売木 絆

 

 

 ダイニングキッチンへ近づけば、女性の鼻歌のようなものが聞こえてきた。随分と機嫌が良いのか曲調はどちらかというと軽快な方である。漂う珈琲コーヒーの香も徐々に強くなり朝のひと時に花を添えていた。


 古びた青色の暖簾のれんを潜ると、鼻歌混じりで調理する少女の後ろ姿が直ぐ目に入る。

 

 狭いダイニングキッチン、給湯器や蛇口など設備は所々サビ付きを見せており一般家庭と比べても、とても綺麗とは言えない様相である。しかしながらこれでもこまめに掃除をしている方だ。この家に来た時はかびだらけでとても使用できるような状態ではなかった。


 そんなキッチンの中で、少女はステンレス製の流し台に向かって玉葱たまねぎを洗っている。水色の長袖シャツとズボン、その上には緑色のエプロンを羽織っておりその手つきはかなり慣れているものと思われた。


「おはよう、お姉ちゃん。今日はあたしが準備するよ」

 

 桜が近づけば音で気配を察知したのか、振り返らずに挨拶だけが飛んできた。先に声をかけようと思っていたがそうもいかなかったようだ。少し戸惑いながらも「おはよう」と返し、桜は傍にある古びた椅子へ腰掛けた。


きずなか…… この時間に起きるなんて珍しいな」


 作業に一旦キリが付いたのか絆と呼ばれた少女がゆっくりとこちらへ振り向いた。


 深い涅色くりいろのショートヘアー。首元まで伸ばしている桜より、更に短く切られボーイッシュな雰囲気すら感じられる髪型だ。そして前髪はやや右上に位置する赤い髪留めによって留められており、その表情がよく分かる。

 

 背は桜よりも低めであるが、バイタリティ溢れた眼差しが彼女の特徴だ。 


 売木うるぎ きずなは桜の妹である。かけがえのない、妹……


 そんな絆が、露わになっている眉を八の字に変化させ、口を尖らせた。


「そうかな?」


 まるで普段は早起きでないようなことを指摘されたかのように感じ、愚痴を溢す子供のようだ。とはいっても本意の不満ではない、姉に見せるちょっとした冗談である。

 絆が朝早く起きることなんて滅多に無く、むしろ姉の桜に起こされてばかりだと言うのは既知の事実だから。けれど、あえて臍を曲げたような素振りを見せているのだろう。


「朝ご飯まで用意してくれるなんてな…… どういう風の吹き回しなんだ?」

「べっつに〜、ただ本当になんとなくってだけかな? 今日は変に目が覚めたこともあるし」


 笑みへと変わる絆の顔。たまには姉を楽させたいという気持ちがあったのだろうか…… 照れ隠しを含んだような声でそんなことを言えば、絆はまたも涅色の髪を揺らしながら、身体の向きを変えて作業に戻る。

 

 桜も手伝いたいという気持ちもあったが、狭いダイニングキッチンであるが故なかなかそうもいかない。それに、朝から絆が張り切って準備をしているんだ、彼女の気持ちも無下には出来ない。

 

 今日は絆の背中を見守ることにしよう。


 そう思いつつ桜は机の上に置いてあったれたての珈琲コーヒーを一口、口に含んだ。これも絆が配慮して淹れてくれたものであろう。

 

 砂糖やミルクなど入れていないからほろ苦い。だが、この苦味は嫌ではなかった。苦味と薫り、そして暖かさにより桜の身体が徐々に目覚めてゆく。



 変に早く目覚めた……か。



 窓から外を眺めると雲一つない蒼天そうてん碧空あおぞらと、そびえ広がる八方尾根がいつもと変わらぬ姿を見せる。

 強かった颪風かぜもいつの間にか落ち着きを見せており、終日快晴の予感すら感じさせていた。


 毎日見ても変わらない八方尾根……その姿に桜は安心感すら覚える程である。



 私もそうだ……



 よどんだ珈琲まで視線を落としながら、声を発さずに桜は呟いた。



 定期的にあの夢を見る。そしてその日は決まって早く目が覚めてしまうのだ。


 今、目の前で調理をしている少女の夢。二人がまだ幼かった頃の夢。

 


 それを見ているのは私だけなのだろうか……。


 珈琲から放たれる湯気が顔に当たり、追い払うようにふっと息を吐いた。



 そうか…… あのから丁度十年か……



 絆と出会ったのも五月の某日。天気も今日みたいなほがらかな日であった。それ故、今日の絆は何かの縁があるのではないかと思えてしまう。

 

 なんとなく……


 絆はそう言っていた。ただなんとなく早く起きてしまったのだと。

 本当にそうなのかは謎である。絆も口に出さないだけで、もしかしたら同じ夢を見ていたのかもしれない……


 絆がガスコンロに火をつけ、片手鍋の中身を菜箸さいばしでかき混ぜ始める。一緒に暮らし始めた時に買った携帯式のガスコンロだ。この家には電気ぐらいしか届いておらず、ガスも自分で調達しなければならない。


 今でこそこうやって元気で明るく振る舞っている絆だが、出会った時は全く反するものであった。心をざし、殆どしゃべることなんてない。毎日何かに怯えているような表情を浮かべ殻に籠った日々をずっと過ごしてきたのだ。


 それでも…… それでもようやく長い年月が絆の心を溶かしていき、なんとか今に至る。桜が毎日絆と触れ合い、支えての今日こんにちの絆となったのだ。


 あの時のことを考えると、色んな出来事があっても笑顔で接してくれるのであれば…… それ以上望むことはない。桜はずっとそう思っていた。


 絆は出会った以前の話をしない。桜と出会うまでに何があったのか、どうして桜の元へ来たのか。出会って十年経った今でも、全くもって分からない状態であった。

 

 忘れているのか…… それとも自ら蓋をしてしまったのか…… もしく話したくないのかもしれない。


 ──それでも私にとっての大切な妹だ。

 

「今日も天気が良さそうだね。お昼には暖かくなるみたいだよ」 


 ふと思い耽けていると絆の声が不意に耳に入った。


 桜は顔を上げて絆まで視線を合わせる。あれだけ小さかった彼女の背中が、ここまで大きくなった。それでも、まだ女性としては小柄な方であるが、あの時に比べれば随分と成長したものだ。


 暖かくなる…… 長かった北城村の冬がようやく終わりを迎えるのだ。

 これから夏に向けて気温が高くなる。そうなれば凍えるような生活とも当面離れることができるだろう。


 そんな夏の訪れをいち早く報告するような絆を前に、桜は安堵のため息をいてしまった。


「そうか、でも夜はまだ冷えるだろうから上着は持って行った方がいいぞ」


 桜の忠告に絆は「わかってるって」と即座に返す。もう子供じゃないんだから、お姉ちゃんに言われなくてもそうするよと。お節介な姉をあしらう様な返事であった。

 

 そうは言っても桜から見れば絆はいつまで経っても心から離れない、親に似た感情を抱いていた。ずっと彼女の姿を隣で見守り続けているのだから……



 北城村に来て三年。幸か不幸か絆の心はここに来てから大きく成長したように感じる。

 もちろん思春期を跨ぐ年齢だからもあるだろうが、それ以上に絆は強くなった。


 突然に訪れた桜と絆の二人暮らし。故も知らぬ北城村という小さな村。初めて来た当初はその日暮らしのような生活がずっと続いていた。街には無かった長い厳寒も訪れた。


 それを乗り越えたからなのかもしれない。絆も自覚をしたのか、本当にしっかりしてきた。

 

 姉として、妹が成長することはとても嬉しいことである。

 


 いつかきっと、私の手から離れ、誰かと結婚し共に生涯を過ごす家族を持つだろう。まだ先の話であるが……

 絆には幸せになってほしい。


 

 絆の鼻歌が止む。集中する作業に入ったのか「むむむ……」っと何やら危なげなことをやっているのが桜の目に入った。熱した液体を扱っているようで、見ていてとても落ち着かない。思わず椅子から腰が浮いてしまう。


 それでも何度か「手伝おうか」と声をかけたが一向に断られてしまった。今日は自分一人でやりたいようだ。


 なんというか…… 姉としてまだまだ見守らないといけない事は多くありそうだ。

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