5 駆け引き
嫌な夢を見た。
昔勤めていた会社の飲み会。一次会の後に今後の仕事のことで話がしたいと言われ、当時の上司にカラオケ居酒屋に連れて行かれた時のことだ。
「君は今の給料で満足しているか?もっと貰うべきだと私は思っている」
わたしだってお金は欲しい。こんな安月給じゃ生活するので精一杯だ。
「仕事の出来る貴重な人材だと思っているから、次の役職会議で推薦してもいいのだよ」
別に役職が欲しい訳じゃないのだけれど。
「私は君のような若くて向上心のある優秀な子が好きだよ」
向上心というか、無難に仕事をしようとした結果そう見られているだけなんだよなぁ。
「私には家族が居るが、君を喜ばせられるぐらいの時間と金はあるんだ」
「今の私の立場は時間の融通も利くから、一泊程度なら行きたい所へも連れて行ってあげられるよ」
「いい女だよ、君は」
「若い男は君を成長させられない。私なら、君をもっと輝かせる自信がある」
気持ち悪い、気持ち悪い。
そういって迫ってくる上司の顔は悪魔の様に歪み、心の醜さを反映させた様に顔を赤黒くして私に迫ってくる。
生臭い息が顔にあたって思わず呼吸を止める。それに気づくこともなくネチネチと口説き落とそうとする上司。
そう、これは私の嫌な記憶だ。
こんなに立派な大人なんだぞと踏ん反り返っているくせに、色々と履き違えてる人間。自分の性欲と支配欲を満たすために弱者を貪って、しかもそれを正当化しようとする奴は本当に吐き気がする。
あぁ、最悪だ。こういう類の夢を見るのは決まって心が不安定なときなのだ。
「最っ低…!」
夢から醒めると同時に吐き捨ててから目を開くと、見知らぬ天井が見える。直ぐに状況を思い出して、寝ぼけながら寝返りを打つと、ベッドではなくドア付近に立った悠理が目を丸くして此方を見ていた。
「だ、大丈夫?何かあった?」
「あー、ごめん。めちゃくちゃ嫌な夢見ちゃって…」
バツが悪くて、前髪をわしわしと手で梳かしつつ答える。悠理は眉を下げて「災難だったね」とほほ笑んだ。
悠理は朝から機嫌がよかった。鼻歌を歌ってみたり、一緒に作った朝食を美味しいと笑顔で頬張ったり。そして子供っぽく私に甘えて我儘を言ったりした。まるで昨日の酔った姿の延長のようで、嬉しいのだけれど自分の気分との差を取り繕わなければならず落ち着かない。
ソファーに座っている間も手を繋いできたり、髪の毛を触ったりとちょっかいを掛けてくる。
今朝の夢の話をしたら、私の頭を撫でて「バカな男なんてそういうものだよ、嫌な思いしてたんだね」と甘い口調で慰められた。
そんな昼下がり、脈絡のないことを言い出したのも悠理だった。
外出しようと二人で準備をして化粧をしている時に、唐突に悠理が口を開く。
「ねぇ、亜純は自分が信頼した人に本当に助けて貰ったと〝思えた〟ことはある?」
質問の意図が分からなくて、とりあえず思いついたことを口に出す。
「え?あるよ。辛いときに一緒に居てくれた友達とか居るし。あれは助かったと思ってる」
「それはさ、何か辛い出来事が起こった時ってことだよね」
「そうだね、でもそういう時でしょ、助けてもらうシチュエーションって」
「そう。じゃぁ亜純は、ただただ、漠然と、憂鬱だと思う夜はないの?何もかもが憂鬱で、虚しくて、寂しい時」
「それは…」
ある、と思ってから言葉に詰まる。
そういう時はいつも一人だったから。昨日だって。
だって、そんな漠然とした不安や憂鬱を、言葉にして人に上手く伝えられない。何も起こっては無いけれど、憂鬱で虚しくて辛いから助けてください。なんて言ったら愛想笑いか苦笑いを浮かべられて距離を置かれるのが目に見えている。過去付き合った恋人達にも言えなかった。
だから言えない、要するにそういう意味では助けてもらったことは無い。
「ない。けど、それは相手に求めすぎじゃない?」
「どうだろう。人って一つ許容されればどんどん欲が湧くでしょう?気づいたらどんどん依存して、言葉にできないものも分かって欲しいと思ってしまうものよ」
耳が痛い。今までの恋愛経験上まさに自分がそのタイプだったから。
「あと、たまに居る〝いつでも助けるよ!〟とか言う人って、とくに何か起こった場合のみでしょう?本当に寂しくて、誰かじゃなくて「その人」にいて欲しいと思った時に隣に居てくれた事って、あった?」
「……ないよ。確かに、一度もないわ」
「私もない。だから期待しない。そう言う人が私たちのようなタイプの人間を壊すから、気をつけた方がいいよ」
「でも、それでいくと人間関係が希薄になって、逆に寂しいんじゃないの?」
「そうでもないと思う。結局傷つくのも求めるのも自分の自業自得なら、そうやって身を守った方が案外良かったりして」
さぁこの話は終わり、とでも言う様にぱんっと手を打つと、悠理は元のご機嫌状態に戻った。そこから私も追及はしなかった。今追及したら、それこそ自分が傷つくだけな気がしたから。
この日はそのまま休日を過ごして、日が落ちる頃に解散した。
***
ドンドンと響く重低音が内蔵を震わせる。暗いホールをカラフルなライトが動いて、音楽にのって踊る人々を映し出す。既にホールには人がごった返していた。
「わー、久しぶりだけど、雰囲気は変わってないのね!」
表情と声から興奮を現している悠理を見て、私の気持ちも昂っていく。
今日のイベントは三か月に一度程開催される、LGBT向けのガールズオンリーイベントだった。初夏を迎えたこの日のイベントは解放感に満ち溢れ、一年以上前に訪れた冬のイベントよりも来場者が多いように感じられる。
受付でチェックを済ませ、再入場用にと手の甲にブラックライトで目視出来るスタンプを押され、今後開催予定のフライヤーが入った袋を貰う。いつもは中身を殆ど確認しないが、悠理は興味深そうにフライヤーを見て、次はこれも行ってみたいとはしゃいでいた。
「あ」
そのフライヤーの中に混じって入っていたのは、男性用コンドームと同じくらいの大きさの袋だった。パッケージをよく見ると、指に嵌めて使用するタイプのコンドームの試供品らしい。なるほど今はこんなものがあるのかという驚きと関心、そして使用してみたい好奇心が膨らむ。
「これ、今度使ってあげようか」
「何言ってるの?それは私の台詞でしょう」
悠理がにやりと笑って目を細める。その仕草と低く煽る声が酷く扇情的でどきりとする。ふとしたときに見せるこの表情と言葉に、私はたまらなく煽られるのだ。
飲み物貰おう、と私の手をつかんだ手は、すぐさま恋人繋ぎになってぎゅっと握られた。それが離れないでと言われているようで嬉しくて、入場してからずっと心臓が煩い。
ショーがおこなわれる深夜零時に会場入りした私たちは既に酒が回っており、会場内で同じく出来上がっていた友人たちとも直ぐに馴染む。最近はあまり参加しなくなっていたが、相変わらずよく会う友人たちも居て会話が弾む。久しぶりに来た悠理も友人を見つけ、中盤は離れて互いの友達と過ごす場面もあった。悠理の友人は私の話したことがない人や、顔も知らない人が多かったので、今まで互いがこのコミュニティーに居る事を知らなかったのも頷けた。
ショーが始まってより大きくなった音楽により、話しかけられても聞き取るのに苦労する中、ドリンクカウンターの人混みの中にさとみを見つけた。駆け寄って肩を叩くと振り返って驚いた顔をして、すぐに笑いながらハグをしてきた。このテンションの高さは、どうやらさとみはかなり酔っているらしい。
「亜純来ないと思ってたわ、びっくり」
「ショータイムに合わせて来たから遅かったの」
「一人で?」
「いや」
一瞬悠理の名前を出すことを躊躇うと、すぐにさとみは察したらしく眉を顰めた。
「もしかして、前言ってたあの人?」
「うん、そう」
どれ?とぶっきらぼうに言われて周りを睨み始めたので、慌てて宥めすかせる。こういう時のさとみは絡み酒をするので厄介なのだ。上手くやってるからそう睨まないでよ、と声をかけつつ私もホールを見渡す。
すると壁際で友人と話している悠理を見つけた。私が指をさして特徴を伝えると、さとみはまるで品定めでもするかのように悠理をじとっと見つめる。
「ふうん、確かに亜純が好きそうな顔。タイプ丸わかり」
「やっぱり?」
言い終わらないうちに強引に腕を組まれて、そのまま私を引き摺るようにさとみが歩き始めた。腕を抜こうとしても強い力で抑え込まれていてびくともしない。これはまずい。向かう先はもちろん悠理がいる方向だ。
「え?!ちょ、いいって!」
「何が?私はただ挨拶しようかなって」
ぐいぐいと歩を進めるさとみになす術もなくついて行くと、途中悠理がこちらに気づいて手を挙げた。丁度友人とも話終えたようで、こちらへ向かってくる。
さとみはいつも話を聞いてくれる得難い親友だが、たまに暴走することがある。それはまさに今のような状況で、その時私が付き合っていたり良い関係だったりする人に突っかかるのだ。それでも私の不憫さを思っての行動なので強く咎めることも出来ない。
悠理は慌てる私を不思議そうに見つめて首を傾げた後、私をホールドしているさとみに向き直って笑いかけた。その様子に警戒心は感じられない。
「こんばんは!悠理さんですよね?」
さとみは先程までの態度と打って変わって、驚くほどさわやかな笑顔で挨拶をした。あまりの変貌ぶりにぎょっとして見上げると、腕を更に強く握りこまれる。そんな顔でこっちを見るなと態度で示されたので、慌てて姿勢を正すと腕を離された。
「もしかしてさとみちゃん?初めまして、よろしくね」
「こちらこそ。遠くからでも綺麗な人だからすぐにわかりましたよ!」
「ええっ?嬉しいけどもうアラサーだよ~」
私の心配をよそに、二人は和やかに話し出す。その変貌に私は肩透かしをくらった気になる。何を飲んでるかとか、どの子と友達なのかとか、とりとめのない会話に私は相槌だけで留めた。まだだ、さとみのことなので最後まで気を抜けない。はらはらとやりとりを見つめていると、やはりと言うか、馴れあいはおしまいとでも言う様に、さとみは声色を変えた。
ひとつ聞きたいんだけど、と。
「亜純のこと、本当に好きなんですか?」
一瞬、悠理の目が僅かに見開かれた気がした。
笑顔は崩さずじっと答えを待つさとみを見て何度か瞬いたあと、眉を下げて困ったような笑みを浮かべた悠理は、私をちらりと一瞥した。
「うん、好きだよ」
まるで我儘を言う子供をなだめる様な言い方だった。乞われて仕方なく、とでも言うような。私はそれに少しだけショックを受けて、きゅっと唇を引き結ぶ。動悸がする。さとみはぴくりと眉を動かした。
「ほんとに?それならなんで付き合わないの?」
「うーん…私、人と付き合うとか向いてないみたい」
続けられた言葉にさとみの眉がつり上がった。
「そっかー、なら亜純とは合わないかもね」
「さとみっ!」
咄嗟に、そんな事はないと声高に叫ぼうとした。これ以上傷つきたくなくて、何か言って打ち切ってしまいたいとも。けれど上手く言葉が出てこない。悠理は表情を変えず、じっとさとみを見返している。周囲の楽し気な雰囲気は今や煩わしい雑踏だ。ここで発生した重苦しい空気に私は潰されてしまいそうだった。
何も言えずに直立していると、さとみは一つため息をついて、友達のところに戻るねと振り返った。ぽんと肩を叩くように掴まれたが、すぐに離れていく。でもその手が肩を握った力は強くて、それがさとみから私への答えだった。
振返ってさとみの背中に手をのばす。が、すんでの所で悠理に腕を掴まれた。
「あ…」
さとみと話していた時とは違う、じっとりとした視線が私を射抜く。まるで私を選べと言われているようだった。その瞳が少し怖いと思うのに、一番に私の中で湧き上がったのは、ほの暗い喜びだった。私はなんて愚かなのだろう。さとみの警告を無視できないくせに、悠理の目を見つめただけでこのありさまだ。自分の思い通りにならない心。
「だからこうしているのにね」
亜純、と私の名を呼んで手を包み込むように握った悠理は、そのまま私を引き寄せて背中に手を回した。あぁ、鈍感でいられたらどれ程楽だろうか。
さとみに一声かけるか迷っていたが、それを見透かしたように悠理は私を離さなかった。出入り口へと歩いていく途中、ホールの端の方にさとみが見えた。煙草を吸っているらしく、手元は見えないが紫煙が漂っている。その姿を見つめていると、こちらへゆっくりと視線を寄こした。私たちを捉えると、諦観したように薄らと笑った。全てを見透かされている気分だった。動揺して歩く足が止まろうとしたが、悠理の肩へと回された腕が私を強引に歩かせる。振り返るような形になっても、さとみから視線を逸らせない。スローモーションの様に、引き伸ばされた時間が私を蝕んでいく。
先に目を逸らしたのはさとみだった。ゆっくりと瞬きをして開かれた瞳にはこちらを映しはしなかった。
この中で加害者は私たった一人。浅ましく欲しいものを求めている私たった一人。それだけは事実だった。
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