晴れない疑念



「実は…… 私は、事件以前、とある縁談より入籍を目前まで控えておりました」


 これを聞いた冬香は目を見開き、思わず中腰になりそうな勢いで姿勢を前に倒してしまった。音を鳴らしながら机に手が置かれ、その衝撃で湯呑みに波紋はもんが一つ出来上がってしまうことに。


 縁談、 入籍…… それとひも付けられる事は一つしか浮かばなかった。


「なんだって……!? となると、あの事件が無ければ零佳は結婚していたのか?」


 冬香の問いかけに零佳は黙ってあごを引く。

 ほぼそれと同時に、冬香の側頭部分に陣痛が走り出した。



 なんということだ……姉が起こしたあの事件がよりにもよって彼女を破局へと導くだなんて……



 深くは聞けなかったが大方検討はつく。あの事件を起こした犯人が親族となるのだ。当人とうにん達が良くても受け入れる相手親族は反対するに決まっている。例え夏希と絶縁したとしてもだ。


 そして零佳の性格を考えれば、相手の事を思い自ら離縁りえんを打診したのであろう。



 ──不幸を招くにもいい加減にして欲しいところだ。



 冬香は腹の底から自然と熱いものが込み上げてくるのを感じ、落ち着かせるように腹部を撫でた。



 どれだけ……


 どれだけ零佳に罪を背負わせる気だ……



 毎日懸命に働き、周りにも気配りができ、おしとやかで茉里達からも慕われる。そんな人物が結婚をして幸せな家庭を築くことすら許されなかったのだ。

 それどころか親しかった妹達と離れ離れになり、一部は全く消息も確認できない状況…… 人が人なら自棄ヤケになってもおかしくない。


 姉の犯した罪により零佳の人生は滅茶苦茶にされた。何もかもだ。何もかも奪われてしまったのだ。


 救いというものは本当に無いのだろうか……


 冬香の手には自然と拳の形が作られていた。そして思えば思う程に手に入る力が強くなる。



 ただ、零佳の目を見ればそれは既に割り切ったかのように伺えた。


 過去の話だと。もう既に自分の中で終わっていると。




 一方零佳の中ではこの話は言うべきか、言わないべきか直前までずっと悩んでいた。

 既に終わった話だ、今になって冬香に打ち明けることもあるのだろうか…… と躊躇ためらっていたが、やはり事実であり冬香にだけは話しておきたかった。


 どのような経緯で北塩原村まで逃げてきたのかを知ってもらう。それが零佳なりの冬香に対する礼儀であった。


 驚く冬香の姿。当然であるが、彼女にとっては知らなかった事である。だからこそ零佳の中で申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。


 故も知らぬ流浪るろうの人間、しかも悪い意味で国からお墨付きを得ている人間と共に暮らすことを享受するなんて普通の人間ではまずあり得ない。2年半、冬香は何も知らない人間を受け入れ続けていたのだ。そんな懐深い人間に対して何も情報を与えず、ただ一人悠長な日々を過ごしていた。


『この宿には曰く付きの子ばかり』『自分のことは話さなくて良い』『国に懐疑的な感情がある』──時折現れる冬香の言葉に零佳は甘え続けていたから。

 居心地が良く、あわよくば3年前の出来事すら忘れてしまおうという魂胆すら奥底に潜んでいた。


 最初はそうだった。嫌な思い出は誰でも忘れたくなる。距離を置き、二度と関わりのない様に…… そして北塩原村で出会った人達と新しい生活を始める。そんな淡い期待も抱いていた。


 自分自身が何者であるか知らない冬香に対して、ずっと何も伝えずにただ自分だけが逃げようしていたのだ。


 そんなこと、許されるはずがない。


 ある日抱かれた罪悪感。その日から幾日が経ったのであろうか……


 だから……


「そして、3年前に起きた事件……」


 冬香はつばを飲み込んだ。零佳の口からあの事件・・・・について触れられる。自ら触れようとしている。


 その神妙な表情から改めて零佳が当事者であると認識する。


 あの犯人とは似ていない目。ただ、それでも口元から感じられる夏希の遺伝子に血縁者であることが読み取れてしまう。同じ親を持つ姉…… 同じ家で暮らした家族……


  今まで興味がなかった事件のはずだった。だが零佳と共に暮らしていれば否応なしに関心を抱かざるを得なくなる。話さなくて良い、確かにそう言った。それは零佳のことを思い遣るため。



 思いやり…… もっともらしい言葉だ。本当に、もっともらしい。



 零佳がずっと話すことのなかった心情…… 冬香は自然と体が前のめりになっていた。



 ただその時、ちかり…… と天井の電灯が切れ、一瞬だけだが部屋が薄暗くなってしまう。見上げれば揺れるように点滅を繰り返す丸い白熱灯。しばらくしてもそれは通常運転に戻ることはなかった。



 ──最近、電球を変えたばかりだぞ……



 不規則な点滅を繰り返す電灯を見つめ冬香は目を凝らした。何か触れてはいけないものを触れようとする警告の表れかと感じてしまう。


「当時、私は姉の夏希と別で暮らしていました。姉は皇軍の騎士ナイトであった為、皇室に泊まり込みで仕事をしていたのです」


 口調は淡々としていた。


 夏希と最後・・に会ったのは事件発生から4日前。いつもの様に平穏な日だったと言う。そして最後の会話も詳細までは記憶していないとのことであった。それだけに突然すぎる出来事には戸惑うしか無かったようだ。


 零佳自身もあの事件の共謀者とさげすまされ、責められた時もあったが本当に何も知らないと述べてゆく。


「正直に申し上げますと……」


 零佳は更に続けた。

 事件に関しての意見は、が思うものと全く同じであると。

 

 事件の動機、経緯、全てが謎で終わってしまっていると。向き合ったところで解決の糸口は出てこないものであると。


 ただ、それでも起きた現実。破局と逃亡生活。当時は目の前で起き続ける出来事に対して対処するのが限界だったと。夏希と一度も面談出来ず、今に至ると言う。


 並べ続けられる言葉に対して冬香はただただ閉口するしかなかった。


「すみません、冬香さん。本当は私も……知りたい・・・・のです。ただ……それは無理だと分かっています」


 冬香は身体が小刻みに震えていた。口が乾くのも感じられるが、茶を飲む気にもなれなかった。


 何も知らない。だから知りたい。けれど知る方法もない。零佳はその渦の中に巻き込まれ抜け出せないでいたのだ。


 ──馬鹿だ、本当に馬鹿なことをしてしまった。



 思いやり…… そんなことを思って満足していたのは自分だけだった。彼女はあの事件から向き合わなければならない、向き合わずして生きることは出来ない。それなのに 現実から目を逸らすような愚行をただ催促させただけだった。


 尻を叩いてでも零佳に向き合わせ、妹達と再会させる。それが冬香にできた零佳に対する最善の策だった。それを今になってようやく気づき胸が刺さるように痛くなる。


「一つ…… 聞いていいか?」


「はい……」


 姉…… 『夏希』についてどう思うか……? 冬香から聞かれたのは至極単純な質問であった。


 零佳の生活を壊してしまった姉。妹達の気持ちを裏切ってしまった姉。そして、未だに死刑囚として投獄されている姉についてどう思うか。


 冬香自身、口に出したことで自分が本当に零佳に尋ねたかったことであると再認識してしまう。無関心なんて装えなかったのだ。


 質問を受けた零佳は暫くして目を伏せながらゆっくりと首を横に振った。


「未だに私は信じることができません。聡明そうめいな姉がどうしてあのような事に手を染めてしまったのか」


 それは怒りでも、悲しみでも、憎しみでもなく──疑念──。ただ一つだけ、彼女の中には『疑念』のみが残されていたのだ。


「本当に姉が暗殺してしまったのか…… 私の中ではそこから始まっています」


 けれど、それは現実逃避に他ならない。だから零佳は沈黙を続けていたと言う。現行犯であるから根源を疑っても仕方ないと。


 それでも時折冬香から発せられる国に対しての『疑念』の言葉が一縷いちるの希望となったと言ってくれた。


「それが事実であるなら、 何故犯してしまったのか。姉に対する思いはそれだけです」


 残された疑念。それは人を前にも後ろにも動かすことをはばかるものであった。

 零佳の言う通り、執着したところで何の解決にもならないのかもしれない。だが、夏希は死刑囚だ。零佳は今後生きて姉に会うことは出来ない。執行されてしまえば何が起きても絶対に会って話すことは不可能だ。



 決して晴れない疑念・・・・・・。夏希はなんて罪深いものを残していったのであろうか。


 零佳を直視できず、冬香は天井でちらつきを見せる白熱灯へ一瞬視線を上げた。


「私に残されたのはそれだけであると。 気付いたのは此処ここに来て暫く経ってのことでした」


 最初は忘れられるものだと思っていた。宿で働いているうちに、様々な人間と関わっていくうちに消えていくものであると。


 だが、そうでは無かった。時間と共に事件について咀嚼そしゃくすればする程に、いだく疑念は大きく膨らみ続けていた。忘れるなんてどれだけ甘い考えだったか。


 むしろ無意識のうちに追い続けていたのにも関わらず、無関心を装い続けていた。

 距離なんて置けるはずがない。関わらないようにやり過ごせるわけがない。


 ──零佳が売木夏希の妹である以上、そして夏希と過ごしてきたかけがえの無い時間がある以上は他人事として逃げ続けることは絶対にできない──


 向き合うしか無いのだ。





「零佳──」


 冬香の言葉を遮るように突然、遠くから女性の悲鳴が聞こえてきた。次いで物騒な物音も添えられており2人はいぶかしげにあたりを見渡す。


 何事だ? 言葉を交わさなかったがお互いに思うところは同じであろう。目を合わせた後に冬香が座布団から腰を浮かせた。


「な、なんの音だ? 温泉フロの方からだな」


「全く、こんな大事な話と途中で」と冬香は力無く続けた。


  また茉里が風呂の温度でも間違えたのだろう。この前もやらかしたこともあり、あの時もそこそこの騒ぎとなってしまったのを思い返してしまう。そうでないことを祈りたいが……



 さっと立ち上がれば冬香の口からため息が一つ漏れてしまった。何もなく一日が終われると思ったのに最後の最後でトラブルが起きてしまうなんて。中々疲れが抜けない職場であると改めて感じてしまう。


「冬香さん……」


 零佳も同時に腰を上げようとしたが、すぐに冬香に静止されてしまった。ゆっくりしている零佳を動かしてまで対応することではないと判断したからだ。


「大丈夫だ。私が様子を見てくる。またすぐに戻ってくるから零佳はそこで待ってな」


 そう言った後「ったく、茉里のやつ……」と愚痴にも似た言葉を残しながら、冬香は足早々と部屋を出て行ってしまった。



 ──またすぐに戻る──



 零佳はその言葉を信じ黙って湯呑みに口をつけた。すっかりと緑茶はぬるくなっており、それでも最後まで飲み干す。

 飲み干すにつれ最後は茶葉が固まっていたことからかなり苦く感じてしまった。


 強い風が窓を打ちつけ、大きな音が鳴ってしまった。湿気を含んだ木造の窓がガタガタと不穏な音を立てており落ち着けそうにもない。



 ──雨まで……



 暗い窓を眺めれば小雨ではあるが、ついに雨が降り始めてしまったようだ。


 風に乗せられた水滴が窓に叩きつけられては血痕けっこんの様にただれ落ちて行くのが見える。

 叩きつけられてはゆらゆらと行き場を失った虫のように不規則に流れてゆく。



 あの事件が起きた時も、確かこんな夜であった。水捌みずはけの悪い自宅の窓を見て、明日晴れたら防水スプレーでも施しておこうかと考えていたのを今になって思い出す。

 結局それはやれずじまいだったが……



 そうだった……


 夏希姉さんが私に対して言った最後の言葉……








 冬香は駆け足で脱衣所を抜け、露天風呂へ向かった。

 昼間は雄大な磐梯山ばんだいさん、夜は晴天であれば星の森・・・堪能たんのうすることができる人気の露天風呂だ。人々の癒しの場であり、この宿自慢のひのき風呂。


 先程まで人の声がしたのに今は雫音しかしていない。流石に怪しく思った冬香は様相を伺うように周りを見渡していく。


 だが…… 既に異様な音、くちゃくちゃと言ったあまりに不快な吸着音が水の滴る音を割り込むように耳に入ってきた。


 まず風呂場では聞かない音だ。しかしながら、すぐにその音の正体は目に映る光景にて判明することになる。


 真っ赤な檜風呂であった。



 な、なんなんだこれは……

 一体何が起きているんだ……?



 誰が見てもそう思う。今、冬香が見ているものはあまりにもあり得ない光景だ。


 赤く染まった檜の浴槽。いつもなら優しい檜の香がする浴槽だが、今は生臭い異臭を放っており冬香は口元を押さえてしまった。


 それが湯船で水没する肉塊が流した血により形成されたものであると、分かりたくない事実を認識させられる。



 そして浴槽に佇む黒く大きな爪を持つ何か。大きさは2メートル程の何かがいる。



 動いており、それが温泉に浸かっていた罪なき人間を肉塊へ変貌させた要因であろう。考えなくても、何が起きて悲鳴があがったのかすぐに理解できた。


 禍々しい化物、口と見られる箇所には血が滴っており、皮膚と思われるものが伺えた。

 そしていくつもある眼球から発せられる視線が冬香を捉えていく。


「嘘だろ……」


「バッ」と音を立てながら食いちぎられた女性の上半身が足元へと投げられ、冬香は反射で退いてしまった。

 

 先程まで客であったものだ。石でできた床が徐々に赤く染まろうと色を広げ、それでも冬香は呆然と立ちすくむしかなかった。


 投げ落とされた衝撃で自身の作務衣にも返り血が付着してしまうのにも気付く。染み付く血痕が黒色に変色し、灰色と同化しようとしていた。


 冬香自身、これはあまりに現実から乖離しすぎた体験で恐怖というものを抱く余裕が無かった。けれど、それが味方する。恐怖で動けなくなるようなことを防ぐことができたからである。


 黒い生物が威嚇するように甲高い音をあげ、浴場が故に凄まじい反響をみせ冬香は咄嗟に耳を抑えた。脳を侵食するような声。ふさいだ耳からもじ込まれるような鋭さを持つ音だ。



 そして血の海が声に合わせ波紋を広げてゆく。形成された波紋に流れるようにして引き抜かれた人の髪の毛が四隅へ追いやられていった。


 さらに奥にそびえる磐梯山が容赦なく木霊を返し、北塩原村全体へと響き渡ってゆく。


 ……まるで、魔境のようだ。


「──っ!!」


 ぴりぴりと自身の肌が声の衝撃で震えるのを感じたが、それでも腰を抜かすことは無かった。声に負けじと茶がかった髪をかきあげ、冬香はひと睨みする。


「ふざけるな……!」


 吐き捨てると、冬香は身をひるがえすように身体の向きを変え、後ろに向かって駆け出していった。


 最後、振り返る間際に目に見えたのは雷光により姿を現した磐梯山であった。




「一体何者なんだ、あいつらは!!」



 その足取りはかなりすくわれるものと思われたが、思ったものより軽く、予想以上に身体が恐怖に怯えず言うことを聞いてくれたのを実感していた。



 この時ばかりは……


 この時ばかりは過去に軍に所属していて良かったと冬香は感じていた。

 自身に疑念・・を抱かせた日本軍。中に入って氷山の一角を知り、関わりたくなくて離れた軍だ。


 少ない時間ではあったが当時培った訓練が錯乱の進行を妨げ、考える猶予を与えてくれていた。通常であればパニックに陥って思考もままならなかったであろう。




 もう二度と使うことは無いと思っていたのだが、まさかこんなところで役に立つとは……


 あいつらも後ろから追いかけるようにこちらへ接近しているのが分かる。狙いは一体……?


 分からない。分からないが、ここで……


 死ぬわけにはいかない。

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