第35話 ハバキ目覚める
願いの盃を確認するという日課は変わらない。だがその結果を見る感情は変わったように、珠は感じていた。
(なにがどう変わったのかは、自分でもよくわからないけど)
朝食を食べ終え、珠は昨日上った舞台の掃除をしている。すっかり晴れた昼前でも、大きな屋根のおかげで薄暗く、風通しも良かった。意外と落ち着く場所かもしれない。
今は箒掛けをしているので、近くにハバキがいる。
「お二人が仲直りできてよかったです。ウジウジしてるハシルヒメさまはかわいかったですが、意を決して立ち上がったハシルヒメさまはカッコよくて、ぜひ珠さまにも見てもらいたかったです」
ハバキが手を組んで、好きな漫画でも語るかのように昨日のことを話している。
珠は苦笑いを浮かべた。
「あんまり言うとハシルヒメに怒られるよ」
「大丈夫です。ハシルヒメさまは優しい方ですし、昨日の姿も珠さまに見てもらいたかったと思っているはずです」
「そんなわけあるか!」
明るい声とともに白い布が飛んできて、ハバキの頭にのっかった。はしごのかかっている舞台の裏側に目を向けると、下から伸びてきた手が手桶を置くところだった。
珠が駆け寄ると、はしごに足をかけるハシルヒメの姿が見えた。
「珠ちん。ハバキの言ってたことは忘れるように。あと、それ椿油」
「あ、うん。ありがとう」
珠は黄色い液体の入った手桶を舞台の内側に少しだけ移動させ、手を伸ばしてハシルヒメを引っ張り上げた。
ハシルヒメは舞台に上がると簡単に礼を言い、懐から白い布を取り出して珠へと渡した。
「ゴミを軽く掃いたら軽く乾拭きして、その後に油を布で塗り込んでいくの。これ油用の布ね。乾拭き用の布は……」
ハシルヒメの視線に誘われ、珠が見た先にいたハバキは、先ほど投げ込まれた白い手ぬぐいを握りしめて、恍惚な顔で二人を眺めていた。
「なんでしょう。お二人が並んでいるのを見ているだけで、胸が熱くなって倒れそうです」
「え? ハバキ? 大丈夫?」
珠が駆け寄ろうとすると、ハバキは手を前に突き出してそれを制止した。
「いえ、お気になさらずに。ハバキはただの箒です。お二人が見えるところにそっと立てかけて置いてもらえれば、それだけで幸せなのです」
「いや、ついこの間まで使ってもらえないと泣き出しそうな顔してたし……」
珠が中途半端な距離で立ち止まっていると、ハシルヒメが肩に手を置いた。
「まぁまぁ珠ちん。そんだけ心配かけたってことでしょ。珠ちんが出ていったとき、ハバキはずっと出ていった方を見てたし、自分じゃ移動できないくせに『珠さまと話してきます』とか言ったりしてたんだから」
「ああ! ハバキのことはいいんです! 珠さまが出ていって、すぐに頭を抱えたハシルヒメさまの愛らしさを――」
ハシルヒメがものすごい勢いで駆け寄って、両手でハバキの口を塞いだ。
「そういうのいいから! ね? ね!」
暴れて振り払おうとするハバキを、ハシルヒメは全力で抑え込んでいた。
「ふっ……!」
その様子を見ていた珠は、思わず噴き出した。それが聞こえたのか、ハバキとハシルヒメは珠に視線を向け、少しおとなしくなった。
珠は手を顔の前で合わせる。
「ごめんごめん。ハシルヒメとハバキも仲良くなったみたいで、ちょっとうれしくて」
「ん? 別にわたしとハバキはケンカとかしてなかったけど?」
首をかしげるハシルヒメの言葉に、ハバキもうなずいた。
珠は首を横に振る。
「そうじゃなくて、なんか距離縮まったように見えたの。仲悪かったわけじゃないと思うけど、今思えば少し距離があったような気がして」
ハバキとハシルヒメは顔を見合わせた。そして珠へと視線を戻す。
「いや、わからん」
ハシルヒメの言葉に同意するように、ハバキもまたうなずいた。
珠も同じようにうなずく。
「うん。それでいいのかも。ハバキがわたしたちを見てるだけで満足って言ってたのが少しわかった気がする」
「ダ、ダメです!」
ハバキがハシルヒメの手を振り払って、珠のもとへと駆け寄り手を掴んだ。
「珠さまは観測者ではありません。さあ、こちらに」
ハバキは珠をハシルヒメの方へと引っ張っていき、横に並べた。そして自分は一歩離れる。
「どうぞ! 続けてください!」
珠とハシルヒメは顔を見合わせた。
「続けるといっても……」
珠が苦笑いをし、ハシルヒメも真似をするように、少し照れ臭そうに苦笑いした。
「わたしは椿油持ってきただけだし。あ、そうだ」
ハシルヒメはハバキへと近寄り、手を出した。
「手ぬぐい返して。珠ちんが掃除するのに使うんだ」
「投げたのはハシルヒメじゃん」
珠がちゃちゃを入れると、一瞬だけハシルヒメはそちらに目を向けた。その隙にハバキは手ぬぐいをハシルヒメの手に置く。
そしてまた一歩距離を取った。
ハシルヒメはハバキへと視線を戻して、眉をひそめる。
「別に、そんなに気を遣わなくても、もう大丈夫なのに。まぁいいか」
ハシルヒメはそれ以上追求せずに、珠に手ぬぐいを渡した。
「じゃあよろしくね。もし足りなかったら、椿油はまだあるから」
「椿油って高いんじゃないの? ハシルヒメが用意してるのってなんか意外」
珠は置きっぱなしになっていた手桶を拾った。のぞいてみると、人差し指くらいの深さまで椿油が入っている。
ハシルヒメも並んで手桶の中をみた。
「そう? わたし沿い――参道沿いにね。椿が並べて植えられてるところがあるんだ。毎年、そこから種をもらって絞ってんの。買ったことないから、高いのかどうかはわかんないや」
「わたしも買ったことないから詳しくはわからないけど、この量だったら数千円とかしそう」
「す、数千……!?」
ハシルヒメは珠から手桶をひったくった。
「もったいない! ん……でも油塗らないと木が腐っちゃうし……料理にも椿油を使っちゃってるから、それを減らして……いや……」
ハシルヒメが大事そうに手桶を抱えて覗き込み、一人で葛藤し始めた。
珠はため息をついた。
「タダで絞ってるんなら、そんな気にしなくてもいいんじゃない? それとも、米のとぎ汁とか塗ってみる? なんか床の艶出しとかに使えるって聞いたことあるけど」
ハシルヒメは手桶を覗き込んだまま首を横に振った。
「あれはダメ。わたしも噂に聞いて試したことあるけど、ここみたいな外で使うと虫が湧いたり、動物が舐めに来たりで大変なことになるんだ」
過去の大惨事を思いだしたのか、ハシルヒメはゆっくりと手桶を珠の方へと差し出した。手は小刻みに震えている。
「背に腹は代えられない! 珠ちん! 一思いに頼む!」
「はいはい」
珠はためらうことなく受け取った。
「せっかく綺麗にするんだから、お祭りでも使いたいよね。そうしたら椿油を使った甲斐もあるだろうし」
「た、たしかに。もしかしたら椿油の元が取れるかも!」
ハシルヒメは右手で小さくガッツポーズを取った。だがすぐに首をかしげる。
「え? でも何する? 珠ちん神楽舞えるん?」
「舞えるわけないでしょ。ハシルヒメが歌えば? 神さまなんだし」
「『神さまなんだし』って、理由になってないかんね。なんもできないなら、マラソンの表彰台とかかな」
「あ……それなんだけど」
珠は口ごもった。ハシルヒメが「うん?」と珠の顔を覗き込んできたので、覚悟を決めた。
「マラソン祭やめようかなって思ってる」
「え? なんで? わたしがワガママ言ったから?」
珠は首を横に振ったあと、苦笑いを浮かべた。
「いや、完全に違うとは言えないかも。確かに距離がわからなかったり、水を配ったりするのが嫌なら、マラソン祭はできないかなって思ったっていうのもある。でも大事なのはここから」
思わずうつむいた珠が上目遣いで様子を見ると、ハシルヒメは笑顔でうなずいた。
「続けて」
「うん。昨日、ハシルヒメのことを考えてたって言ったでしょ? それで思ったの。ハシルヒメって料理が得意だから、それを皆に食べてもらえたらいいなって。でも配るっていうのはハシルヒメは嫌だろうから、それ以外の方法を考えたの」
珠は深呼吸して、息を整えた。
「お茶屋さんをやってみない? ハシルヒメの料理を食べてもらえるし、お金にもなる。マラソン中にお茶屋さんで休憩する人はいないだろうから、マラソン以外のお祭りを考えないといけないけど、どう?」
ハシルヒメはあごに手を当て、考え込むようにした。
「うん……面白そうかも」
珠とハシルヒメ。二つの笑顔が咲くのを、笑顔で眺めるハバキの姿があった。
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