3-7
明くる日、僕は緊張と共にC組の教室へと入る。弓削さんに朝の挨拶をしようと、家を出た時から決めていた。
「お、おはよう、弓削さん」
「あ……おはようっ」
弓削さんは笑ってくれた。けど、その瞳に浮かぶ寂しげな影。やっぱり弓削さんを見る僕の目は、まだピンク色なんだと思い知らされる。
僕から挨拶したら弓削さんも喜んでくれるだろう。そんな気持ちで声を掛けたはずでも、僕の本心は何一つ変わっていないらしい。
弓削さんを喜ばせたいという気持ちの一方、心のどこかで自分が弓削さんと話したいだとかクラスメイトに対して優越感を味わいたいとかいう気持ちがあったのだろうか。
まだ僕には心底、弓削さんのためにという想いが足りない。弓削さんが頑張ってくれたみたいに、弓削さんを喜ばせようという気持ちが足りていない。
今日はダメでも明日こそは……あぁ、弓削さんもこんな気持ちで僕の目を見ていたのだろうか。期待と不安を胸に抱きながら。
結局、この日は朝の挨拶から進展なし。考えもまとまらない状態で弓削さんに声を掛けても仕方ないだろうと、下校時は黙って教室を後にした。
廊下に出てから後悔が一つ。弓削さんが僕から声を掛けられるのを待っていたかもしれない。朝の「おはよう」と帰りの「じゃあね」はワンセットだろう。弓削さんは僕から「じゃあね」と言ってもらうまで自分の席に座ったままでいるかもしれない。
回れ右して教室に戻ろうとしたところで甲高い声に呼び止められた。
「カンちゃん」
「あ、奈都か……ゴメン、ちょっと待って」
一緒に帰ろうと誘いに来たのか、K組から奈都が来た。
せっかく来てくれたところを悪いが、弓削さんに一声掛けるだけなら待たせはしないだろう。頭だけを教室に突っ込む。
「弓削さん」
僕が声を掛けると弓削さんの肩が少し震えてポニーテールが揺れた。きっかり三秒後、弓削さんが首だけでこちらを振り向く。
「じゃあね、また明日」
「……ほなね」
明日こそは弓削さんの期待に応えてみせる。そんな意志を短い言葉にどれだけ込めることが出来ただろうか。弓削さんは微笑んで返してくれたけど、やはりどこか寂しげだ。
教室中から上がった冷やかすような声を無視して、僕は奈都と一緒に学校を出た。
「カンちゃん、今日……時間ある?」
「ん? いいけど、また帯ブラでもする?」
「ううん、そうやのうて。ほら、カンちゃん何ぞ相談がある言うちょったし」
「あ、あぁ……そのことなんだけど……」
「弓削さんのことながやろう?」
僕から切り出すまでもなく奈都にはお見通しだった。
「うん、どうしたら弓削さんを喜ばせてあげられるか……僕が何をしたら喜んでもらえるのか、そればかり考えてて」
「ふーん。贅沢な子やね、弓削さんも」
「贅沢?」
「弓削さんやってカンちゃんのことが好きながやろう? それがやにカンちゃんと一緒におるだけで嬉しいとか思えんがかね」
奈都がつまらなさそうに言う。僕は自分の言い方がマズかったことに気が付いた。
「いや、弓削さんを喜ばせてあげられない原因は僕にあるんだよ。どうしたら僕が、その……恋人らしく振舞えるのか分かってないから弓削さんは……」
弓削さんの秘密を軽々しく他人に話すわけにはいかないから、僕の下手くそな説明で奈都に納得してもらえるかどうか。
しばらく黙った後、奈都は意を決したような表情で僕を見上げてきた。
「ほいたら後で連絡するき、今日は家で待っちょって」
「あ、うん……分かった」
普段は頬を膨らませて怒ってもまるで迫力の無い奈都の童顔が、この時はやけに凄みを感じた。
雰囲気に飲まれた僕が反射的にうなずくと、奈都は一歩近づいて表情をより真剣にする。
「カンちゃん……ボクはカンちゃんが、いっちゃん好きや。やき、カンちゃんが自信を持てないがならボクが支える。カンちゃんが望むがやったら、そのためにボクは何だって出来るきね」
それだけ言うと、奈都は自分の家の方へと駆けていった。僕の家も同じ方角なのだから一緒に帰ればいいのに。
この時の僕にはまだ、奈都の覚悟の大きさがまるで分っていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます