12 愚か者


 ぽろぽろと溢れてくる涙を拭いながら、何度も何度も今しがた見た光景を思い出した。

 笑顔の悠理の横顔がこんなに憎く嫌だと思ったのは初めてだ。悠理から連絡はなく、私から連絡なんて出来るはずもない。何もできない、受け入れることもできない。

 捨てられた気がした。それもそうだ、こんなじめじめした暗い女なんて飽きるか嫌になるはずだ。


 どうして毎回信じようと自分を奮い立たせる度に不安要素が増えていくのだろう。不安どころではなく、確信だ。信じていたのに、信じて、信じて、

 ―信じていた?何を?


「どうしたの、急に」


 ドアを開けると同時に顔を出したさとみの表情が曇る。私は開いたドアに体をねじ込ませ、さとみの首に手をまわしてぐいっと引き寄せた。 触れる唇は暖かく柔らかい。悠理とは違う、また別の温もり。


「私、あの人みたくなんてなれない。弱いまま振り回されて、あんなふうに気丈になんて、あんな強さなんて持ってない。持ちたくないのかも。逞しくなんてなれない。結局は変われない」


「ちょっと、何があったの。落ち着い―」


「この前みたいに、無理やりしてよ…お願い」


 さとみが眉間に皺を寄せて私を凝視する。しばらく見つめ返していると諦めたようにため息をついて、手を引いて部屋へと招き入れてくれた。いつ来ても綺麗にしてある居間に通され、力なくソファーに座り込む。そんな私に、さとみは立ったまま顔を落として私の額にキスを落とした。

 両頬へ添えられた手に自分の手をのせ目を閉じれば、また先ほどの光景がよみがえってきて息が詰まり、涙が零れてくる。胸が痛くて痛くて苦しい。

 勇気を出して無理矢理してと言ったのに、何度も優しく啄むようなキスを落とされ、包み込むように抱きしめられる。自分がとても惨めに思えて、さらに胸が締め付けられた。


「ごめ、急にきて…」


「いいから。何があったか、まとめられなくてもいいから教えて」


 ぽんぽんと子供のように頭を撫でられて、ついに私は声を上げて泣いた。ずっともやもやと心中にあった苦しさを吐き出すように、幾度もせり上がってくる吐き気のような苦しさを追い出すように、わんわんと子供みたいに泣いた。泣いて、泣いて、目が燃えるような熱さから鈍い痛みに変わるまで泣いた。

 その間ずっと、さとみは黙って私の傍に居てくれた。それが今の自分には一番ありがたく、そして求めていた温もりだった。どこにもいかないでいてくれる、自分をきちんと認識してくれる温かさだ。


 少しずつ、今まであったこと、自分の思ったことを素直に打ち明けた。今日のことも、どれだけショックだったかも、理解をしている筈なのに、悠理の行動や発言について行けずどうしたらいいか判らなくなってしまったことも。悠理は感情で動いているのではなく、計画的に私を悠理の作る「物語」の駒として使っているんじゃないか、振り回しているのではないかとも。誰かに話したところで解決などしないとわかっている、けれど、こうして耳を傾けてくれる人がいることは私にとって救いだった。

 ほとんどを話し終えると、さとみは「辛かったね」と再度私を抱きしめた。


「私からして見れば、どんな理由であれ傷つける今の関係を作った悠理は好きじゃないし、むしろ嫌い。確かに亜純もダメなところは沢山あるけど…」


「…ふふっ、沢山ダメな所がある私と友達でいてくれてありがとう…」


 直球でダメ出しをされて、何故だか急におかしくなって笑ってしまった。

 さとみも呆れたように笑って、軽く私の頭を叩く。


「笑ってんじゃないわよ。泣いたり笑ったり忙しいわね、あんた。」


「ごめん。なんかすごく落ち込んだときって、突然笑えてくることない?」


「無いわよ、一緒にしないで…とりあえず今日は泊まっていくんでしょ。そのぐちゃぐちゃの顔、面白すぎるから早く落としておいで。じゃないと真面目な話もできないわ。」


 気を使ってくれているのだろう、私も落ち着かなければと深呼吸をする。頭に振ってきたパジャマを抱え、シャワーを借りるといつもより丁寧に体を洗った。鏡越しで見る自分の目は赤く腫れて痛々しいが、それでも少し落ち着けた。


 居間に戻るとさとみが暖かいカフェラテを淹れてくれていて、飲めば口の中にたっぷり入ったミルクが広がる。温かさに、がちがちに固まっていた体も心もほぐれていくような心地がした。

 再び隣に座ったさとみは、私のひざの上に手をのせた。


「亜純は一つだけ大きな勘違いをしてることがある。」


「…何?」


「ねぇ、その指輪ってどうして付け始めたの?」


「どうしてって、お守りというか、願掛けだよ。今までの弱い自分を少しでも変えたいって言う、願掛け。」


「そうだよね。それを付けるってことは、亜純は少なからず弱い人間だわ。何かに願いをこめて身に付けておかなければ、たちまち駄目になってしまうような。」


 自分の弱点を突かれた気がして、思わず口を噤む。

 見上げると、さとみも真っ直ぐに私を見ていた。その眼差しは攻撃性を孕んでいるように見え、少し怯んだ私は顔を引くが、開いた距離を詰めるように近づかれる。

 急な態度の硬化に私の感情が追いつかない。まるで心の中を見透かされているようで生唾を飲む。あの日の、ホテルで見た表情と、重なる。


「えっ、さとみ…」


「さっき言ったわね、『この前みたいに無理やりして』って。」


「言ったけど、それは今は」


「亜純の願いを叶えてあげる。」


 途端、腕を強く捕まれて引っ張られ、引きずられるようにして寝室へと連れて行かれる。上手く言葉が出せずにひゅっと喉が鳴った。そのままベッドの上に、あの日と同じく放り投げられる。

 腹部にためらいもなく圧し掛かられて、衝撃にうめき声が漏れた。苦しい、理解が追いつかない。つい今さっきまで優しく話を聞いてくれていたのに。こうなる雰囲気など全くなかったのに。

 別人のように豹変するさとみが、どんどんと解らなくなっていく。どうして、どうして。荒い手つきで服を脱がされていく中、最後の抵抗だと言わんばかりに肩を掴み、力の限り押し返した。止めるために睨みつけて叫ぼうと、


「やめて!って…」


 したのに。見上げた先のさとみの顔を見て、絶句した。


 さとみは苦しそうに泣いていた。

 見下ろす私を先ほどまでとは違う、弱々しい目で見つめながら。言葉が出てこない。長い付き合いの中で、こんなに苦しそうなさとみを見たことが無いのだ。

 肩に伸ばした手をさとみがゆっくりと掴んで離し、そのまま指を絡める。ひとつひとつの行動の意味が把握できずに、私はされるがままさとみを見つめ返す。


「どうして亜純が指輪をしているんだっけ…?」


「そ、れは、さっき言ったよ。」


「じゃぁ悠理はどうしてタトゥーを入れたの?」


 跳ね上がった声の音量にびくりと体が震える。

 それだけじゃない、その詰問で私は理解してしまった。さとみは溢れる涙を押さえ込むように、強く、はっきりとした口調で続けた。


「私たちはね、弱いの。脆いの。それを補うために、自分を強くしたいがために目に見えるものに願いを込める。強くも見えるよね、潰されないように必死で生きているんだから!それは私も亜純も一緒、そして悠理も絶対にそう!そういう人間のほうが弱いのよ、とっても…虚勢を張っているだけで、強い波がきたら砕けるの、あっけなく。

 強い言葉を使って自分を奮い立たせるのは、裏を返せば弱いから。自分に言い聞かせているだけかもしれない。強く見える人に限って私たちみたいに、弱い自分を変えようともがいているだけかもしれない。」


 また、目頭がかあっと熱くなり、すぐに頬を伝った。

 とても弱くて、今すぐにでも消えてしまいそうなのは悠理なのだ。それに気づかなかった、いや、気づこうとしなかったのは私が見たくないから、無意識に目を背けていただけなのかもしれない。

『理解したくてもそうさせてくれない』じゃない、理解しようともしないで外側ばかり見てその度にマルかバツかをつけていただけ。私は悠理が好きだ、それと同時に自分も可愛くて仕方が無いのだ。傷つくことばかり恐れ、そしてそんな自分に酔っているのだ。


 懸命に伝えてくれているさとみがなぜこうも苦しそうなのかも、今ならわかる。どうしてあの日あんな行動をしたのかも。自分勝手な私の行動がすべての要因を作っていたことを。


「さとみ…なんで私なんか好きになったんだよ…っ」


「本当にね、最悪よ。なんであんたのことこんなに好きなのに、うまくいかないのかな」


 二人の想いが違う形で重なり合う。互いに視線を絡み合わせ、どちらからともなく身を寄せ合い、ぎゅっと抱きしめ合った。互いの震える身体を、やり場の無い苦しさを紛らわすように。


「寂しい、苦しい…消えてしまいたいぐらい、つらい」


 言葉がぽろぽろあふれ出る。さとみは頷き、それを拾うように抱きしめる。

 きっとこれから、いや、ようやく私の物語としてのカウントダウンが始まる。




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