸ばした。けれど悠理は私が猫に触れる直前「わたしがだっこする」と制し、躊躇うことなく傷だらけの猫を抱えた。



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