夜道
帰りのバスの中、桜はたった一人で車内の客席に座っていた。最後方から二列ほど前にある窓際の座席である。
膝の上には買い物袋を置き、大事に抱き抱えるようにしながらぼんやりとした時間を過ごしていた。そんな中で、ふと外を眺めると黒の世界のみが視界に入る。
──随分と暗くなってしまったな……
外は既に夜の
車内は小さな電灯があるため
無機質な運転手の案内だけで、自分のいる位置をなんとなく思い浮かべる時間が続いていた。
外から車内へ視線を戻すと、あまりにも物寂しい光景がそこにはある。
客席には桜以外誰もおらず孤独感も強い。その上吊り革も所々ちぎれかけており、合皮で作られた席も、殆ど
採算が取れていないのであろうか…… そんなことが察せられるほどに、ここのバスは人が乗っていたことが無い。空気を運ぶような老朽化したバスである。それでも、北城村付近を通ってくれるだけありがたいものであるが。
ディーゼル車特有の
そこで車体が大きく跳ね上がり、桜は思わず
バスの柔らかなサスペンションも相まって、舗装されていない道に入れば
その為、卵を買った日にはかなり神経を使っていたが…… 今日は卵を買っていなかった為余計な神経を使わなくてもよさそうである。
それでも無事かどうか、抱えていた袋の中身を一度確認する。中には人参、玉ねぎ、
暗くてよく見えないが、中身は特に傷んでいる様子は無さそうである。
あとは零佳がくれた林檎を擦りおろして、肉じゃがの隠し味にでもすれば絆も喜んでくれるであろう。桜は袋の中を守るようにしながら優しく抱え戻した。
そういえばそろそろ絆の誕生日だ。五月二〇日、それが絆の誕生日として
だから、その日はお祝いに何か絆の好きなものを食べさせてあげたいと感じていた。
裕福では無いから、決して
せめて、その日だけでも生きていて良かったと言える日にしたい。姉として何かできる事はないかと
絆の誕生日まで若干日があるものの、あっという間に来てしまうだろう。早いうちに決めておかないと……
そんなことを思う最中、降りる予定であったバス停に到着してしまった。
機械にも似た男性の案内の中、桜は袋を片手にバスを降りる。
降り立てば、桜は直ぐに光一つない暗闇に包まれてしまった。
電灯一つない北城村の暗闇…… 振り返ればそんな闇に飲まれるようにバスが溶け込んでゆくのが見える。
独特なディーゼル音が耳に届かなくなると、訪れるのは静けさのみであった。
地元のバスも二時間に一本と本数も少なく、最終便も早い時間に終わってしまう。それ故買い物もかなり
近くに時計が無くて詳細な時刻は分からないが、今は恐らく6時半頃であろう。こんな暗い時刻でも七時をまわっていないのだ。
そしてここのバス停から三〇分も歩けば家に着く。
自転車でも買っておけばよかったと、ここに着く
乗り慣れていない桜が、小石の散らばる見通しの悪い道を自転車で走れば、怪我をしてしまう可能性も十分あるだろう。
本当、この暗闇を慣れるのには時間を要した。こんな暗い中を三〇分も一人で歩くのだ。
とにかく心細いの一言だ。それに尽きる。
誰もいない、一人の空間が家に着くまで続く為、来た当初はかなり抵抗があった。
北城村は平和で
それを分かった桜ですらもその一歩を踏み出すのに、未だにほんの少し
絆もきっとお腹を空かせているはずだ。早く帰らないと……
それでも絆の顔を思い浮かべれば自然と身体が前に進んだ。絆もこんな暗い夜の中、一人で留守番をしているはずだ。もの寂しく感じているのは、桜だけではない。
丁度バス停を後にしたところであった。
突然に大きな突風が桜を襲った。
数秒に渡り続いた為、桜はその場で立ち止まり、
この時桜は始めて気づいた。空には星が一つもないことを。
いつもなら雲の合間合間に無数の星空が見えていたはずである。そんな北城村の空に今日は星が一つもないのだ。
月光すらも
今日は終日晴れると聞いていたが、どうやら天気は変わってしまったようである。昼間はあんなにいい天気で、曇るとは無縁の空であったのに…… こんな日もあるのかと桜はつい片眉を歪ませてしまった。
おまけに
五月とはいえ、北城村は冬並みの寒さを誇る時がある。今日の風も例に漏れずとても冷たく、氷の
身震いを一つしてしまい、桜は鞄の中に入っていた茶色のコートを取り出して急いで
今朝、絆にも伝えていたようにやはり夜は寒くなってしまった。今日はリスクヘッジのつもりでコートを持ってきたが、まだまだ手放すには時間がかかりそうである。コートのボタンを閉じながら、桜はそう思う。
そしてまたゆっくりと歩き始めれば、一つ、また一つと強風が繰り返された。
木々は轟々と唸りを上げており、異様な雰囲気を醸し出している。
そんな雰囲気に呑まれてしまったのか、桜は身を小さくして早足に切り替えた。空を見ても月光すら漏らさない曇り空。お陰で細い夜道はとても暗く不気味さも増している。のんびりとした朝とは大違いだ。
本当に北城村に辿り着いたのか、間違って別世界についたのではないか…… そんなことすら思ってしまう程に今日の北城村は荒れているような気がした。
ここまで暗くなるのなら、懐中電灯を買っておけばよかったと、桜が歩きながら少し後悔をする。いつもはなんだかんだで何かしらの明かりがあったのだが…… 今日は全くない。
その為、早歩きでも慎重にならないといけない。前が殆ど見えないので、うっかりしていると道のうねりや溝などに足を取られてしまうことだってあるのだから。
ただ、そんな不穏な強い風も少しすれば殆ど無くなっていった。ゆったりとした穏やかな風へと変わり、葉擦れの音のみが桜の孤独感を紛らわせてくれる。
続いて広い道から
そんな中、何故だか桜の口からため息が漏れてしまった。あまりにも心細すぎるからだ。
普段ならただひたすら虫の音や動物の鳴き声といったものが聞こえてくるのだが、今日は本当に何も聞こえない。無の空間である。
五月は特段虫の季節ではないにしても、一言ぐらい鳴いても罪にはならない。むしろ全員が静まり返ってしまうと地震か何か…… そういった悪い予兆ではないかと心配になる程だ。
気のせいであると自分に言い聞かせながらも、桜は俯きながら肩を落とした。
足取りは慎重ながらも、こんな不気味な畦道は早く抜けたいという思いが芽生える。ただ、そんな気持ちの方が勝らないよう自制する。急いで転んでしまっては意味がない。這って帰宅なんて考えたくもないものだ。
ただ、畦道を過ぎたところで次は集落まで至る小道が続いている。いつもと変わらぬ道であるのに、とても長い距離を歩かされているようだ。
小道では木々が
そしてここにきて風が無くなる。訪れるであろう無の空間を唯一妨げていた葉擦れの音がなくなりついに
本当に、何も感じない。何も聞こえない。恐ろしい程の静寂が桜を包み込んだ。
今までに味わったことのない沈黙の間。暗闇に閉鎖された無の空間。
「えっ……」
歩みを止めざるを得なかった。
ただ、前も後ろも道が闇の奥まで伸びており、
自然が作り出した静寂とは到底思えない。暗く静かな…… 少なくとも桜の知るいつもの北城村では無かった。
夜が怖い雰囲気を持つというのは分かる。それでもここまで意識が吸い込まれそうな空間はあまりにも怪奇だ。
そして、あまりの静かさに自分の息遣いが聞こえた。
いや、それどころか耳で脈打つ鼓動すら聞こえてくる。
その鼓動は荒れていた。これは早歩きのせいではない。異様な空間に恐れて心拍数が高まっているのだ。
だから息苦しく感じられた。とても
──何か、変だ……
膨らみ続ける不安感を前に、桜は気を確かにと心で唱える。ここは自分の良く知る場所だ。このまま道を進めば家に辿り着くはず、今遭遇しているのは自然の織りなす一つの奇跡であると……自分を落ち着かせていた。
走り出したい。
そんな気持ちだって抑える。こんな悪路で走るのは、あまりにも危険すぎる。だから…… 一歩一歩確実に歩いて行くしかない。
桜は前を向き、右足を繰り出し歩みを再開した。
深淵へと続くような道に向かえば、直ぐに一軒家の影が見えてきた。
──間違いない、いつもの道だ
桜は大きく
こんな古びた家が自分を確かめる建造物となるなんて思ってもみなかった。あの八方尾根のような変わらない存在と同じである。
人は異様な雰囲気に飲まれると直ぐに不安になり、身近なもので自分を確かめるものだ。一瞬でも異空間に引き込まれてしまったと感じていただけに、その建物が与える安心感も大きかった。
だから……
「うそ…… でしょ」
その
大きかった……
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