9 揺動


 付き合うというのは、その人を独占するための契約だ。

 日々揺れ動く心を離さないための契約、それでも終わってしまう脆い繋がり。

 その契約さえ持たない私たちは、世間ではなんと呼ばれるのかくらい、理解している。

 自宅への帰路から、堂々巡りする思考。

『悠理の大切な人は私だけじゃないことくらい、わかっている』

『ほかの人にも私と同じことをしているんじゃ』

『私を傷つけることだとわかっているから言わないだけ?いや疑う方が』

『付き合っていない』


 たった一言「あの人は誰?」と聞けば不安が消えるのに、何故聞けない、どうして躊躇う。闇雲に不安が募るだけと解っていながら、どうして学習できない。

 離れたくない、幸せだと思える時を共有したい。でもそれ以上に自分に自信が無くて嫌われるのが怖い。

「そんな女だと思わなかった」と言われてしまう気がして、言えない。



 居間のソファーにだらりと横になって不安に耽っていた私は、鳴り響く着信に出るのを躊躇った。それでも十コール以内で出ると、いつもの穏やかな悠理の声が聞こえてくる。電話をくれることは素直に嬉しく、その一方であの男が帰ったのだという安心もあった。


「寝てた?」


「うん、少し疲れてたみたい」


 嘘だ、全く眠くなんてない。悠理は心配そうに声色を変えたが、なんら疑う余地なく信じてくれている。そして電話が辛いだろうと気を遣い始めたが、まだ切りたくはない私は通話を引き延ばす。


「無理しないで、また連絡するから休んで」


「ありがとう、悠理も休みを楽しんで」


 本当は切りたくなんてない。それが喉元まで出掛かっているのにそこから言葉にならない。横道にそれた話を展開しては時間を引き延ばす。無駄な悪あがきだと分かっている。本当は悠理に気づいてほしい、自分のちょっとした不安を見つけて掬い上げて欲しい。本音はいつも子供みたいに幼稚で受け身だ。


 ついに切れてしまった電話の画面を名残惜しげに眺めると、そのままソファーの上へスマートフォンを投げた。ぽす、という音の上に身体も投げて両手を上に掲げると、中指に光るティアラの指輪に触れてみる。久しぶりにつけた指輪は、いつもと変わらず私の手にしっくりときた。

 好きになればなるほど、不器用になっていく。そんな私をいつも見ているのは、この指輪だけだ。

 強くなりたい。愛することを止めたくない。私たちの恋愛に縛りは無いのだから、私も自由でいなければならない。それでも私は毅然と好きでいたい。




    ***




「あれ、今日は吉井さんじゃないの?」


「今日は残業なんだって。そして私も飲み会」


「めずらしー。二次会やるかもしれないから、顔だしなよ」


「行きたい!やるんだったら店教えてね」


 更衣室で同僚と話しながら着替えを終えると、足早に会社を後にする。車の行き交う音が夏の夜はクリアに響き、繁華街は飲みに出てきた人々でごった返していた。八月の上旬、今年は冷夏とはいえまだまだ暑く、サラリーマンはハンカチで顔を拭いながら、半袖のシャツでせわしなく歩き過ぎていく。私もフレンチスリーブのセットアップスカートで、羽織っている網目の荒いカーディガンからは程よく熱が逃げていく。


 週末に飲み会が入っているのはよくある事で、悠理も残業であることは事実だ。ただそれ以上に鬱々しくなる感情が嫌で、急に飲み会を入れたのも事実。

 悠理とは会社で昼食を共にするし、平日の夜も一緒に過ごす時がある。やはりまだ消化できていない分若干のぎこちなさはあるが、今のところ悠理に気づかれることもなく平穏な日々を送っていた。

 幸せな時間であることに変わりはない。私を必要としてくれているならば、それだけで十分だと思えた。

 ただ、気分転換がしたい。ふさぎ込めば正常な判断が出来なくなる、それは自分の性格上よくわかっている。それに、疑心暗記になってしまった自分を一蹴するためにも必要な機会だ。



 友人たちとの飲み会も終わりが近くなった頃、帰り際話した同僚から二次会の店舗情報が送られてきていた。いつも使っているカラオケ付きの個室居酒屋。同僚たちの飲み会は今日も盛り上がっているらしい。

 指定の店に行けば漸く来たなと楽しそうに迎え入れてくれて、私は思わず顔をほころばせる。今の部署に来て、この同僚たちに恵まれた。常に励まし支え合える仲間であり、戦友でもある。


「小野ちゃん、最近誘っても来ないし何やってたんだよー」


「業推の吉井さんにべったりなんだもんねぇー」


「今の言い方悪意こもってた!」


 この年齢になって女らしいとか男らしくとか関係なく、仲間としていられる空気は好きだ。ありのままの自分を受け入れてもらえているような感覚にもなる。二次会になれば仕事の話は一切無くなり、変わりにどうでもいいネタが延々と飛び交い続ける娯楽の時間。


「にしても、小野痩せたよな」


「そうかな?体重はそんなに変化ないんだけど」


「私も思ってたよ、痩せたって。言っちゃいなよ、何で悩んでるのさ」


「そーだよ、言っちまいな」


 一斉に皆の視線を浴びて、私はすこし考えたのち観念したようにため息をつく。吐き出したい。


「実はね、失恋してしまった」


 少し冗談っぽく言ってみたものの、ええー!と個室内に轟く声に思わず目を瞑る。個室じゃなければ本当に迷惑極まりない客だが、自分の近況に純粋に興味を示してくれるのは嬉しい。それに「失恋」はあながち嘘じゃない。叶わないと解っていながら関係を持っているようなものだ、今の恋愛は常に。様々な感情が混在していて、全く違う関係にすら思えることもある。


「うそだろ、ってか誰よ相手!」


「失恋して痩せるってわかりやすすぎだろ」


「どうせわかりやすいわよ。会社の人じゃないから皆知らない人です」


「そっか、そうだったか。…よし飲もっか」


 優しい笑顔でジョッキを渡されると、自棄になった風を装って「飲むぞ」と声を張る。手に持ったビールの炭酸はきつく中々入っていかないが、それでも無理やり胃の中に収めた。雰囲気にも酒にも酔っぱらってきた私は楽しい事しか受け入れない。マイクを握り恋愛ソングを熱唱したり、男性グループの歌を全員で踊ってみたりと、いつもと変わらない飲み会の雰囲気に落ちていた心が少し浮上するのを感じた。






「小野まだ飲むのかよ、すげーな」


「気を付けてねー」


「ありがと、じゃ、お疲れ様ですー」


 終電ぎりぎりに店を出て、慌ただしく別れの挨拶を交わして各々解散する。外の少し涼しくなった風を感じて、私はビアンバーに顔を出したい気分になっていた。気持ちの良いままもう少し楽しみたくて、おさまりが付かないのだ。

 一人で別方向へ歩き始めると、後ろから足音と共に声を掛けられる。振り返れば同僚の一人が私を追いかけてきていて、隣へ並んだ。


「小野ちゃん、俺もこの後飲み行くから、途中まで一緒にいこ」


「はーい、佐川さんも店こっち?」


 三つ上の先輩にあたる佐川という男は、気さくで仕事のできる人だ。身長が高く凛々しい顔立ちで、見た目も中身も部下から慕われている。その親しみやすさによく砕けた口調で話してしまうが、気にしなくていいと笑ってくれるお蔭で現在もそのままだ。


「佐川さんもいい年なのに、遊び歩きますねぇ」


「三つしか違わないでしょ。それより小野ちゃん、本当に失恋なの?何かあって辛いなら、口外しないし相談してよ」


 佐川が一緒に来た理由がわかった。私の様子を見て心配してくれたのだろう、飲み会は本当だとしても、この人にはそういう優しいところがある。素敵な彼女がいて会社でも公表しているが、その優しさを誰にでも向けてしまうので女性社員によく勘違いされる。それが原因で恋愛沙汰に巻き込まれるのを何度も見てきたので、使う場所を間違えるなと皆に注意されているが中々改善は見られない。


「とりあえずは大丈夫です、ありがとう。それより自分の心配してくださいよ、いつ結婚するんですか」


「あー、俺? 実はさ、別れちゃったんだよね」


「えっ…え⁉うそ!」


 私なんかより重大なニュースじゃないか。いつプロポーズするのかと話題に上る程秒読みだと思っていたのに、別れていたとは驚きだ。先ほど個室居酒屋で轟いた大声に匹敵するような声で素直に驚いてしまった。


「なんで!私なんかよりよっぽど重大発表じゃん!」


「浮気されてたんだよ、前から薄々気づいちゃいだんだけどな。いやー、ね、なんか切り出すタイミング無くてさ、もう一か月以上前の話だし」


「浮気かぁ、辛い別れ方ですね。気持ち切り替えて前向きにって思うけど、傷が癒えなきゃ厳しいし」


 佐川はまぁなーと間延びした返事をしながら、まるで他人事の様に相槌を打つ。そんな佐川を見て、まだ引きずっているのかもしれないとフォローの言葉を探す。


「そうはいっても、暫くは引きずりますよね」


「いや、想像してたよりだったかな。それを言うなら小野ちゃんだろ」


「はぁ、まぁ」


「あのさ、俺が言えた立場じゃないけど、なんかあったら何でも聞くから相談しろよ」


 見上げれば佐川がやけに真面目な顔をして私を見ていた。この人は本当に、分け隔てなく優しい人間だと思う。そしてその優しさは真摯で嘘ではないから、自然と笑みが浮かぶ。


「ありがとう、たまに相談するかも」


「おう、いつでも飲みに付き合うから。なんだか小野ちゃんは放っておけないしなぁ」


「そうですか?あ、そういうところですよ、佐川さん。あんまり女子に優しくしたらまた勘違いされて面倒なことになるんだからね」


「これもダメか!」


「ダメです。どうします?私佐川さんのこと好きになっちゃったーって騒ぎ始めて揉め事になったら」


「小野ちゃんはそんなことしないでしょ。第一、好きになってくれるなら嬉しいし」


「あ、また。好きになってくれるなら嬉しいとか、それ好きな人にしか言っちゃダメだから。一番勘違いさせるやつだから」


「いや、だから言ってるんだけど」


「えっ」


 不意打ち発言に思わず足が止まってしまい、ぽかんと口を開けて驚く私に佐川は振り返って向い合う。そしてはっと我に返る、普段なら聞き流すこの人の冗談を真に受けてしまった自分が恥ずかしくて、言葉を探そうと必死になる。けれど酔いすぎた頭は全く働いてはくれない。


「あー…」


「俺ね、ぶっちゃけ小野ちゃんの事気になってるよ。ずっと前から。けど浮気はしない性質だから、今までは入り込まないようにしてたけど、やっぱ可愛いんだよ、なんか守ってやりたくなる」


「わ、わかりにくすぎですよ、佐川さん…」


「やっぱり?だよなぁ」


「今まで佐川さんのこと全く意識したことなかったから、正直好きかと言われても、良い先輩としか」


「いいよ、俺もまさかこんなところで言うことになるとは思わなかったし。それに意識されてないのもわかってたから、今言っても振られるだろうなと思ってた」


「じゃぁ、どうして」


「なんとなく、伝えたくなったから。だから今後も気にしないで、いつも通りで居て欲しい。俺もそのつもりだし。ただ、もし俺に興味を持ってくれたとしたら、その時は伝えてほしいと思ってる」


 ごめんな、混乱させて、と私の頭をくしゃりと撫ぜて、佐川は優しく微笑んだ。その表情を見て思う、私はきっとこの人と付き合えば、自分が昔に思い描いた幸せを掴めるのではないかと。守られ、愛されながら幸せに満ちた日々を積み重ねていけるんじゃないかと。


 ただ、今の私には―――




 言葉少なく佐川と別れた後、私の心には大きな波紋が残ったままだった。そして悠理の言葉を思い出していた。『たまに居る〝いつでも助けるよ!〟とか言う人って、とくに何か起こった場合のみでしょう?』きっとこれは佐川にも適用されてしまうのだろう。わかる気もしたし、佐川ならその理論を打破してくれるのでは、などとぼんやり考えた。


 店内に入るとマスターが久しぶりねと笑顔で声を掛けてくれて、顔を出せず気まずいと思っていた心配は杞憂に終わった。

 近くのカウンター席にどさりと腰を落として気を抜く様子を見て「酔ってるねぇ」と言われた返しに「考えはしっかりしてるんです」とまるで酔っ払いみたいな返事を返した。そしてカウンターに座る客に目をやって、はたと気づく。勢いよく立ちあがって店内奥に座っている人物の元へ向かった。


「…さとみ!」


「亜純、久しぶりだね」


 自分の席から一番離れた席で、さとみが座って飲んでいた。彼女は最後に会った時となんら変わらず、ただ少し気まずそうに私に微笑みかけてきた。漸く会えた嬉しさと早く謝りたい一身で、立ち上がって足早にさとみの元へ向かう。


「さとみ、この前はごめん。ずっと謝りたかった」


 頭を下げて謝ると、さとみは数秒黙ったのちに口を開く。


「いいよ、私も大人気なかった。悲しかったけど」


 さとみは困ったように笑みを浮かべていたが、そこには怒りの感情は無いように思えた。思わず目頭が熱くなってまばたきを繰り返すと、馬鹿じゃないのとさとみが言う。まだ続いてるんでしょ、などと近況について触れられたので包み隠さず話すと、さとみは相変わらず面倒な恋愛するなぁと毒づいた。けれど物腰は穏やかで、きつい事を言われているのに優しさを感じるのだ。

 ただ、その仕草や話し方にはどこか硬いものがあり、それはさとみの奥に座っている人物に意識が向かっているからだと気づく。立ち上がって別の客と盛り上がっているようだったので気にしていなかったが、暫くしてひょこっとこちらに顔を向けた人物に、私は心当たりが無かった。


「ねぇ、この子だれ?」


 冷たく突き放すような言葉を放ち、怪訝そうに私を見ながらさとみの隣の席へどかりと座る。私より少し若い印象の女だった。明るい金髪を綺麗に巻いていて、顔立ちもはっきりした美人だ。彼女は隠すことなく私に敵意をむき出していて、何が何だかわからないこの状況に言葉が出ず、ぽかんと相手を見つめてしまう。


「亜純だよ、昔からの友達」


「ふぅん」


「亜純、この子はナツって言って」


「付き合ってるの、私たち」


 さとみの声にかぶせるように言い放ったナツは、わざとらしく腕を絡めてさとみに色目を使う。そこで漸く合点がいった。あぁ、夏は私が恋敵とでも思っているのだろう。さとみは苦笑いを浮かべているが、その行動を止めはしない。


「最近忙しいって言ってたの、そういうことだったのね!やるじゃんさとみ、おめでとう」


 軽口をたたいてその場の雰囲気を和らげ、近況などを簡単に話して会話を打ち切った。あまり話せば厄介なことになりそうだし、こうして一度話せたのだから、近いうちにまた機会を作ればいい。

 それにしても、と二人を盗み見しながら思う。

 ナツという子は知らなかったが、この店にもさしてきたことが無いのだろう。大体この店に集まる人たちはおおらかでフレンドリーな人が多いが、ナツは少しタイプが違った。私に気付くまではさとみを放って別の客と騒いでいたのに。今は二人の空間に入ってくるなといわんばかりの剣幕で他の客を威圧していた。

 ナツをさとみは本当に好いているのだろうか。寧ろ嫌いなタイプの人間であろうに、なぜこの人なんだろう。

 もしかしたらいい部分が沢山あるのかもしれないし、人見知りなだけかも知れない。さとみが選んだのだから信じてみたいが、なんとなく違和感を覚えた。


「こんばんは」


「あ、こんばんは」


 今日は客層がいつもと違うみたいだ。隣に座っていた面識のない女は、やけに笑顔が故意的で、下心がありますよとわかる雰囲気を持った人物だった。他の店に行くことはあるけれど、この店は初めてだという女性は、ミオと名乗った。見た目は性別を感じさせない中性的なファッションで、顔立ちは整っている。普段行く店の名前を訊けばショットバーがメインだと言うので遊び慣れているのだろう。ショットバーは出会いを求めるのにはぴったりであるし、何より人が捕まりやすい。その証拠にミオは好意を持てる話し方をするし言葉巧みに相手を褒める。なんとなく話していると、さとみとナツの件でもやもやした気持ちが少し紛れ、手に持ったグラスの冷たさだけがやけに鮮明に感じ取れるようになる。


「亜純ちゃんは、彼女いないの?」


「あー…居ないよ、ミオさんは?」


「いないよー、欲しいんだけどね。亜純ちゃんみたいな可愛い子がいい」


 手をぎゅっと握られて、あぁ、落としに掛かってるなぁと他人事の様に思う。けれど私はミオには惹かれなかった。こういう人は遊び友達以上にはどうしてもなれないし、遊ぶのも億劫だ。

 ミオは私の耳元で「まだ飲ませちゃってもいい?」といたずらっぽく囁くと、答えもしないのにテキーラを二つ注文した。


「ちょ、もう飲めない」


「いいじゃんいいじゃん、どうせ明日休みでしょ。潰れたら介抱してあげるから」


 こいつの介抱はホテルに連れ込むことだろう、こんなにあからさまな人には久しぶりに遭遇した。頃合いを見て帰ろうと思いつつも、頼まれたテキーラはきっちりと飲み干してやる。すると、トイレに行っていたのか外から入ってきたさとみが、座っている私たちの元へ来て声を掛けてきた。


「亜純、飲みすぎ!ちゃんと帰れるの?」


「だいじょーぶ、ちゃんと帰る」


「自分がちゃんと面倒みるから大丈夫だよ」


「…そう。亜純、うまくいかないからって自暴自棄にならないでよ」


「わかってる」


「へぇ、仲良いんだ亜純ちゃんと」


 ミオの腕が私の肩に回ってぐいと引き寄せられる。さとみはちょっと、と声を荒げたが「彼女待ってるよ?」とミオが釘を刺すと不機嫌そうに押し黙った。

 私の肩をポンと叩いてしっかりしろと言い、彼女の元へと戻っていく。


「へぇ、亜純ちゃん好きな子でもいるの?」


 探るようなじっとりとした目に苛立ちながらも「いるよ」と返す。あまり自分の情報を教えたくはなかったが、駆け引きは面倒だし、ミオに話したところで特定されることもない。聞かれるままに簡潔に話してやれば、案の定ミオは食いついてきた。


「それ、相手酷いよね?亜純ちゃんの気持ちわかってて遊んでるだけじゃん」


 あー、とかまぁ、とか無難な返事を繰り返していると、さらに振ってくる言葉。


「寂しいし辛くない?少しでも紛らわせてあげたいな」


 身体をくっつけてきて耳元で囁く。これが彼女の手法らしい。耐性のない人はころっと落ちそうだ、つけ入り方が手慣れている。

 私はこういう誘い方をしてくる人が嫌いだ。

 でも、たまには乗ってもいいかと思い始めていた。どうせ好きにもならない、この店に頻繁に出入りする人間じゃないなら揉めることも無い。どうせ悠理以外の人と寝たくらいで、私の気持ちは変わることはないのだ。またひとつ、悠理の言葉を思い出す。

『亜純は私に縛られずにいろんな人と遊んでね』と、笑顔で言われたことを。私はあの言葉に傷ついていた。果てしなく重たくなっていく悠理への感情を、少し軽減できる可能性だってある。

 一度開放的になってしまえば、あとはなるようになる。ただ身を任せれば過ぎていく、一夜限りの夢みたいなものだ。


「ミオさん、忘れさせることできるの?」


 挑発するように笑って、私はミオの手に自分の手を重ねた。相手の心を見透かすように瞳を見つめる。特に感情を抱けない相手にはいくらでも悪女になれる。ミオは私の目をみて一瞬動揺したように見えた。あんたが食うんじゃない、あたしがあんたを食ってやる、だから主導権を握ろうと思うな。


「ねぇ、どうなの?」


 少し引っ掻くようにして乗せた手を放すとミオは「当たり前じゃん」と挑発に乗ってきた。そうだ、こうでなくちゃ楽しくない。もう私の手中で転がせる。そして気づく、私は彼女に八つ当たりしているのだと。

 そこからは早かった。会計をしてミオと共に店をでて、すぐに細い路地へ入った。ホテル街への近道であり、人どおりが少ない細道。もし人が居たとしても考えていることは一緒だ。


 ミオに腕を絡め、身体を寄せて歩く。同じくらいの身長なので顔を寄せればすぐにでもキスが出来る距離。そこを自分から直接的に行動せず、焦らすように絡めた手を動かして耳元で話しかければ、目が合って壁際に寄せられてキスを受けた。荒々しく懸命なキスをされて自分の感情も高まっていく。一生懸命な負けず嫌いは嫌いじゃない。舌を絡めて、相手の歯の羅列をゆっくりとなぞればぴくりと反応して面白い。けれど自分も酩酊していて意識がしっかりせずに、噛みつくようなキスに夢中になった。

 ミオの手が羽織っていたカーディガンの中に滑り込み、むき出しになった肩に触り、もう一つの手は背中に回って無意識に逃げてしまう身体を掴む。私は両手をミオの首に掛けてねだる仕草をした。楽しい、久しぶりの感覚。そしてその手が胸に触れたとき、ぱっと顔を放して見つめ合う。


「女を大事にしない女は嫌」


 腕を引かれるようにして、半ば強引に歩みを進めるミオに小走りで付いていく。すぐむきになる所も面白かった。もうすぐ路地を抜ければホテル街にたどり着く、そしたら近いところに流れ込む。強引に引かれて後ろを付いていくのは新鮮だった。

 路地を抜けようとしたその時だ、予想外の声が後ろから響いたのは。


「待って」


 ぐい、と後ろに身体を引っ張られて、バランスを崩してよろけてしまう。それをよく知った香水の香りが支える様に抱き込んだ。荒い息遣いから走ってきたのだと伺える。ミオはとっさに振り返って、とたん不機嫌そうに眉をひそめた。


「なに、忘れ物でもしてた?」


「悪いけど、今日は諦めて」


「さ、とみ?なんで?」


 ぎりぎりで止めに入ったのは、先ほどまで夏と一緒に居たはずのさとみだった。突然のことで呂律も上手く回らない私と対照的に、ミオは現実に戻ったようで冷めた目を向ける。そして面倒事を起こしたくないのだろう、次の瞬間には笑みをうかべて「またね」と私に告げて去って行った。


 茫然とその後ろ姿を目で追って、すぐ我に返って未だ抱き込まれている身体を突き放して向き合う。ここまで走ってきて止めてくれたのは、私を思ってくれたからだとわかっている。けれど解放したい心を押し留められたもどかしさに理不尽に湧き上がる怒りが止められない。さとみは私に何も告げずに交友関係を作って遊んでいるのに、私だけ制される事にも納得がいかない。


「亜純!気を付けないとダメでしょ!席外して戻ってきた時には二人とも居なくなってて、飛んできたんだから」


「さとみ、彼女は?」


「先帰ってもらった、理由なら後でいくらでも言えるから気にしないで」


「ありがとう、来てくれて…けど、私今回は自分から乗ったんだよ?たまにはいいかなって思って」


「それも、気付いてたから警戒してた。ダメだよあんな奴、もし亜純がハマったら」


「ハマらないよ、ただの遊びだった!ごめん、今やつあたりしてるのは自分でも判ってるから、今言うことは気にしないで。あのね、もういい年なんだからある程度は見分けつく!特に今日のは遊びだってあからさまに判ってたよね?なのにどうして?さとみは私の知らないところで自由に遊んで、だけど私は遊ぼうとしたら止められる。たまには私だってハメ外したいの!」


「亜純はもっと自分を大切にしろって言ってるの!」


「大切にしたところで何も変わらなかった!」


「私が見ていて辛いの!」


「さとみが辛くなることなんて無いじゃない!辛いのは私だよ!」


 溢れる感情を押し殺そうとすればする程涙が止められず、ぼたぼたと地面に落ちていく。自分がみじめだということもわかっている。だからこそ辛かった。過剰な優しさとおせっかいが辛かった。違うと解っているのに、私は感情を抑えられない。


「さとみは良いよ、幸せ手にしてさ?だけど私はなに、いつも制止されてばっかで、私がうまくいかないのを見ていい気味だとでも思ってるんでしょ」


「そんなこと思ったことない!」


 まるで駄々っ子だ、自分で言っていて訳が分からなくなってくる。それでもさとみにきつく当たってしまっていることは理解していた。残った力で涙を拭ったが、さとみの顔を見れなくなって顔を背ける。


「…ごめん、八つ当たりだってわかってるんだ。今日の事はわすれて、今だけだから、ほんとにごめん」


 くるりと踵を返してホテル街へ歩き始める。これ以上一緒に居れば、もっと醜態をさらしてしまうのは必至だった。もうこれ以上みじめな姿を親友に見せたくなかった。無駄に傷つけてこれ以上絆を壊したくなかった。一人になりたい。それなのに、食い下がるように二の腕を掴まれて引っ張られる。


「亜純、待って!」


「大丈夫だから、一人でいい」


「――じゃぁ、あんたの八つ当たり、受け止めてあげる。だからもう、逃がさない」


 突然降ってきた低く凄んだ声に身体が硬直する。振り向く間もなくさとみが正面に回り込み、顔が近い、と思った時にはキスをされ、近距離で視線が絡み合った。目が逸らせない。何が起こっている?現実がうまく受け止められない、身体が動かない。

 のちに離された唇は固く結ばれ、次の瞬間には強引に腕を引かれて路地を出て近くのホテルへ引きずられる。


「えっ、さとみ!待ってよ!」


「待たない、もう待つつもりはないから」


 腕が痛い、じんじんと掴まれたところが心音に合わせて痛む。ホテルに入るとタッチパネルに表示された部屋を適当に決め、また引きずられるようにしてエレベーターへ乗り込む。あまりの剣幕に圧倒され、その間もずっと掴まれた腕は痛いままで、私は動揺のあまり恐怖さえ感じ始めた。なによりさとみの考えが読めない、怒っているようにしか見えない。


「あ、あの、何で」


「何って決まってんでしょ。セックスするのよ」


「は?馬鹿じゃないの、なんでさとみと」


「私の事嫌い?」


「そうじゃなくて」


「じゃぁ良いでしょ。亜純、もう黙って」


 エレベーターを降りた後も腕を引かれ続け、部屋に入った途端ドアに押し付けられて唇を塞がれる。動揺と酩酊によりそのままずるずるとしゃがみ込むと、靴を脱がされ、動揺する私をそしらぬ顔でベッドに突き倒した。

 部屋の照明を手際よく暗くするさとみを見て、事の重大性をまざまざと感じさせられる。本気だ、本気でするつもりなのだ。何故、何故。私へのあてつけなのか、それほど彼女を激高させてしまっていたのか。


「本当にごめん、わがままばっか言って振り回してごめん。だから冷静になって、友達だよ!?」


「冷静だけど?亜純はね、私を知らない、いつも見てるふりだけで私の気持ちなんてわかっちゃいない。そりゃそうだよね、私が見せてないだけだったから」


 私の問いかけは全く相手にされず、かくなる上はもう逃げるしかないと頭の中に警告が鳴る。焦り慌てる気持ちが邪魔して身体が言うことをきかず、身体を起こし立ち上がるまでがスローモーション再生のようだ。急げ、急げ。後ろで動く気配を感じる、来ないで、お願い。刹那、ぱちんと手を掴まれ、小さく悲鳴を上げてしまうほど強く引かれて両手でベッドへ押し倒された。その衝撃で揺れた頭がずきりと痛む。ぎゅっと閉じた目を開けた時には身体の上さとみが覆いかぶさり、据わった目で私を見下ろしていた。

 こんな顔、今まで見たことが無い。生唾を飲む、背筋が凍る。


「言ったでしょ、受け止めてあげる」


「さとみ」


「亜純、泥酔すると素直で可愛いもんね。仕方ないから、明日には無かったことにしてあげる」


 耳元で囁く声は、今までに聴いたことのない甘さを孕んでいた。そのまま耳を嬲られて、首筋を噛まれて服を脱がされ脱いでいく。自分の真上で私を見下ろしている人物は、もう知っているさとみでは無い。さとみは性的な瞳で私を捕らえ、有無を言わさず食らいつく。なす術もなく、さとみに与えられるままに快楽を享受した。


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