目覚め



 その日は皐月さつきの頃合いとはいえ、あまりにも冷たい朝であった。


 春を越した時期とは思えない程、寒く透き通った冷風かぜが小さなうなりを上げながら人里離れた村をおそいつけていた。


 大自然と表現をしても過言かごんではない程の木々に囲まれた


 そこから更に僻地へきちおもむいたところに、ポツリと一件の家屋かおくが建っている。両隣はおろか周辺に建物なんて無い。前方接面道路すら舗装ほそうされておらず路肩はこけむしばまれているような日陰にある木造の一軒家。

 

 屋根瓦は数枚がれ落ち、焦茶色の壁も一部めくれ上がっているあたり、築年数は不明だが、かなり古い家屋だと思われる。老朽化が進んでいるそんな家屋に容赦なく皐月の冷風が直撃し、今日こんにちも変わらず小さく震えていた。まるで体温を奪われた人肌のように……


 一軒家の向こう側、彼方先には八方山はっぽうさんと呼ばれる雄大な山が地元の民を見守るようにたたずんでいた。残雪ざんせつ白粉おしろい、四方八方に尾根おねを広げたくましく構える。その霊的な象徴すら感じさせる尾根を、人は『八方尾根』と呼び、時に愛親しみ、時には畏敬の念をいだきながら、代々に渡って共存してきた。


 山の美しさと逞しさを併せ持つその存在は、極寒の颪風おろしかぜを常々ふもとへ吹き下ろし、人々に自然の厳しさを説いている。自然というのは絶対にかなわぬ相手であると……


 そしてここ、長野県内北部にある北城村ほくじょうむらと呼ばれるこの地も、春の期を越したとは到底思えぬ冷たい風が吹きすさび、小鳥達がさえずる隙すら与えなかった。

 


 その風の音のせいか、はたまた夢のせいか…… 家屋の中で身を休めていた少女が一人…… ゆっくりとまぶたを開いた。とても寒い部屋であり、目を開けたと同時に、思わず布団の中で丸くなってしまった。


 

 上下黒を基調とした長袖のジャージ姿。年頃としごろの女性が着飾るには随分と質素な格好だが、寝るだけなら十分な格好であろう。包まれた羽毛の布団と共に、春でも寒い北城村の気候を凌いでくれる。

 

 そんな彼女は小さな声ともとらえられない声を発し、首元あたりで切り揃えた黒髪を揺らしながらゆっくりと身を起こした。


 売木うるぎ さくらは四月で一七になったばかりである。桜は目を擦りながらもぼやけた視界でなんとか窓越しの景色にピントを合わせ、風に揺られ流される朝靄あさもやをじっと見つめた。

 

 起床まもない為、脳内は完全に覚醒していない状態である。だがそれでも、起きてすぐある違和感に気が付いた。自身の息が荒れていることを……

 胸に手を当てると鼓動が早くなっているのも実感する。とくり、とくりといつもより速く脈打つ鼓動。

 そんな自分を落ち着かせようと、桜は細く、長く息をいた。


 何度目だろうか。あのを見るのは……


 大きく息を吸い込む。胸一杯に新鮮な空気が広がるのを感じていた。それでも鼓動はすぐには落ち着かない。


 近頃見る頻度は少ないとはいえ、それでも過去何度も何度も同じような夢を見てきた。

 

 桜が絆と出会った日のことである。当時は桜も七歳であり、かすかにしか思い出せない記憶のはずであった。

 しかしながら、ある日突然に前触れもなくその夢は現れる。夢を通して伝えたいことがあるのか、或いは何かの前兆なのかは全く分からない。けれど夢で見る場面はいつも同じである。


 ある男から絆を預かったあの日。夢で見るのは幼かった頃の『絆』そして、男の声だ。

 ただ一言だけなのにはっきりと記憶している。暖かみのある声。会ったことの無いのに、それでも何故だか懐かしさすら感じさせるようなおだやかな声だ。


 そして最後には必ず『絆を頼んだぞ』と伝えられる。



 絆を……



 再びうつけ始める頭。だが、あれから十年も経た今になって、夢の意味を理解しようとしても無駄な話である。桜はそう無理矢理自分の中で解釈をし、壁に掛けられた時計へと視線を合わせた。


 畳に敷かれた質素な一室である。木材の机と、服を掛ける横長のハンガーラック。それ以外の家具は置いていない。一七の女性が暮らすのにはいささかシンプルすぎるのではないかと感じられる程に何もない部屋だ。


 時刻は六時三〇分を指していた。起床には丁度いい時間帯だ。


 床に敷かれた布団から立ち上がると、直様すぐさま隙間風が顔に直撃あたった。冬に比べれば大したことはないが、それでも慣れない冷たい風を受け、桜は少しばかり身震いをしてしまう。


 布団を仕舞い、部屋を出る。先程の畳とは打って変わって階段は木材のフローリングでつくられていた。五月の初旬とはいえフローリングの床はとても冷たく、裸足はだしであった桜の顔を若干こわばらせた。


 一歩一歩ゆっくりと踏みしめればがたぴし・・・・と…… 今にも床が抜けそうな落ち着かない音が り始める。

 階段も大変な急勾配であり、おまけに一段一段の面積がとても小さい。踏み外したら怪我も免れない為、桜は慎重に1階まで降りてゆく。


 とても古い木造屋である為異音が発せられるのも仕方のない現象なのかも知れないが、冬の日は凍えるように寒く、夏の日は部屋に居られない程の猛暑になるのだけは桜の頭を悩ませていた。


 とはいえ…… 文句なんて言っていられない。せっかく住まわせてくれているのだ。桜は贅沢を言える立場では無く、逆にこの家屋に住めることすら幸運と享受きょうじゅしていた。


 今日なんてまだいい方だ。冬の日は文字通りゆかが凍る。そんな日に比べれば春を過ぎた頃合いまなんて桜はなんとも苦痛に思わなかった。


 階段を降りればすぐ横に風呂場があり、起床後すぐに風呂場の敷居をまたぐのが朝のルーティンであった。


 風呂場と洗面所は一部屋ひとへやにまとめられている。鏡と一体となっている洗面台、その蛇口じゃぐちを桜はゆっくりと力を込めた。


 この家屋の洗面台から温かい水なんてものは出ない。欲しいのであれば台所まで行って水を沸かすか、外まで行ってたきぎから風呂をくかの一方どちらかでしか無いのだ。だからこの水の温度がどれくらいか、わざわざ手にしなくても分かってしまう。

 

 勢いよく流れる冷水を前に桜はほんの少しだけ眉を寄せてしまった。お湯が出ないは本当に不便だと都度都度実感する時間がこのころである。三年もこの家に住んでいるが、こればかりは慣れることはなかった。


 浴びるのには少しだけ覚悟を要するが、ほんの暫くした後、桜は両手に水を貯めはじめた。

 

 刺すような冷感が顔一面に広がる。それでも何度も何度も目が覚めるまで冷水を顔に打ち付けていた。


「はぁ……」


 タオルを手に取り水滴を帯びた顔を優しく拭うと思わず息が漏れてしまう。

 だが、ぼやけた視界がはっきりと映し出されていることから眠気は十分覚めたようだ。


「……っ!」


 ふと目の前にある鏡に映った自分が視界に入り顔を歪ませてしまった。相当疲れた顔をしているのか、そんな自分に嫌気が刺してしまった為である。



 ……やつれているな。


 本当に、参っているのか…… 私は……


 

 精気の無い顔。無意識の中でストレスを抱えてしまっているのか自然と作られた桜の顔色はいつにもまして曇っていた。

 

 だがそれではダメだと自分をさとし、桜は鏡に顔を近づけて目がうつろんでいないか確かめる。


 漆黒のつややかな髪、くっきりとした眉立ちに正義感の宿ったような瞳…… 目元の彫りは人より若干深く、強い目線も相まって人によっては「睨まれると怖い」と言われる事が多い。


 しかしながら、そんな目つきに合わせるかようにすらりとした鼻に口元と続いており全体を見れば均整の取れている美しい顔立ちだ。


 よく人から美人だ、美貌びぼうに恵まれていると言われていたものだ。


 けれど、今となってはそんな美貌も桜にとって忌み嫌いたくなる・・・・・・・・ような存在となっていた。


 似ている……


 鏡を見つめながらほんの少しだけ顔を動かす。視線をゆっくりと顔の右から左へ、上から下へと流し鏡に映し出された自分の顔を舐めるように見つめた。

 

 自分でも自覚してしまう。本当に似ている・・・・と。


 最初は目元だけであった。だが、桜が成長するにつれ顔全体へと行き渡る。小さい頃から似ている似ていると言われていたが、遂にここまで似るとは……


 不気味な程に酷似している。あの人物・・に……

 

 まるで自分の顔ではないような、そんな気持ちになり桜は一瞬だけタオルで顔を覆った。


 似ていたくない、似たくない。なのに、どうして……


 遺伝・・に文句を言っても仕方のないことだとは承知している。けれど己にさいなまれる理不尽に対して桜は無力さを感じていた。


 だからせめて雰囲気だけでも変えようと桜は髪を短く仕上げた。あのみたいな長い黒髪でなく、肩までに落ち着かせたショートヘア。遺伝にあらがうように、桜が見せたわずかな抵抗であった。

 それでも隠しきれていない血筋に桜はどうにもやりきれない気分になる。



 私は私だ……



 うつむけば何かに気づいたように顔を上げて鏡を通し桜は血色を伺う。

 

 再度映し出される桜の顔。表情は何も形成されず無である。自分自身ですら仏頂面ぶっちょうずらではないかと懸念してしまう程…… ここ最近表情に乏しい。


 口角を上げれば、愛想笑いにもならない程見せられない顔だ。近いうちに笑ったことなんてあったのだろうか。表情を豊かにしていないとそれこそ更に似てしまうというのに……


 いや、何より暗い顔は出来ない。彼女・・の前で情けない顔を作るわけにはいかない。


 桜は一呼吸置き、くちびるに力を込め神妙しんみょうな表情へと移りかわった。目つきがいかめしくなるのは分かっていたが、それでも自信の無い、曇った顔よりまだこちらの方がましだ。 


 私は…… 彼女の前でどう映っているのだろうか……?

 

 自問する。上部だけでも頼れる姉であってほしい。彼女を不安にさせたくない。そういった気持ちが先走り、小さな不安ばかりが積もりに積もる。


 東京まちから離れた北城村。厳寒が訪れるこの村でもなんとか二人で過ごせているのは他でもない彼女…… 『きずな』の存在があるからだ。


 向こうのダイニングキッチンから物音が聞こえる。ほんのりとただよ珈琲コーヒーの香りも添えられており、その香りの影響か不安はほんの少しだけ払拭されるような気がした。


 絆だ……

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