平穏の中で

「昨日も悪かったわね、昨日も遅くまで働かせてしまって。きつかったら遠慮なく休んでもらっても大丈夫だから……」


 部屋の方より聞き慣れた女性の声が聞こえ、零佳は胸元に写真を仕舞いながら後ろへと振り返った。 


冬香ふゆかさん…… お気になさらないでください」


 決して豪華な部屋とは言い難いが質素でびも感じられる和室の中、茶色がかった髪を肩まで伸ばした女性が一人、畳の床にゆっくりと腰掛ける。

 上下灰色の作務衣さむえをラフに着崩し、どことなく気前の良いねえさん肌が感じ取れる雰囲気を持つ女だ。


 名は錠場じょうば 冬香ふゆか…… この宿を切り盛りする零佳よりも3つ程年上の女将である。


「そうかい、ならいいんだけれど…… 身体だけは崩すんじゃないよ。アンタを見ていると少しだけ心配になってくるんだから」


 零佳の働きぶりには本当に驚嘆していた。毎日毎日気を抜くことなく働いており、女将の冬香ですら逆に申し訳ない気分となるほど懸命な勤めっぷりである。


 以前は何かに取りかれたかのように朝から晩まで休むことなく働き続けていた時もあった。それに比べればマシにはなってきたものの……それでも女将である冬香がしっかりと気遣ってあげないと身体を壊してしまいそうな勢いだ。


 だが、そんな冬香の気に掛けに対し零佳はいつも変わらぬにこやかな表情で微笑み返していた。


「大丈夫です。それに、こうして身体を動かしていると気もまぎれてくるので……」


 疲れを見せない零佳には本当に舌を巻くばかりである。見た目はおしとやかな女性であるが、かなりの芯の強さも持っているようだ。

 

「本当に、申し訳ないねいつもいつも。アンタの気が紛れるというのであれば止めはしないけどさ……」



 冬香は労をねぎらいながら急須きゅうすに手を取り暖かい茶を湯呑みに注いだ。そんな姿を見た零佳もベランダから部屋へと戻り、冬香の前で正座をする。


 冬香から湯呑みを受け取り「ありがとうございます」と一言添えた後、そっと湯呑みに口をつけた。


 ほんのり苦い、けれどどこか懐かしさを感じる味であった。忙しい日々にも落ち着きの場を取り戻してくれる効果があり、文字通り心の中が「ほっ」とする気分だ。


 窓から入り込んだ風がそっと冬香の前髪を揺らす。


「アンタ、いつもここにいるね。そんなにここの景色が気に入ったのかい?」


 冬香も窓から外を見据える。いつ見ても変わらない景色だ。それにも関わらず零佳はこの時間ほぼ毎日ここで遠くを眺めているのだ。


 綺麗な景色は分かるけれども、毎日見れば飽きるものではないか? と冬香の中で疑問が浮かんでしまう。


「ええ、ここはいつ見ても心が奪われます。景色だけじゃなく、木々が葉擦れる音、小鳥達の鳴き声… 全てを含めて本当に心がいやされる場所です」

 

 3年前は街中に住んでいたためこんな山奥とは縁がなかったが、自然に囲まれれば色々と教えられることもある。

 過去幾多の戦争があったのにも関わらず、この場所は一切壊されることなく力強く美しい景色を保ってる事実。それだけで彼女に勇気をもたらしてくれるのだ。


 それに、毎日見ても日によってほんの少しだけ景色が異なる。とても些細ささいな違いであるが……


「今となっちゃ、こうした自然も稀少すくなくなってきたけどね…… 寂しいものだけど……」


 『権威戦争』が終わり5年程経つが、未だ被害の跡が見られる場所が多く、このように何一つ傷が残されていない場所は本当に珍しくなってしまった。


 同じ国の人間同士、争うことがなければこのような美しい景色が数多く残されていたはずだったろうに。本当に大自然に比べれば人々の争いなんて小さく、そして醜いものだ。


「ま、今日はそこまで客が多くないから、ゆっくり仕事しな。たまにはこんな日もあっていいだろ?」

「ええ…… お言葉に甘えて一息つかせてもらいます」


 湯呑みを再度口に付け、もう一口味わう。

 ゆったりとした空気が流れており、いつまでもこんな落ち着いた日々が続けばいいのに…… と思うばかりだ。



 零佳がこの宿に来てからもう2年以上の月日が流れた。


 冬香が零佳の顔を見つめながら以前のことを思い出す。世間を騒がした大事件、その妹という事実を初めて聞いた時は冬香自身も流石さすがに驚きを隠せなかった。


 けれど今ではそれを承知の上で受け入れている。当然、他の連中には伏せているが……


 あの事件は……冬香にとっては遠くで起きた都会の出来事だとずっと感じていた。

 国の一大事とはいえ、ここの村には関係のない事件であると、ぼんやりとした空気のようなものとしてそのまま終わるものであると思っていた。

 

 だがそんなある日のこと、ここ北塩原村で逃げて来た零佳の姿を見かけたのだ。

 

 初めて出会った時は身体中に傷を負い、服は泥にまみれていた。こんな美しい女性がここまで汚れる羽目になるなんて余程何かがあるに違いない、そう思い声を掛けたのがはじまりであった。

 

 本人は誤魔化していたが、明らかに住む場所に困っているような様相であった。彼女が何者かは分からなかったが冬香は手を差し伸べた。彼女もまた自分と似た・・・・・曰く付きの人間であるかと…… 直感したからである。


 だが、最初は強く拒絶されてしまった。自分があの売木夏希の妹であるという理由を添えて冬香の助けを受け入れようとはしなかったのだ。

 

 

  

「……冬香さん」


 零佳が湯呑みに手を添えながら顔を上げる。突然名前を呼ばれた冬香は「なんだ、零佳?」と時間差で返事をしながら姿勢を正し、前を見つめた。


わたくしを受け入れて下さり、ありがとうございます。私の事情を知っておきながらも、私に手を差し伸べて頂いて…… 心から感謝しています」


 零佳からの感謝の気持ち。幾度となく聞いたのだろうか……

 これが初めてではない。過去何度も何度も耳にしたことのある零佳のお礼。


 だが、その眼差しはいつも本物だ。惰性で社交辞令を述べている訳では無く、真摯しんしそのものである。


「な、なんだよ急に改まって…… 」


 こんな改めて感謝されるようなガラでも無いからこういったものはどうにも慣れない。冬香は思わず目をそむけてしまった。


「いえ、冬香さんには本当に助けられています。ただ、感謝の気持ちを伝えたかっただけです。こうして私が生きているのも冬香さんのお陰あってこそだと思っておりますし……」


 純粋な感謝だろう。

 感謝の気持ちを忘れないのは素晴らしいことであるが、宿にいる時ぐらいもう少し肩の力を抜いて生きた方が良いのではないだろうかと冬香は感じてしまう。


 けれど、零佳は定期的に「感謝はいつでもできるものじゃない」と言っていたのを思い返す。深くは詮索せんさくしないが、零佳にとっても感謝の意を伝えそびれてしまった出来事があったのだろう。

 

「……いいってことよ、ま、ウチも助かっているからね、零佳の力には」


 どうも零佳と話していると肩が凝ってくるので、冬香は空気を変えようと部屋に備え付けられたブラウン管のテレビをつけた。

 部屋の隅にある小さなブラウン管テレビ。放送は全て国営である為、あまり面白い内容を放送していないが、バックミュージック程度にはなるだろう………冬香にとってほんの軽い気持ちだった。


 



──が、画面がついた瞬間、冬香は息を呑み背筋を硬直させることになる。



『3年前に世界を震撼させた皇女暗殺事件、犯人の売木夏希死刑囚は現在都の収容所に──』


 テレビから無機質な男性の読み上げる声が和室に響き渡った。

 それはあの事件について取り上げた番組であった。3年前に起きた大事件『皇女暗殺事件』についての特集だ。


 それは目の前にいる売木零佳の姉が犯した事件でもあり、零佳が街から北塩原村ここへと逃げる要因となった出来事でもある。

 


「ちっ」 

 

 その内容に気づいた冬香は勢い反射でテレビの電源を切って舌打ちを鳴らす。


 息が荒れていることに気づく。冬香自身も驚いていた。

 あれから時間が経っているのにも関わらず、しつこくも例の暗殺事件の特集が未だにやっているだなんて思いもよらなかったからだ。



──最悪だ……



 冬香は自分のやってしまった誤ちを幾度となく後悔する。少し考えれば分かることであった筈であったのにと……


 しばしの沈黙が流れる。とは言っても2秒ほどであったが、冬香にとってはその2秒がとてつもない長さのように感じてしまった。


 部屋全体が時を止められたような空間となる。目の前に座る零佳も息をしていないかのように表情一つ変えず、動かなかった。


「んだよ……」


 空気にたまらず冬香がやるせない声を発した。何もかもが納得がいかなかった。どうしてこのタイミングで報道されているのか全く意味が分からなかったからだ。


 それでも、たまにこういう事はあるのだ。例の事件が新聞に載っていたり、客の話題になっていたり、皆が見ているテレビで取り上げられたりと…… あれだけ爪痕を残してしまった事件であるが故、目にすることは多々ある。

 本人は気にするなと言っているがそれも無理な話だろう。 


「けっ、もっと他に取り上げることがあるだろうに……」


 口をとがらせて吐き捨てる。この国は過去の事件を何回も取り上げる程平和な国なのか? と皮肉も続けたかった。

 

 別に今日が皇女暗殺事件に関して何か節目となるような月でも日でもない。なにかゆかりがある日でもないのにりずに報道をしていたのだ。皮肉の一つも言いたくもなる。


 あの事件は多くの人が目にしていることだ。だから取り上げれば数字になりやすいのだろう。要するに金目的である。

 純粋に事実を伝える気なんて微塵みじんも無いに決まっている。毎日毎日同じような放送をして利益を得るような……そんな意図が見え透いていた。


 もっとこの国では取り上げるべきことが沢山あるのに。皆に知ってもらわないといけないことが山程あるというのにそれをせずに利得カネに走る。零佳の姉が犯した事件を出汁だしにして骨の髄まで旨味うまみを得る気なのだ。本当に気に入らない。

  



──だから国の報道は信じちゃいないんだ。


 

 冬香は苦虫を噛んだような表情を浮かべる。後悔もあったが腹立しさも混じっていた。いつの間にか手に汗も握られておりそっと作務衣をぬぐう。


 前に座る零佳もどこか俯いたように黙ったまま動かない。どこか虚空こくうを見つめたままで表情が全く読み取れなかった。


 その為、ただただ気まずい空気が広がり続ける。冬香も言葉が見つからず、外でたわむれる小鳥達の声が聞こえてくる程に静かになってしまった。


 普段の零佳であればこういった状況も「大丈夫ですよ、気を遣わないでください」と即座に一言添えて流してくれるのだが、今日の零佳は全く違っていた。


 何か物を思うかのように黙り込んだまま……そっと瞼を閉じる。

 そしてほんの少しした後、意を決したような眼差しを浮かべて冬香のものと合わせた。


「冬香さん。テレビ…… つけてください。わたくしも気になります」


 その口調は依然として穏やかであった。

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