6 濁った心臓
悠理には私がどう見ているのだろう。悠理にとって人間同士の好き嫌いは、食べ物の好き嫌いと近いのではないか。好きなおもちゃで遊ぶような。そういう意味での好き、好奇心、純粋な興味。そこから欲求の解消。最悪は人間観察。対等であるように見えて、どこか高い場所から傍観しているような。
言うなれば私は、彼女自身の物語を遂行するための駒なのかもしれない。
もっと理解して欲しい、自分を見て欲しい、存在を必要としてほしい。私のエゴは膨らむ一方なのに、彼女は私の内面に目を向けて対応することは無い。あえてそうしないのだ、必要ではないから。
悠理の心の在り方と、私の気持ちの大きさがどんどん離れていく気がしている。
タクシーに乗り込み住所を告げたきり、悠理は黙って車窓から夜の街をぼうっと眺めている。私も同様に窓の外に視線を向け、流れゆくネオンを虚ろな目で追いかける。二人の間にできた薄暗い空間は頑丈な壁のようで、たった数十センチの距離は虚無を大きく主張した。 ぽっかりと闇の中に浮き上がる、二人の溝。
ただ、乗り込んだ時から繋がれていた手だけは、今も離れることなく繋がっている。
まるで一本の細い糸。
どちらか少しでも力を抜けば離れてしまうような脆い糸。それはまるで私たちの関係みたいだな、と思った。今は互いに切れないように繋がっているが、次の瞬間には勝手に切れてしまうような不思議な緊張を孕んでいる。
一つの季節、その期間を共に過ごしただけでこうも女々しくなってしまった。特別な存在にしてほしいという承認欲求がぐるぐると渦巻いている。
膨らんでいく感情にフタをし続けることに限界を感じ始めていた。一度だけでいいから、悠理に思いの丈をぶちまけてしまいたい。たとえ悠理から呆れられても、重いと嘆かれても、こういう遊び方が出来ない女だと馬鹿にされても、いい。だってその通りなのだから。これが切っ掛けで悠理が私から離れてしまうことになろうとも、それが結末ならば受け入れなければならない。私からはどのみち離れられないのだ、寧ろ突き放してくれた方が楽だ。そうしないと、この気持ちが逆恨みに変わって彼女を傷つけてしまいそう。
悠理のマンションへ着いて部屋に入ると、さっさと私はバスルームに飛び込んだ。タオルは勝手に拝借させてもらう。一度深呼吸してから鏡に映る自分の顔を見た。普段より濃い化粧の下に、やつれた顔がそこにはあった。眉間に力は入っているのに目は虚ろで、無駄に紅い唇が顔の気怠さを助長させている。生気の欠けた自分の顔に思わずため息を吐いた。落ち着け、まずは落ち着くんだ。今は何も考えるな。冷静になれ。何度もそう言い聞かせながらシャワーを浴びる。少し熱く設定した湯の温度が身体に沁みこみ満ちていく。
先に潜り込んだベッドのシーツはひんやりとしていて、火照った身体を優しく包み込んでくれる。
出来ることなら悠理が寝室へ来る前に眠りにつきたい。隣に温度を感じてしまえば、彼女が寝息をたて始めても全く眠れないだろう。はやく、早く睡魔よ来い。
願うように目をつむっても、 結果はすぐ出た。ベッドが軋む音と共に横たえた身体が片側へ沈みこむ。全身が緩やかに上下する感覚に、少しだけ移ろいでいた意識が浮上してしまった。悠理が入ってきたのだ。
彼女は何事も無かったかのように、私の頭を優しく撫でた。
それは愛しそうに、滑らかに、でも起こさないように優しく。その手が余計に追い詰めている事など知らず、私は受け取ることの出来ない優しさを享受させられている。甘やかすような、くすぐったくなるような。悪く言えば、子供扱いされているようだった。
「…なに」
「ごめん、起こしちゃったか」
不機嫌さを感じさせる声色だったにも関わらず、優しい言葉が返ってくる。たったそれだけなのに、また子供扱いされている気がしてふつふつと苛立ちが沸く。
「起きてた。寝れない」
この状況下で頭を撫で続けられる事が嫌になり、背を向けたくて寝返りを打とうと身体を捩る。そうして身じろいだ身体を急に押さえ込まれて、そのまま唇にキスされた。触れるだけのキス。私の欲しい言葉と態度はくれないけれど、代わりに色欲で必要なんだと訴えられる。まるで怠惰な、退廃的な誘惑。
「どうして」
瞼を開くと覆いかぶさっている悠理と目が合う。その無邪気そうな顔を見ると泣き出してしまいそうで、無表情を装ってみるものの顔がこわばってしまう。さぞかし私は今滑稽な顔をしているだろう。
「私の気持ち、もうわかってるよね。このままやり過ごせると思ってた?」
「うん。最初より好きでいてくれてるんだよね。わかってるよ。ごまかしてるつもりはない」
悠理が欲しい。そう思えば思うほど離れていく焦燥感に駆られる。
どうしたら、どうすれば貴女の価値観を、あなたに根付いた概念を溶かすことができる?まだ何も知らない私はどうしたらもっと貴女に近づいていける?
「私は、私という〝個人〟は悠理にとって必要なの?それとも都合が良かっただけ?わからない。悠理の好きがわからない」
「必要だよ。でもそれ以上に、必要として欲しいのかもしれないね」
「それって誰にでもできることじゃないの?悠理は私を好きって言うけど、それは自分を受け入れてくれる人全てに対する好きと同じじゃないの?」
僅かに悠理の瞳孔が開いた。そうじゃない、と否定して欲しかったのに。一番欲しかった問いの答えはこれだ。ぶわりと自分の中で留めていた感情が溢れて心が決壊していく。制御できない、瞳が熱い。勢いのまま身体を起こして、覗き込んでいた悠理の肩を掴んで押し倒した。肩を掴む自分の手が震えている。栗色の髪が宙を泳いだ残像がまだ目に残っている。
「やっぱりそうなんだ。あはは、なんだ、結局私ばっかり好きになって…馬鹿みたいね、ほら笑えば?良かったね、あんたは必要とされてる!」
視界が歪んで頬が濡れていく。嗚咽するように吐き出した自分の声はひどく醜く感じて、そんな私から零れ落ちた涙が悠理の頬を汚していく。あぁ、そのまま私に汚されてしまえればいいのに。
「亜純、ちがうわ。私はあなたが好きで、私の最大限の誠意をあなたにあげてる」
「はっ、誠意?少なくとも私には残酷なことをする人にしか思えない!誰も居なかったから、お手ごろに落ちそうな私に手を出したんじゃないの?付き合わない理由だってずっと濁したまま!」
「私の残りの時間を亜純にあげてる!」
「ずいぶん傲慢ね!私はあんたに飼われてる猫かなにか?」
悠理は自分の中の何かを守りたがっているようにも見える。でも私には理解できない。その煮え切らない態度の理由も教えてくれない。
「結果的に亜純を傷つけてたのは事実ね…居心地が良くて、だらだらしちゃった」
まるで答えになっていない。ずっと私の言葉は一方通行だ。
悔しくてベッドを思い切り殴る。ぼふっと音がするだけで何も感じない。今の気持ちと一緒で、何も響かせられない。
「どうして…⁉こんな、私ばっかり辛くてしんどくて」
「ごめんね、でも聞いて、あなたが好きな事に変わりはないの」
「わからないよ、もう何を信じて良いのか解らない」
「信じなくていい、ただそれでも傍にいて欲しい、ほんの少しの間でいいから」
なんで、そんな目で私を見るのよ。
今更そんな表情で懇願してこないでよ、ずるいよ、最低よ、悠理は。
「ほんの少し遊んでから捨てるの?…ずっとそばに居てよ…もういやだ」
腕からがくりと力が抜けて、悠理の上に崩れ落ちるように倒れ込む。悠理は両手を広げて私を抱きとめると、そのまま抱きしめた。身体に力が入らない。もうどうしたら良いかわからない。
「亜純、あの時私が言った言葉覚えてる?」
「あのとき…?」
「私たちが両想いだって知った日」
耳元で囁かれた言葉をゆっくり反芻する。
あのときの記憶を呼び戻す。悠理の言葉を思い出す。
『私は誰とも付き合う気はないけど、だけど、その時までは誰かと一緒にいることはできる』
『亜純は少し前の「私」みたいなの。もっと自分を知るために、私と一緒に堕ちるところまで落ちる覚悟があるなら、おいで。色々と吹っ切れるかもしれないし、取返しがつかなくなるかもしれない。』
「…堕ちるところまで…悠理が死ぬまで…」
呆然と、唇から言葉が流れ出ていく。
「悠理が死ぬ未来は変えられないの?」
いっそう強く抱きしめられた。悠理の腕の中から、揺るがない強い決意が伝わってくる気がした。
「だからって、これはないよ、悠理。何もわからないままじゃぁ、何も行動できない」
「いいの、今はこのままで。でも亜純を大事にしている事は間違いなく本当。それはたぶん、私が死ぬまでずっと変わらない。わかって欲しい」
なにそれ、じゃあ結局今の状況は変わらないじゃないか。上手く悠理に言いくるめられただけじゃないか。
それなのに、私の心は少しずつ落ち着いてきてしまう。理由なんて気づきたくもないが明確すぎて考える必要もない。私のこんなに女々しい想いを知ったうえで、悠理は私を突き放さなかった。泣いてドロドロになって食ってかかったのに、それも私の一部としたうえで拒絶しなかった。それは私の存在に対する答えとなりえてしまう。
悠理は本当に、死ぬつもりなのだ。
「亜純はきっと、私の近くまで堕ちてきてくれるだろうと思ってた。私の最期の賭けだったのかもしれないね」
「私の単純で女々しい性格につけこんだんでしょ、バカ、最低、本当に最低…っ」
両手で悠理の胸をぼすぼす叩く、手加減はしない。
悠理は両手で私の顔を持ち上げると、涙でぐちゃぐちゃな頬をその手で拭った。顔を直視出来なくて、必死に目を逸らして顔を背けようとするものの、くるりと上下をひっくりかえされてベッドに転がされて、そのまま唇を塞がれた。
最初から容赦なく深いキスをされて、泣いていた私は息が上手く出来ない。そのままパジャマの隙間からひんやりした手が入ってきて、自分の身体がそれを求めていたようにぴくりと反応してしまう。
「なんでっ…こういう時に限って…」
悠理が欲しくてたまらない。
胸に手が伸びる、ひんやりとした手が肌を滑る。もどかしさと期待で頭の中がごちゃごちゃになる。耳朶を甘噛みされて、声を上げる。弱い部分を執拗に舌が這う。快楽に流されながらも止まらない涙はこめかみへと流れ落ち、それを救い上げるように舐めとられて目元にキスを受ける。
「したい」
「…わかんなくしてよ」
何もかも、考えられないくらいに。
悠理の唇が、言葉を紡ぐ。声を発していなかったものの、私の目にはしっかりと何を言ったのかが解った。私を縛る恐ろしいことば。
ぎゅっと硬く目を瞑って、悠理の背に手を回して引き寄せた。こうすれば顔を見なくて済むから。
互いに想いあっているのに届かない、けれど交わることを止められない。いつまで続くか解らない苦しみに、諦観を交えた瞳は宙を彷徨う。
すきよ、亜純
頭の中で響き渡る、声無き声。
***
「雨降りそうだから、気を付けてね」
「うん、じゃぁまたね」
部屋の前で別れを告げて扉を閉める。そのままエレベーターを降りて、マンションのエントランス出た。チャイムの間延びした音が聞こえてきたので顔を上げると、共用インターフォンの前に男性が一人立っている。白のシャツにカーキのパンツ、柔らかそうな髪は目にかかるくらいで整えられている。綺麗な顔立ちの穏やかそうな男性だった。自動ドアを出る時に目が合ったので、軽い会釈をして隣を通り過ぎると、訪問相手が応対する声がした。
「はい」
「悠理?俺だけど」
「ケイ…どうしたの?」
思わず足を止める。すぐ横に設置されている郵便受けにさっと身を寄せてしまってから、盗み聞きしているという罪悪感に苛まれたがどうにもならない。
「久しぶり、突然来てごめん、たまたま近くを通ったから」
「そうだったんだ。けどごめんね、今日はちょっと…」
「そっか、わかった。また来てもいいかな」
「うん、それじゃ」
プツンと途切れた音。
ケイと呼ばれた男性は数秒そこでじっと佇んでいたが、その後軽い足取りでマンションを出ていった。
私はなんとなく、悠理の知らない一面を覗いてしまった気になった。でも、今はもう心がいっぱいいっぱいで、わざわざどんな関係なのかを考える気力は無かった。重い脚を動かして、私もマンションを後にする。
それに、きっとそう遠くないうちに、わかる気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます