第29話 高級料理

 アイランドキッチンは埃一つなく掃除されており、道具類も片付けられていて何も置かれていない。調味料すら置かれていないのは不気味な域に達している。


「翠羽さんくらいお金持ちだったら、お料理はお手伝いさんとかがやるのかと思ってた」


「お手伝いさんを呼んだことはないわね。自分で作らないときは外で食べに行ったりはするけれど」


 翠羽が上の棚を開いて、インスタントラーメンをゆでるのにちょうど良さそうな小鍋を取り出した。


「それじゃあ、この鍋に水を入れてもらっていいかしら」


「わかった」


 珠は小鍋を受け取って流しへと持っていき、ふと手を止めた。


「鍋に入れるのって水道水でいいの?」


 料理をする人は水道水など使わないのでは。そう思ったのだ。


 エコバックを持って冷蔵庫の前に立つ翠羽は、一瞬だけ真顔で珠を見た後に、微笑んだ。


「水道水で大丈夫よ。水を変えても味には影響ないから」


「あ、そういうもの?」


 もしかしたら水道からいい水が出ているのかもしれない。四人もいるのだからと多めに水を入れたが、鍋が小さいのでそこまで重たくはない。


(あれ? 何を作るのかわからないけど、四人分作るのには小さくない?)


 気づいて翠羽を見ると、ちょうど目が合った。


「水を入れたら火にかけて頂戴。IHだから火が見えないけれど、強火でお願いするわ」


「あ、はーい」


 余計なことを考えずに、指示通りにやることにした。素人の珠が口出ししてもプラスになるとは思えなかったからだ。


(翠羽さんには完成後のビジョンが見えてるはずだから、きっと大丈夫)


 そう思い温まる鍋をじっと眺めていると、翠羽が電気ケトルに水を入れ始めた。


「コーヒーを入れるの?」


「いえ、これはスープを作るのに使うのよ」


 水の入ったケトルは冷蔵庫横のスタンドに置かれた。


「スープ? じゃあこれは?」


 珠は目の前の鍋を指さす。翠羽は迷わず答えた。


「それはハンバーグを作るためのものよ」


「ハンバーグを……?」


 珠の感覚ではハンバーグは焼くものだ。


「あ、そうか。煮込みハンバーグ」


「炭火焼ハンバーグよ」


 そう言われ、珠は言葉に詰まった。


(炭火焼? ぐつぐつ煮立っている鍋を使って?)


 お湯で火のつく炭があるのだろうか――とはさすがに思わなかった。


 翠羽が煮立った鍋を覗き込む。


「あら。もう温まっているわね」


 翠羽は冷蔵庫を開け、ハンバーグの写真が印刷されているパッケージを四つ取り出した。


「レトルト……?」


 思わず声に出してしまった。翠羽は間違いなく聞こえているのだが、朗らかに笑った。


「これってとてもおいしいのよ」


「えっと、うん。すごく楽しみ」


 ごちそうしてもらうのに文句を言うべきでないのはわかっている。しかしどうしても思ってしまう。


(わざわざご飯に誘ったのに、メイン料理がインスタント食品なんてことある?)


 ケトルの近くに置かれたマグカップの横には、粉スープが四袋置かれている。そして冷蔵庫からパックご飯が取り出された。


(これは全部レトルト食品なのでは?)


「ここはもう大丈夫だから、珠さんも休んでいて」


「う、うん」


 珠は頷いて、台所を離れた。確かにレトルト食品を温めるだけなら、一人でもできるだろう。


 珠はハシルヒメたちがくつろいでいるソファーへと向かった。


「翠羽を手伝ってくれたようだね。ありがとう。翠羽は何を作るといっていたかね?」


 立ち上がった刺美の問いに答えるのに、珠は少し迷った。あれを作ると言っていいのかわからなかったからだ。


「炭火焼ハンバーグを作るって言ってた」


 珠がそう答えると刺美は「なるほど」と頷いた。


「では使うのはナイフとフォークだな。わたしが用意するから珠くんは休んでいたまえ」


 刺美が立ち去るのを見送り、珠がソファーに座ろうと思ったらハシルヒメと目があった。


「炭火焼ハンバーグ楽しみだね」


 ハシルヒメは目を輝かせていた。眩しいほどのその笑顔は、相当期待が膨らんでいるのだろう。


「ああ、うん。レトルトだけど」


 珠はそうこぼしてから、言わなければわからなかったのではと後悔した。しかし珠の予想に反して、ハシルヒメの目の輝きは減るどころか増していく。


「そうそう。あのレトルト食品は高いんだよ。美味しいって話題だけど、うちじゃ絶対に食べれないからね。ちゃんと味わって食べるんだよ」


「うん?」


 珠が首をかしげると、それを真似するようにハシルヒメも顔を傾けた。


「どうした?」


「料理のできるハシルヒメがレトルト食品で喜んでるのが意外で……いや、話聞いて納得しちゃったんだけど」


「食べればもっと納得するよ。きっとすごく美味しから。わたしは食べたことないけど」


 珠は思わず吹き出して、うなずいた。


「そうだね。楽しみになってきた。ハシルヒメが作ったのと比べたいから、今度作ってよ。炭火焼ハンバーグ」


「炭火焼きは無理。普通のハンバーグだったら、ひき肉が安いときに作ってもいいけど」


「おまたせ」


 翠羽の声が後ろから聞こえた。振り向くと、テーブルの近くに翠羽が立っており、刺美がテーブルにフォークやナイフを置いている。


「用意ができたわ。そっちだと食べづらいと思うから、こちらに来てもらってもいいかしら?」


「もちろもちろん。行こう珠ちん」


「う、うん」


 ハシルヒメに手を引かれ、テーブルに向かった。


 それぞれの椅子の前に二枚のお皿とマグカップが置かれている。小さめのお皿にはご飯が盛られていた。


(ファミリーレストラン以外で、この盛り方初めて見た)


 大きな皿の半分にリーフサラダが盛られており、残りの半分にハンバーグが載っていた。たっぷりとデミグラスソースがかけられているため、焼き目がついているであろうハンバーグの表面は隠れてしまっている。


 皿に盛り付けただけなのだろうが、高級感があって美味しそうだ。


 この二つは先程キッチンで見た料理なのだとすぐにわかった。


 けれど一つだけ。マグカップは蓋をするようにチーズが呑み口を覆っており、粉スープを溶かしたものには見えなかった。


「これは……グラタン?」


 珠は椅子に座りながら呟いた。


「それはオニオングラタンスープよ」


 正面に座った翠羽が答える。


「粉のオニオンスープに切ったフランスパンを浮かべて、その上に溶けるチーズを載せてオーブンで焼いたの」


「へぇ、なんかオシャレで美味しそう」


 珠はそんな月並みの感想しか言えなかったが、食いついたのはハシルヒメだ。


「そんな簡単なレシピで作れるんだね! 洋食はあまり作らないから参考になるよ!」


「そんなに喜んでもらえると、作ったかいがあるわ。ぜひ食べて頂戴」


「ほーい。じゃあ、いただきまーす」


 ハシルヒメはあんなに楽しみにしていたハンバーグではなく、オニオングラタンスープにスプーンを入れた。


 チーズが破れて飴色のスープが溢れてくる。芳しい香りが広がって、それは珠にも届いた。


「いただきます」


 珠もオニオングラタンスープに手をつけた。チーズとスープをたっぷり載せたスプーンを口へと運ぶ。


 程よい塩味とタマネギ特有の香り高い甘みが口いっぱいに広がる。チーズは味わいに深みを出すだけでなく、溶けかけの食感が楽しいかった。隠されているパンのおかげで食べごたえも十分だ。


「すごく美味しい……」


 その一言がすんなり出てきた。


 ハシルヒメの素朴な料理を数日食べ続けていたので、より美味しく感じるのかもしれない。


(ハシルヒメの料理も美味しいんだけど、たまにはこういう料理も食べたいな)


 ハシルヒメを見ると、満足気にスープを味わっている。もしかしたらこれに影響されて、洋食を作ってくれるようになるかもしれない。


 ハシルヒメから感想が出てくるかと思い待っていたが、なかなか口を開かない。目を閉じって、ずっと口をもごもごしている。


「ハシルヒメ? どうしたの?」


 ハシルヒメは珠へと手のひらをむけ『待て』の姿勢をとった。そしてゆっくり十秒かけてスープを飲み込んだ。


「こんな高いものすぐに飲み込んだらもったいないじゃん!」


「インスタントでそんなんになる人初めて見た。でも美味しいから気持ちはわかるかも」


 正面を向くと翠羽が手を合わせて笑っていた。


「喜んでもらえたみたいで嬉しいわ」


 もしかしたら翠羽も喜んでもらえるか不安だったのかもしれない。


 珠は翠羽にもっと喜んでほしくて、全力で料理を楽しんだ。


 ハシルヒメが高いと言っていたハンバーグも美味しかったのだが、珠の中での一番は、やはりオニオングラタンスープだった。


 そしてハシルヒメはハンバーグをオニオングラタンスープ以上に時間をかけて食べ、神社に送ってもらうギリギリまで料理を楽しんでいた。

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