第2話 吉良邸の前での出来事

 しかし、あれから何の事件も起こることなく、一年の歳月が流れた。

 佐吉や忠吉、さらには町人達の期待とは裏腹に、赤穂の浪人達は沈黙を保ったままであった。

 そして生類の憐みの令の条文はさらに厳しく改訂され、お犬様はさらに我が物で江戸の町を闊歩するようになってきた。町人達の苛立ちは、ここにきて最高潮に達しようとしていた。もちろん、佐吉も例外ではない。


「なんでえ! 赤穂の浪人達ってのは、武士のくせして忠義も覚悟も持ち合わせちゃいねえ、玉無し野郎の集まりだったってわけかい!!」


 夜の居酒屋で大声で悪態をつく佐吉に、主人は慌てて駆け寄り、


「おいおい、さきっつぁん。悪い酒だよ。今日のところはその辺にしちゃあどうだい?」

「何が悪い酒だぁ? 俺ぁてめえら江戸の町人共が思っていることを口にしてやってるだけじゃねえかい!! 感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはねえぜ!!」

「そっ、それが悪い酒だって言ってるのさ。ともかく、今日はこれで帰ってくんなよ」


 そうして佐吉は居酒屋から、ほうきで掃きだされるようにして追い立てられた。


「けっ!! なんでえ!! どいつもこいつも玉無し野郎だぜ!!」


 店を出てからも、散々の悪態をついて、佐吉はしっぽりと夜のとばりのおりた江戸の町を歩き始めた。

 このまま黙って家路につくのも癪だと、ぶらぶら江戸の町を歩いていると、未だに心の隅で何か起こっちゃくれねえかと期待しているのか、佐吉はいつのまにか件の吉良上野介の屋敷のすぐ近くまで来ていた。


「ちっ! 忌々しい屋敷だぜ」


 別に屋敷に罪はないのだが、何かに八つ当たりでもしないとやり切れない。かといって八つ当たりしたくらいじゃあ、溜まり溜まった苛立ちは消えてくれない。

 ええい、クソッタレが!! と苛立ちを持て余しながら屋敷から離れようとしたとき、屋敷の近くの路地になにやら淡い光が見えた。


「うぅん?」


 なんだありゃあ? と近寄ってみると、その淡い光は、昨今とんと見かけなくなった夜鷹そばの提灯の明かりであった。


「このまま帰るのもなんだ。ちょいとそばでも食って、そのアテにもう一杯ひっかけていくとするかい」


 佐吉は懐から金子を取り出して、その残高を確認した。うむ、これならそばを食って酒を飲んだとしても少しの釣りがくるであろう。佐吉はすぐさま夜鷹そばへと近寄り、主人に向かって、


「おう。すまねえが、そばと酒を一杯くれや」


 と言いつつ、どっかりと屋台の席についた。すると蕎麦屋の主人、なぜか驚いたような素振りをみせつつ、


「へ~~い」


 と、愛想もクソもない声で佐吉の注文に答えた。

 なんでえ、愛想のねえやろうだな。と佐吉は思ったが、いやいや、愛想のねえ野郎だからこそ、あっしはそばの味だけで勝負してるんでさぁ、という職人気質かもしれねえ。とすりゃあ、こいつぁ美味いそばにありつけるかもしれねえな、とすぐさま思い直して、主人のそば作りを見守りはじめた。




 しかし、この主人のそば作りの下手さ加減といったら、もうどうしようもないほどであった。

 夜鷹そばをやってるくせに、そもそも蕎麦ゆでの釜に火をつけていない。佐吉の注文に慌てて火打石を取り出したが、またその火のつけかたがなんとも危なっかしい。どうにか火をつけたのはいいが、沸騰もしていないのにそばを入れようとして、佐吉から制止されてしまう始末。この主人、とても夜鷹そばとは思えないほど、明らかに手馴れていない。

 こりゃあ、そばには期待できねえなと察し、このまま帰っちまうか? とも考えたが、せめて酒だけでも飲んでいこうと思いなおし、


「すまねえが、先に酒を一杯くれねえかい?」


 と、主人に言う。主人、「へっ、へ~い」と、いささか狼狽した口ぶりでそれに答え、徳利とおちょこを佐吉の前に置いた。

 はぁ、と深いため息を吐き、佐吉は徳利からおちょこに酒をそそぎ、ぐいっと一飲みに酒を飲み干した。

 美味い。そばの味は期待できそうにないが、予想外の酒の美味さに佐吉は気分を取り直し、あらためて主人を注視する。

 そば屋の主人とは思えない、実に武骨な顔立ちである。

 それに、そば作りの動作はよくないが、足の配りなどの所作事は実に堂に入っているように見える。

 さらに、体つきもそば屋の主人にしては、気骨あふれんばかりに鍛え上げられていることが、着物の上から見て取れるほどだ。


 どうにも、変な野郎だなぁ? と感じたところで、もう一つ、佐吉は腑に落ちないことがあることに気がついた。

 それは、この主人が夜鷹そばをやっている場所である。

 ここら辺一帯は、吉良上野介の屋敷を筆頭に、他にも大小の様々な武家の屋敷が立ち並んでいる。すなわち、夜中にわざわざそばを食べにくる客など、てんであてに出来そうにもない場所なのだ。どう考えても、こんなところでは商売の実入りなんぞ期待できそうにない。

 こいつぁ変だ。この野郎、どう考えても、まっとうな商い人じゃねえ。

 そこで佐吉は、ここでひとつ、カマをかけてみようと思い、主人に愛想よく話しかけ始めた。


「なぁ、大将。おめぇさん、なんでまたそば屋なんざ始めてみる気になったんだい?」


 まさかそのようなことを訊ねられるとは思いもよらなかったのか、


「へ、へぇ?」


 と、そば屋の主人、カエルの屁のような間抜けな声。そんな主人に畳みかけるように、佐吉は、


「いや、な。おめぇさんの体格、どう見てもそば屋の主人のそれじゃねえぜ? それにそのそば作りの手つき、おっかさんの炊き出しの手伝いを始めたばかりの小娘のほうがよっぽどマシってやつだ。そして、こんな商売が成り立ちそうもねえ場所で、夜鷹そばなんざやろうと思いついたのか、誰だって聞いてみたくならぁな」


 佐吉の問いに、主人はただただ狼狽するばかり。そんな主人の様子から、佐吉はこの主人が町人ではないということを確信した。

 となれば、次に佐吉が知りたいのは、この怪しげなそば屋の主人の素性である。これについては、先ほどから主人の所作事を見ていて薄々察してはいたが、そんな己の予感を確信に変えるべく、佐吉はもう一度カマをかけてみることにした。


「きわめつけは、その身のこなし。そんじょそこらのトーシロは見抜けないでも、この佐吉さんからすりゃあ、先刻承知の助のお見通しってなもんでさぁ。おめぇさん――いや、旦那ぁ、武家のお方じゃあございやせんかい?」

「ごっ! 御冗談を!! せっしゃ――あ、あぁ、いや! あっしは見ての通りのそば屋の主人でございます!」


 そば屋の主人は、火にかけた釜をひっくり返しそうなほどに飛び上がって佐吉の言葉を否定した。いやはや、なんともわかりやすいものである。

 ここに来て、佐吉の頭を電光のような閃きが走った。

 吉良上野介の屋敷。身分を隠してそば屋をする武家の者。今の今までくすぶっている赤穂の浪人達。

 さては――――。佐吉は思い切って主人に訊ねた。


「旦那。こいつはここだけの話でござんす――旦那ぁ、ひょっとして、赤穂のお方じゃありやせんかい?」


 佐吉の問いかけに、主人は沈黙をもって答えとした。図星のようである。しばらくの沈黙のあと、主人、


「……であれば、どうする?」


 と、声を潜めて、されど聞くだけで心が震えるほどの迫力をもって佐吉に問い返す。普通の町人ならば、ここでブルってしまって言葉が続かないというものだが、そこは遊び人の心意気。臆することなく、佐吉は主人に向かって、


「別にどうもしやあしません。いうなれば、一介の遊び人の好奇心ってやつでさぁ」

「…………」


 またしても流れる沈黙。くつくつと釜の中の湯が煮えたぎる音が聞こえる中、主人は主人で、佐吉は佐吉でこれからどうすべきかを思案していた。

 主人からすれば、秘密を嗅ぎつけた佐吉を生かしておくのは危険な話。されど、この場で佐吉を斬ってしまえば、今後の己の行動に差支えがあるのは明白である。さて、どうするべきか。斬るか? 懐柔か? 主人は己らの志を貫くための難しい決断について思案していた。

 佐吉からすれば、一度は見限った赤穂の浪人どもの心意気が、実は長い歳月をもって志をなしとげんとする、まっこと見事な男の心意気であったことを知ることができた。そんな男たちに、なんとか手を貸すことはできねえかと思う反面、生まれもっての遊び人気質の性か、赤穂の浪人どもが今後起こすであろう、お祭り騒ぎになんとか便乗できねえものかと思案していたのである。

 口火を切ったのは、佐吉であった。


「旦那。旦那方、赤穂浪士の心意気、この佐吉、下郎ながら心より感服いたしやす」

「……何が言いたい?」

「またまた、旦那も人がわるい。赤穂浪士である旦那が、このようなところで御身分をお隠しになっての夜鷹そば――伊達や酔狂でそのような戯言をなされておられるわけではありますまい」


 ここまで見透かされては、もはや隠すのは恥辱であると考えたか。そば屋の主人――赤穂の浪士は開き直ったかのような口ぶりで、


「たしかに、お主の申す通り。されど、それを知られたからには、せっしゃはお主を斬らねばならぬ。その道理も、賢しいお主ならわかるであろう?」

「へえ。重々承知しておりやす。ですが、旦那。そいつぁ、この下郎が、旦那方の企ての妨害をするという前提での道理でございやしょう?」

「重ね重ね、お主の申す通り。ゆえに、お主はここで何も聞いてはいない、何も見てはいないと申すなら、せっしゃも考えぬことはない。どうか?」


 赤穂の浪士の提案に、佐吉はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。それを見咎めた赤穂の浪士、やはりこの者、ここで斬って捨てるべきかと、釜のそばに隠しておいた刀に手をかけようとしたが、佐吉の言葉がそれを制止した。


「御待ちなせえ、旦那。ここでこの下郎を斬って捨てるは簡単なれど、その斬って捨てようとする下郎が、実は旦那方の志に対する一番理解者であり、功労者にもなりうる男だとすりゃあ、切って捨てちまうのは、至極もったいのねえことだと思いやせんかい?」

「なんだと?」

「ですから、手をお貸しいたしやしょうと、この下郎はそう申しておりやす。いかがでござんすか?」

「手を貸すだと? 町人風情が、何ができると申すか? そもそもお主、せっしゃらが何を企てているのか、承知していてそのような軽口をたたいているのか?」


 ここで佐吉、腕をまくって大見得きり。


「旦那、見くびってもらっちゃあ、困りやす。武士であろうが町人であろうが商人であろうが、果ては乞食であろうが、男に生まれたからにゃあ、男にはぜってえゆずれねえ、男の意地ってもんがございやさぁ。旦那方の意地は、言わずともわかりやす。主君が味わった不条理な恥辱を己らの手で晴らしてくれんと、長い長い屈辱の日々に耐えながら、いずれは必ずやにっくき吉良上野介を討ち果たさんと誓いあった男の意地。この佐吉――まっこと、頭の下がる思いでございやす……」


 深々と首を垂れる佐吉に、どう声をかけたものかと赤穂の浪士が考えあぐねていると、佐吉、がばっ! と頭を上げて赤穂の浪士にたたみかける。


「一週間。一週間の時間をくだせえ。この佐吉、必ずや旦那方の心意気に応えてみせやすぜ。どうか、どうか。今はこの佐吉に一週間のお時間を――!」

「こっ、声を落とせ!」

「いいや! 旦那がこの佐吉にお時間をくだされなければ、この佐吉、今すぐこの足で吉良様のお屋敷の前で、貴方様を亡き者にせんとする企てあり、と騒ぎ立てやす! さあ! どうか下知を! さあ! さあ!」


 このまま佐吉に大騒ぎをされてしまえば、一年の歳月をかけた企てがご破算になってしまう、ここはいたしかたない。赤穂の浪士、いきりたつ佐吉をなだめすかす口ぶりで、


「わ、わかった。わかった。承知した。お主を信用しよう。それで、一週間の時間をもって、お主は何をしようというのだ?」

「旦那方の企てが、山から清水がくだってくるかの如く、よどみのない、完璧な企てになるように、してみせやす」


 なんとも抽象的な言葉である。赤穂の浪士は首をかしげながら、いぶかしげに佐吉に言う。


「そのようなことが、一介の町人であるお主にできると思っているのか?」


 佐吉、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、


「町人だからこそ、できることもあるのでござんすよ、旦那。まあ、見ていてくだせえ。では、一週間後の同じ刻限に、ここでまた……」


 そう言って、面食らっている赤穂の浪士を尻目に、佐吉はさっさとその場を後にした。

 家に帰った佐吉、さあて、明日から大忙しになりやがるぞと、すぐに布団に飛び込んで、グーグーと大きな高いびき。その寝顔は実に満足そうなものであった。

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