第32話 雨の日の攻防
ここに来てから雨の朝は初めてだった。窓のない本殿の中はいつもと変わらない。願いの盃が水で満ちていても、溢れる気配がないのもいつも通りだ。
「これ外に持っていったら、雨水溜まって零れたりしない?」
「不正ダメ! 絶対!」
ハシルヒメが珠と盃の間に入って、手で大きくバッテンを作った。
「冗談だよ」
珠は背を向けて、扉に向かって一歩踏み出した。それと同時に、背後のハシルヒメから力が抜けたのを気配で感じる。
珠は床を蹴り、足を振り上げた。強い浮遊感と同時に視界が回り、ハシルヒメのつむじが見える。
「へ?」
見上げたハシルヒメと目が合った。珠は手を伸ばしてハシルヒメの肩に手を置く。
逆立ち状態になった珠は勢いそのままにバク転の要領で回転し、願いの盃の置かれた台の奥へと着地した。
飛び越えるときになるべく体重はかけないようにしたのだが、ハシルヒメは尻餅をつく。
珠は願いの盃を持ち上げた。ひっくり返しても零れないのはわかっているのだが、なんとなく水平を保ってしまう。
「冗談だったけど、そんなに止めるんだったら試したくなるよ」
「なぬ!」
ハシルヒメが振り向いてから、転びそうになりながら立ち上がる。
「だましたな! させるかぁ!」
ハシルヒメが机を回り込み、両腕を開いて突進してきた。だが素人に簡単捕まる珠ではない。珠は盃を軸に体をひるがえし、それを避けた。
「思ったよりなまってなくてよかった」
ヘッドスライディングするように床に倒れるハシルヒメを尻目に、珠は本殿の出口となる扉の方向へと足を進めた。
「あれ?」
扉のあったはずのところが、木の壁になっている。珠は周囲を見回したが扉は見つからず、一面壁になっていた。
「油断したね。珠ちん」
倒れたままになっていたハシルヒメがゆっくりと立ち上がった。
「ここはわたしの神域。閉じ込めるなんて他愛もないんだよ!」
ハシルヒメは大きな声で笑った。珠は盃を床に置いて、低く身構える。
「じゃあ戦うしかない」
「な、なるほど……?」
ハシルヒメもファイティングポーズをとったが、腰が引けている。珠が一歩前に出ると、まだ距離があるにも関わらずじりじりと後ろに下がっていく。
それでもハシルヒメの口は止まらなかった。
「い、いいのかな? 願いの盃はわたしの願いが叶えば満ちていくんだよ? そんな反抗的な態度をとったら、逆に減っていっちゃうかもしれないよ?」
「減る……?」
珠は思わず願いの盃に目を向けた。願いの盃は満ちていくもので、減るかもしれないなどと思ったことはなかったのだ。
願いの盃は相変わらず表面張力いっぱいに水を湛えており、今にも零れそうな状態だ。減っているようには見えない。
「いや、これは……」
ほんのり違和感を覚え、珠は床に這うようにして盃を凝視した。
「増えてる?」
「へ!? そんなバカな!」
ドタドタと足音を立てながらハシルヒメが駆け寄ってきて、並んで寝そべった。その振動で水面が揺れる。
「おとなしくして」
珠が背中に手を置くと、ハシルヒメは息を殺すトカゲのように静かになった。そのまま二人で揺れる水面を見つめる。
普段なら一瞬にも思えるはずの時間が、とても長く息苦しいものに感じた。
すぐ近くのハシルヒメの呼吸に何かしらの感想を抱きそうになる寸前で、水面の揺れは収まった。
相変わらず表面張力で水面で膨らんだままだったが、写真などはないので以前より増えているのかはわからない。
(気のせいだったかも)
そう言おうと思ってハシルヒメの背中をさすると、水面の中央が水一滴分だけ膨らんだ。
「「あっ……」」
珠とハシルヒメの声が重なる。その間に一滴分の膨らみは、波紋を残して水面へと消えていった。
「ほら。増えたよね?」
珠がそう言うと、ハシルヒメは風切り音が鳴るのではないかという勢いで首を横に振った。
「違う! 違うね! 今のは珠ちんが動いたから水面が揺れただけだって!」
ハシルヒメは両手を伸ばして盃を持ち上げると、大事そうに抱えて立ち上がった。
「あんまイタズラばっかりしてると、願いの盃がちゃんと機能しなくなっちゃうかもしんないからね。そしたら珠ちんだって困るんだから」
「あー。確かに」
珠は盃を取り返そうとはせずに、その場で仰向けに大の字になった。
珠が生きているのは願いの盃のおかげだ。それが異常をきたしたら、今の珠がどうなってしまうかわからない。
あまり考えてはいなかったが、そう思うとぞっとした。
盃を置いて戻ってきたハシルヒメが珠へと手を差し伸べた。
「もういいよね? 行こう」
「うん」
珠はその手を握り、立ち上がった。
外に出ると、雨の音がうるさかった。湿った空気が拝殿の中を通って珠の三つ編みを揺らす。灯りの少ない神社は、天気が悪いだけでだいぶ暗い。
「すごい雨。これじゃあ外の掃除はできないし、今日は暇そう」
「え? 雨の中掃除しなよ」
「鬼か。それ一回で盃が溢れるならやってもいいけど」
「あ、じゃあいいや」
ハシルヒメは珠の手を握ったまま、必要以上に大きく手を振りながら歩いた。
「じゃあお祭りの話しようよ。マラソンするってこと以外決まってないし」
「そうだね。当日こんな雨だったらマラソンもできないし、中止になったときの告知方法とかも考えておかないと」
珠が渡り廊下の窓から空を見上げると、ハシルヒメも立ち止まり、並んで見上げた。
「雨天決行でいこう」
「プロのレースじゃないんだから無茶いうな」
珠はハシルヒメの頭を指の関節で小突いた。
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