8 動く心


 行かないで。

 愛してほしい、幸せにしてほしいと思っていた。裏切らない確固たる愛が欲しかった。自分はエゴの塊だ、どうしたら心に根付いた闇の中に割り込めるか、存在を軌跡としてこの人に残せるのかと巡る想いは止まらない。この人を少しでも幸せにできないのか、私は。


 懸命に伸ばした右手は空を掴む。

 叫ぶ声も空しく宙を舞ったが、返ってきたのは冷めた目だけ。見たことの無い冷たい表情と、目が、私を突き刺した。迷惑そうに振り返った悠理は、さよならを言うことすら嫌だと言う風に力なく首を振る。「あなたに出来る事は何もない。」そんな台詞が脳内に響いて反響し、胸が苦しい。縋る私を一瞥すると、また何事もなかった様に彼女は背を向け歩いていく。

 必死になって身体を動かしているのに中々前に進まない。

 沼の泥が身体中に纏わりついているように。白黒の世界は不安しか与えてこない上に、悠理の冷酷を湛えた瞳だけが紺のような藍のような、吸い込まれるような闇の色で、私はついに動けなくなった。



「…はっ」


 薄暗いなか見慣れない天井の木目をじっと見つめれば、今どこに居るのかを思い出す。掛布団が重く感じて暑苦しいし、脂汗が額に滲んでいて気持ち悪い。すぐ真横に目をやると、悠理が分かりやすく寝息を立てて眠っており、ほっと胸を撫で下ろした。それでも緊張して強張った身体は固いままだ。怖かった、夢が未だ現実のように思えて仕方ない。

 昔からそうだ、不安に思っていることが最悪の展開で夢に出てくる悪い癖。そのたび心を乱されてしまう自分の弱さにうんざりする。

 起こさないよう注意を払って布団から抜け出すと、豆電球替わりに点けてあった枕元の照明を頼りに広縁へよろよろと歩き、揺れるロッキングチェアへと腰かけた。服の擦れる音と木の軋む音が小さく響く。


 ふっと息をついて窓の外を見遣ると、街灯が照らし出す歩道には人の気配は無い。真夜中なのだろう。しんと静かな部屋の中で、規則正しい寝息だけが空気を揺らしている。


 何気なく自分の掌を見て、悠理の手を強く握ることしか出来なかった不甲斐ない自分が蘇る。悠理が辿ってきた壮絶な過去に理解が追い付かず、現実味を帯びない私の呆けた脳内でその言葉達は宙に浮いたままだった。それが今になってどっと落ちてきて、私の心に痛く沁み渡る。


 思春期に背負うにはあまりに酷な現実を受け、事件からずっと、過去と対峙していたのだろう。抑揚なく語り始めた声は、段々と感情が高ぶり激しくなっていった。それが虫の音が苦手と呟いた頃には落ち着きを取り戻し、穏やかな声色に戻っていく。けれどそれは空っぽの闇の中で、ただ言葉にしてみただけのような虚無を感じた。まるで亡霊。闇を瞳に映した幽鬼のようなその姿に、私は情けなくも愕然としてしまった。


 頭の中で悠理の過去が映像化されていく。兄にした仕打ち、母のやつれた笑顔、居間に置かれた手紙の頼りなさ、不安で一睡もできずに朝と共に訪れた絶望。淡々と流れゆく葬儀の風景。

 悠理の中に生への希望や執着心が見えないのは、大切な人たちを失ってしまった事が起因している。ただ淡々と、日々が通り過ぎていくのを見ているだけなのだ。最初は己の心を守るため、そうしていれば乗り越えられると信じていたのかもしれない。


 そんな悠理に今の私が何を言っても、上っ面の軽い言葉にしか聞こえないはずだ。自分のちっぽけで面白みのない人生を振り返れば、どうしても比較してしまう。私という人間の薄っぺらさに虚しくなった。強くてしたたかな悠理の隣に居るには私はまだまだ幼い。それがよりわかっただけだ。


「それでも」


 そうだとしても、一緒に生きていきたいと思ってしまうのは、傲慢か。


 そっと立ち上がり広縁と和室を区切る襖を閉める。両端についている出窓の取っ手のうち片方だけを押し開けて虫が入らないように網戸をすると、そのまま出窓に腰を下ろして片足を乗せた。窓に寄りかかって耳を澄ませば、小さくはあるが虫たちのざわめきが聞こえてくる。

 暗闇に飲み込まれそうな世界で、この音を一人で聞き続けるのはなんとなく寂しく感じた。孤独に憑りつかれていれば、どんなに綺麗な音色や広大な景色も、全ては孤独を増幅させて更なる深淵へ誘うだけ。




    ***




『ごめん!その日は厳しい。最近忙しくて。また連絡するね、今月中には!』

『うん、そしたら連絡待ってるね』


 俯きながらスマートフォンの画面を暗くする私を見て、悠理は持ってきたコーヒーをテーブルに置くと声を掛けた。


「さとみちゃん?」


「うん。忙しいみたい」


 あれからさとみと会えていない。

 ずり落ちる様にテーブルに身体を投げ出すと私はため息をついた。避けられているのは言うまでも無い。あの時私がした行為は、彼女の優しさを切り捨てるものだ。それでも連絡をすれば返事をくれるだけましか。怒っているのか、幻滅したのか、どちらにせよ私は一度会ってきちんと話をしたかった。

 突っ伏したまま横目でテーブルの隅の一輪挿しに飾られたひまわりを見遣る。曇りなく咲く黄色の花びらは、今の私の目には眩しい。


「ねぇ、一緒に地元に帰らない?日にちは…出来れば亜純の誕生日付近で」


 空気を変える一言に、亜純は伏せていた顔をぱっとあげてまじまじと悠理を見つめてしまう。正面に座る悠理は楽しそうににやりと笑い、頬杖をついて様子を伺うようにこちらを見ていた。


「えっ、行く!一緒に帰る!」


 突然の誘いに勢いよく乗ったのは、私も同じことを切り出そうと思っていたからだ。

 地元へは墓参りに年数回行く程度だと聞いていたので、思い出が詰まっているあの場所には帰りたくないのだろうと躊躇っていたが、私はどうしても二人で行きたかった。悠理の抱えた過去を少しでも共有したかった。切り出すタイミングを図っていたのに、こんなに早く悠理から誘われるとは。


「二人の思い出巡りしようよ」


「悠理は大丈夫なの?」


「大丈夫。亜純と一緒ならむしろ行きたいと思ったから」


 両手で私の頬を摘まんで伸ばす姿はまるでいたずらっ子だ。切れ長の瞳が私をじっと見つめながら楽しそうに笑う。私は頬を摘ままれた状態のまま、何度も笑顔で頷き返した。頬が引っ張られて締りのない変な顔になる。悠理はそれを見てけらけらと笑い、何度も頬を引っ張っては繰り返し笑った。


「私、誕生日プレゼントが欲しい」


 伺うように視線を合わせると、悠理は一瞬ぽかんとしたのち直ぐに笑顔を浮かべる。


「当たり前じゃん。欲しいものはあるの?好きなものあげるよ」


「あのね、悠理が選んでくれたものなら何でもいいの。だから悠理に選んでほしいなって」


「わかった、喜んでくれるもの考える」


 少し照れくさくなって俯きつつ、胸が締め付けられる様な喜びを噛み締めた。自分のことを気にかけてもらえるというだけでこんなにも嬉しいなんて。


「あ、ごめん。そろそろ帰らないとね」


 今日は悠理宅へ知り合いが訪ねてくるらしいので、置いてあった荷物を取ってすぐに帰る予定だったのだ。すっかり忘れてしまっていたのに、何も言わずにコーヒーを出してくれた悠理には頭が上がらない。手早く荷物を纏めて悠理に再度謝ると、少し時間もあったし一緒に居たかったからと微笑まれた。これで付き合っていないなのだから不思議な心持だ。

 玄関へ向かうと、悠理は私の後をついて見送りに出てくる。座って靴を履いている私の背中に腕がまわる。抱きしめられた腕の力はいつもより優しい気がした。背中が熱くなって、つい意識が悠理へと向いてしまい靴紐が上手く結べない。漸く結び終えて振り向くと、手を握られて軽いキスをされた。私は呼応する様にキスを返す。


「気をつけてね、また明日」


「うん、会社でね」


 ばいばいと手を振ってドアを開けたとき、ふと悠理が私の手元を見て言った。


「そういえば、最近指輪しなくなったんだね」





 共用玄関へエレベーターで降りて、自動ドアがあるガラス戸へと足を向ける。と同時にぴんぽーんと間延びした音が耳に入ってきたので、何の気なしに顔を上げてドア越しに佇む人間へ視線を向けた。このマンションはよく玄関で人に会うな、などとぼんやり考えながら。

 インターフォンの前で立っていたのは、以前も見かけた男性だった。確か「ケイ」と呼ばれていた人だ。

 嫌な予感がした。胸騒ぎがする。その人はこの街で名の知れたカフェの紙袋を持って、すっと芯を持ったように立っていた。悠理のはい、という声と同時に私の足がセンサーに感知され、自動ドアが開く。


「ごめん、早く着いちゃった」


「ううん、あけるね」


 そのやり取りに意識を向けていて、彼はこちらに見向きもしない。真横を通り過ぎる時に彼の表情を盗み見ると、優しそうな笑みを浮かべていた。まるで好きな女に会うような、男の顔だ。

 足音を響かせながら、自動ドアの音と共にケイが背後へと消えていくのを感じる。ただの友達だろうか、いや何でもない。どんな形でも悠理は私を大切にしてくれているのだ、何を気にする必要がある。


 それなのにざわめく心は静まらない。


 マンションを出た後は無心で地下鉄までの道を歩き、気づけば改札を通って階段を下りていた。そこではっと我に返ると、ここまでどうやって来たのか思い出せない事に気づく。まったく、こんなに動揺するなんて自分はどうかしている。先ほどまで幸せの絶頂だったのに、と思い直したところでまた一つ我に返る。あっという間に幸せの絶頂から突き落とされた気がした。だって、私たちは付き合っていない。


 途端に指輪が恋しくなったのが何故だか、私にはまだわからなかった。




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