由縁と予兆
前回までのあらすじ
姉である夏希の事件の影響から福島県にある北塩原へ逃げ込んだ売木
──────
今日の天気は晴れのち曇り…… 結果的にはそうなってしまった。
天気予報というものは、麓である
自然現象なのであり得ないこともなく、夜に曇るなんて珍しい話でもなんでもないのだが、ここの宿で星空を楽しみにしている人もいただけに少し心が痛んでしまう。
「今朝は晴れだったのに……」
水滴を帯びた窓を優しく閉めながら桃色の和服姿の女性が残念そうに一つ呟き、窓越しに空を見上げる。窓の閉まり具合もかなり悪化しており随分と
夜空は月明かりも
加えてかなり冷え込んでいる。ひと頃の春を彷彿される程であり、日中が暖かかっただけになかなか身体に
「……」
座布団の上にゆっくりと正座し、気持ちを一つ整理すべくそっと
数秒経てば長い
窓に映る零佳の顔は
時刻は午後8時を過ぎた頃合。
零佳は一人和室の中ほっと一つ息を
日中で一番忙しい夕飯の時間は皆と協力してなんとか乗りこなし、この時刻になれば来客も温泉に浸かっている時間。就寝までもう
体を動かしていれば時間が経つのも忘れてしまう。あっという間に夜になってしまった。事件に巻き込まれていた時は本当に一日が長く感じられていたのに…… 時が経つのが早いというのは平穏な状態でいる証なのであろうか。それとも過去から少しでも離れたいという無意識の表れなのであろうか。
──雷?
ふと窓越しに遠くを見れば向こう側から
雷鳴はここまで
雷が鳴り出すと
福島県会津地方北部に位置する山奥の温泉宿。今日は平日ということもあり比較的業務は落ち着いていた。いつもであればこの時間、零佳も外に出て月光に照らされた山景色や満天の星空を眺めていたのだが、今日はそれもできそうにない。
程よい疲労感を抱えながら夜風に当たり一日をゆっくり振り返る時間…… それは零佳にとって細やかな楽しみであった。
それだけに予期していなかった曇り空に零佳は肩を落としてしまった。
そうとは言ってもお天道様に文句を言っても仕方ないだろう…… 気持ちを切り替える意味で暖かい緑茶を湯呑みへ注ぐ。湯呑みを手にしてそのまま口に含むと茶葉の香りがすぐさまに広がっていった。
冷えた身体に染み渡るかのような暖かさ、そして仕事で蓄積された疲れも相まってとても心地が良く、この時間が永遠と続けばと密かに思うところである。
明日も同じようにこうして無事に一日を終えることができるのであろうか。日常を一瞬にして奪われた零佳の心の中には常にそのような思いがつきまとっていた。
明日も同じように過ごせるとは限らない。運命と享受しなければならないことは突然にして起きる。突然に起きるからこそ今の時間を一瞬一瞬を大切に、噛み締めて過ごさなければならない。
「零佳…… いるか?」
聞き慣れた女性の声だが、朝よりか若干の
「すまないな、
「いえ、お気になさらないでください」
この宿の女将である錠場冬香の姿が視界に入り、零佳は軽く微笑んだ。逃亡中で生活に困っていた時に自分を受け入れてくれた、いわば命の恩人にあたる人物だ。
上下灰色の
とはいえ普段も夜の時間になると冬香はこのような様子である。いつものことだと認識し零佳は優しい声で「どうぞ」と、机の向こう側に敷かれた座布団へ案内をした。
「急に寒くなったな」と小言を漏らしてしまうところも自分自身で歳を取ったと感じてしまうようで…… ゆっくりと畳を踏みしめながら零佳と対面になる位置へ座ってゆく。
「お疲れ様です。冬香さん」
「あぁ、ったく…… こんなに冷え込むなんてな……」
歳なんて感じてはいられないような年齢だと分かってはいるが、どうも気苦労が絶えない職場だ。そんな苦労も相まっているのかは分からないが、年を追うごとに寒さに弱くなっていくのを実感してしまい、またこれも彼女にとってネガティブの一因となってしまうようだ。
一方、零佳は目の前で肩を震わせる冬香から察したのか、黙って暖かい緑茶を提供した。湯呑みから立ち上がる湯気が朝の時より白く、それでも冬香の僅かな吐息で流れてしまう。
「悪いな、零佳……」
軽く湯呑みに口をつけ、冬香も同様に
お互いの茶が少しだけ
「ちぃの件ありがとな、茉里の奴、凄くはしゃいでいたぞ」
今朝、何かの拍子で「ちぃ」という名の布人形が壊れてしまった。茉里という宿に住む幼き子が大切にしていた黒髪の人形のことである。
原因は分からない。分からないが自然と首と胴体が離れてしまったようだ。茉里の言い分を聞くにも、自分が壊したことを隠している様子は無さそうであった。
何も無くして首がもげてしまう…… なんとも不気味な出来事である。不吉の暗示で無ければ良いが。
「あれは茉里にとっての宝物ですから……」
とはいえ、自分自身の手で直せる範囲で良かったと零佳は心底感じていた。
具合は首が取れる程度であった為、
「ありがとう、零姉」と繰り返しながら満面の笑顔を浮かべる茉里の姿が忘れられない。あの
茉里の喜ぶ顔を思い出し、零佳の口角が無意識に持ちあがる。母親のような、優しい表情。
できれば茉里の側にいてあげたい。ずっと、彼女が大きくなるまで見守り続けたい。そんな気持ちが沸沸と心の中で密かに膨らみ続けていた。
「で、零佳……」
冬香が声を落とす。黒がかった茶色の瞳が零佳に向けられた。
「今先程、ウチが茉里に一つ仕事を任せておいた。当分茉里はこの部屋に来ない筈だ」
「お気遣いありがとうございます」
ゆっくりと向き合いながら二人で話す時間。共に過ごした時間は長いが、意外にも少なかったかと思われる。
……いや、いくらでもあった。けれどずっと逃げ続けていたのだ。今まで暮らした2年半、零佳は人と向き合うことを避けていた。自分の芯内を語るのが怖くて、話した瞬間に心地の良いここでの暮らしが全て崩壊するのではないかと恐れていたのだ。
──それでも
自分自身について、話す必要がある。そうと決めてもう何日も経ってしまった。
「
「あぁ…… 正直、今でも信じられないけどな。」
そう、零佳はこれ以上冬香に話していない。2年間も共に過ごしていても、これ以上踏み込んだ内容は今までに話したことが無かった。
売木夏希の妹であるという事実。これだけで冬香は何も言わずにずっと気遣って一切の干渉をしなかった。
……この宿の子は皆曰く付きの過去がある。確かにそうなのかもしれない。だからお互いがお互いに過度に干渉することはなく、零佳にとって過ごしやすい環境だったのは間違いなかった。
けれど……
「私…… 売木零佳は東京都の練馬にある、とある町で過ごしておりました。姉の夏希はじめ…… 5人の妹達と共に。私に妹がいるというのはこれも恐らく……ご存知かと思います」
直接冬香と話したわけではないが、事件当時の新聞で売木夏希には妹が何人かいるといった記事も見られていた。それに茉里達との会話の中で何度か耳にしたこともあり、妹がいるのだろうと勝手に予想は立てていた。
「あぁ、何度かどこかへ仕送りをしようとする様子も見られたしな。だが、そんなにいたのか……」
妹か......いや…… 変なことを考えるのはよそう。
「えぇ、事件が起きてから辛うじて連絡が取れた2人の妹…… 末っ子の絆とその上の桜という名前の2人で、それ以外の妹については私も全く存じていない状態です」
「そうだったのか……」
更に聞けばその妹2人は長野県に避難するようにして引っ越したと言う。境遇は今の零佳と全く同じだ。皇女暗殺をきっかけに風評被害を受けた…… 本当に馬鹿馬鹿しい話だが、そうせざるを得なくなった彼女らの立場を考えると胸が締め付けられる思いにもなってくる。
とはいえ、それでも音沙汰の取れる妹達は彼女にとって生き甲斐であることは間違いないだろう。聞けば長野で上手いこと過ごしているようだ。無事で何よりと零佳も言っているがそれでも心配は尽きないはずだ。
一度沈黙が訪れた後に、零佳は小さく開口と閉口を繰り返す。言い難いことがあるのだろうか…… 冬香は心中察しながら黙って零佳の言葉を待っていた。
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