4 剥離

 一人で生きていける、と言える全ての人間に尊敬の念を抱く。

 私にはとてもじゃないが無理だ。


 必要とされる人間になって始めて人から必要とされるのだ、というのも理屈としてはわかる。けれど子供を愛する母の様に、無条件の愛を与えてくれる人物もきっと世界にはいる。儚く倒れそうな美人を見たら助けて傍に居たいと思う人もいるはずだ。大切にしたい、それは同情であり愛情では無いとしても。私はそう思うし、それで守られる人間になれるのは幸せなことだと思う。まぁ私は単なる甘えからこの発想に至っているのだけれど。






 雨の日は気落ちしやすい。気圧変化の影響もあるらしい。

 いつも通りに出社して、定時から一時間程残業して仕事を終える。

 今日はこのまま悠理の家へ遊びに行く日だった。先に帰宅した悠理は夕食の準備を先に進めてくれている。地図アプリで道順を示しながら道を歩く。



 あの日からほぼ毎日メッセージを送りあっている。週末は欠かさずあっているが、悠理の家に行くのは初めてだった。いきなり色を持った私の生活。不穏な始まり方をした私たちだったが、普段はそこら辺の恋人たちと何ら変わらない関係を続けている。なんなら付き合ってないことがおかしいくらいだった。


 浮かれているが、ストッパーは心にずっと存在している。いつ訪れるかわからない変化に心の奥底では怯えていても、下手につつけば藪蛇となりそうで何も切り出すことは出来ないでいた。



 季節は六月の下旬に入り、雨の降るぐずついた日が増えた。北海道は例外と言われているが、蝦夷梅雨という呼ばれ方をする時期はあるのだ。

 しとしとと降っていた雨は、アスファルトを打って跳ね返る程強くなっていく。時折水たまりに足を踏み入れてしまい脹脛に掛かる。道順を頭に叩き込んでスマートフォンを濡らさないようポケットへしまい込み、傘を前かがみに持って先を急ぐ。


 歩いている途中にふと細い路地の間から気配を感じた。立ち止まって覗き見ると、夜に溶け込みそうな黒猫のシルエットがこちらを伺い見ているのがわかる。しかし数秒後には路地奥へ向かって逃げるように去って行った。

 あの濡れた猫には、守ってくれる飼い主がいるのだろうか。


 目印としていた公園へ着くと、紺色の傘をさしてこちらへ手を振る悠理が居た。わざわざ出迎えに出てきてくれたことが嬉しくて、早足で駆け寄る。合流してすぐ近くにある綺麗なマンションが彼女の家だった。


「どうぞ」


「お邪魔します」


 玄関で濡れたコートをハンガーに掛けた後、白を基調としたリビングルームに通される。窓際に置かれたアンティーク調の台の上には大小様々な種類のキャンドルが置いてあり、そういえば趣味の一つだと言っていたのを思い出した。


 悠理が私の濡れた髪をタオルで拭いてくれている間、キャンドルに灯された炎が揺らめくのをぼうっと見ていた。炎の揺らぎがぬくもりと寂しさを生んでいく。漠然と、悠理と私の関係みたいだなと思った。会うたびに恋焦がれる思いは強くなり、それと同時に寂しさや苦しさも募っていく。いつか離れると分かっている恋愛程のめり込みたくないのに。不思議なもので、私は経験値を積めば積む程恋愛に対する抵抗が脆弱になっている。思い描いた理想の自分とかけ離れていく様は嘲笑ものだ。楽しい思い出なんて作ってしまったら、後を追ってしまいそう。




    ***




「亜純とデートがしたい。ベタなやつ」


「うーん、じゃあ映画館とかどう?」


「良いね!あとは動物園とか、田舎のおいしいアイス屋さんに行くとか」


「その案採用。あとはそうだな…あ、久しぶりにイベントに行かない?堂々くっつけるし騒げる」


「あはは、そんなに外でベタベタしたいのー?なんてね、私も大賛成」



 気が付けば、赤ワインが一本空いていた。


 まずは私が推した、週末に行われるLGBT向けのイベントに行くことを決める。これは少し前から考えていたことだ。そういうイベントの場なら、堂々と私たちの関係性を発信できる。そして第三者に私たちの親密を認知してもらえる。私にはそれが必要なのだ、いつ崩れるかわからないこの関係を繋ぎ止めていくために。自分の心の均衡を保つために。


 それからは何の映画が見たいとか、温泉旅行に行きたいとか、そんなカップルらしい話題を繰り広げる。

 暫くそうして騒いで居たが、悠理が一息つくと潤んだ瞳で私を見つめた。


「はぁ、少し酔ってきた」


 酒に強い悠理が、私より先に音を上げたのは初めてだった。気づけば二本目のワインも空になっていて、予備で買っていたチューハイの缶も開けていた。

 顔が赤い。カーペットの上に座っていた悠理は立ち上がると、ソファーに座る私の隣に座って腕にぎゅっとしがみついてきた。頬を肩に乗せると安心したように目を閉じる。長い睫毛が僅かに震えている。


 キッチンから漏れ出る暖色のライトとキャンドルの灯が、ソファーの上の女二人を照らし出す。ムスクの香りが鼻を掠める。栗色の髪を撫でれば気持ちよさそうに肩口に顔を摺り寄せた、まるで猫みたいだ。


「ねぇ、本当に泊まっていいの?」


「良いってばー。シャワーも好きに使って」


 シャワールームを指差した腕はぱたりと落ちて私の膝の上に投げ出された。


「好きよ、亜純。今度ドライブもしよ、外にでよ」


 酔っ払いの「好き」は軽いのに、私の心は揺さぶられる。こんな姿を見せてくれるほど心を許してくれていると思ってしまう。


「私もよ。ドライブ、何処に行こうか」


「んーとね…地元に行って思い出解説!」


「ふはっ、なにそれ!私の思い出がつまらなかったら苦行じゃない?」


「だいじょうぶ、そんなことない。そういうの嫌い?」


「ううん。私はそういうのやってみたいけど、そんな自己満足みたいなのに付き合ってくれる人は居なかったから」


「よし、じゃあやる。私の思い出も、解説してあげる」


 それだけ言うと私の膝を枕にする様に体勢を整えはじめ、満足したのか暫くすると寝息を立て始めた。自由気ままな行動が猫のようで可愛らしくて笑ってしまう。すやすやと気持ちよさそうに眠る悠理が腕を伸ばして身じろぎすると服が捲れ、半袖の裾からタトゥーが露出した。露わになったそれをそっとなぞる。


 このタトゥーには、きっと大きな意味、あるいは覚悟を込めている気がしている。

 いや、確信している。


「ねぇ、悠理はどうして刺青を入れたの?」


 眠っていると思って呟いたのに、悠理は唸って反応した。


「ん…これはね、ひとりで生きていく覚悟」


「どうして一人で生きて行こうと思ったの?」


「そうしなきゃならなかったから。高校生の時、両親が死んで」


「…事故だったの?」


「じさつ」


 じさつ。自殺。


 それだけ言うと、また悠理は目を閉じてすやすやと寝息を立て始めた。寝ぼけ眼での会話だったから、悠理は明日になったら忘れているかもしれない。それでも私の胸には重たい何かがのしかかり、少しの間上手く呼吸ができなかった。急速に頭が冷えていく。

 彼女はいったいどんな人生を歩んできたのだろう。そして、私はどうしたらこの人の心に寄り添えるのだろう。


 夢の世界に飛び立った悠理は、私を置き去りにして幸せそうに寝息を立てている。

 今日と全く同じ様に、悠理はあの世へと旅立つことが出来、残された私は嘆くことも出来ず途方に暮れる日が来るのだろうか。そんな未来がそう遠くない日に訪れると思うと、視界から急速に色がなくなっていく。まだだ、まだまだ私は悠理を知らない。



 就寝準備を終わらせ、寝ている悠理を無理やり起こして支えながらベッドへ寝かせる。ほどなくして私も隣へ潜り込む。

 キャンドルの灯も部屋の電気も消した家の中は真っ暗で、窓ガラスを叩く雨の音が暗闇に寄り添うように響いている。

 隣で悠理が眠っている。私の中にじめじめとした孤独感が湧き上がる。

 こんなに近い距離にいるはずなのに、全く自分を認識しない、感じてはくれない。集団の中で感じる孤独に近い感覚が私を支配する。


 平常心を保つことは難しい。五分前に飲み込んだ安定剤が早く効いてくれますように。

 今までもこうして鬱屈した夜を何度もやり過ごしてきた。


 隣から聞こえてくる穏やかな寝息。一度気にかけてしまえば目が冴えていく。なぜだか都会の喧騒のように私の心は騒めいている。



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