第22話 結希子と蔵之介
結希子と蔵之介
次の日の朝は、気まずいことこの上ない朝になった。クロベエとの朝のじゃれ合いも上の空に過ぎた。
宗次郎と琴美は、互いに目を合わせられない。
「おはよう」
「おはようございます」
挨拶も、もごもごとぎこちなく声にならない。
昨夜から、宗次郎は琴美に心の中で語りかけているが、反応はない。お互い、祖父と祖母が入っていないと、この心の会話は成立しないのかも知れない。
「宗ちゃん、おはよう」
比べて、小西老人の機嫌は頗るつきに良い。
「どうだい、昨夜、上手く話はまとまったのかい?」
小声で訊いてきた。
「ええ。まあ、何とか」
「じゃあ、琴美ちゃんも分かってくれたんだ」
「ええ、まあ」
としか言えない。
ある意味、上手く行き過ぎた。
昨夜の成り行きは、でもちゃんと話しておかなきゃな。宗次郎は自分を励ました。それでも、宗次郎が昨夜のことを口にしたのは、朝食の後だった。
「昨夜は、僕の中に祖父が、琴美さんの中にお祖母さまがいる時に、話が始まったんです」
宗次郎は、ぬるくなったお茶をがぶりと飲んだ。これだけ言っただけで、やたらと喉が渇いている。
「そして、ああ、何と言えばいいか。二人は、知り合いでした」
そこまで言って、宗次郎は小西夫妻の反応を待った。
目を伏せて黙って聞いていた琴美が顔を上げ口を開いた。
「お祖母さまと、藪坂先生のお祖父さまは、恋人同士だったんです。愛し合っていたんです」
小西夫妻が、ぎょっとした顔で琴美を見た。
宗次郎の顔もこわばる。核心から切り出した琴美。
宗次郎では出来ない芸当だ。琴美が持つ本質の強さなのか。女性の誰もが潜ませている強さなのだろうか。男は論理的であろうとして、時折、自分を見失うことがある。
「昨夜、あの後、お祖母さまと話したんです」
琴美が、宗次郎へ顔を向けた。今はしっかり、宗次郎の目を見ている。
宗次郎が、ぎこちなく頷く。そうか、二人で、話したのか。
「お祖母さまは、隠さず、全部話してくれました」
小西夫妻は、全く琴美の話の意味を分かっていない顔だ。ぎょっとなった表情のまま、思考が停止しているようだ。
「琴美さん、その話は、もっと何と言うか……」
言いかけて、宗次郎は言葉に詰まった。これはどう説明するにせよ、琴美の言っているままではないか。取り繕う事も、順序立てて話すことも難しい。
「いや、確かに琴美さんが言ってることは本当です」
そう言わざるを得ない。
「小西さん、時子さん。昨夜、突然と言っていいくらいに、僕の祖父と琴美さんの祖母が、若い頃、恋人だったと分かったんです。僕と琴美さんに見えている二人の姿は、ずっと若くて、きっと二人が出会った頃の姿だと思います」
「そう……。奥様と宗ちゃんのお祖父さまが……」
やっと時子さんが口を開いた。
「僕が知っていることを、全部話します。これは、祖父の恋愛だけのことではないんです。琴美さんも、まだ知らないことがあるんだ。突飛に聞こえるかも知れないが」
宗次郎は話し始めた。
「祖父が僕の中に入ったのには、理由がありました。祖父は、あの世からの脱獄者を捕まえる役目を与えられたんです。何故なのか分かりませんでしたが、昨夜の二人の様子から、全体像が見えてきました。脱獄者は、祖父の蔵之介と琴美さんの祖母、結希子さんに関係ある人間のようです。まず、結希子さんをしつこく追い回していた、北川義明と言う少尉。これは僕の祖父の部下でもあります。それと、北川の姉が脱獄者の一人です。脱獄者が何人いるのか分かりませんが、おそらく、祖父と琴美さんの祖母に関係ある人達だと思います。この家や、会社とも無関係ではないと僕は思います」
「宗ちゃん。あの、なんだ。奥様も宗ちゃんの言う、脱獄者なのかい?」
小西老人が、それはもう不安そうな顔になっている。
「いえ。琴美さんのお祖母さまは、祖父蔵之介の相棒として、琴美さんの中に入ったようです」
「相棒? じゃ、脱獄者じゃない?」
「はい。それは間違いありません」
「良かった……」
天を仰ぐようにして、小西老人は大きく安堵の息を吐いた。
「そうよ、お父さん。奥様が脱獄者なんてことないわよ。それに、奥様と宗ちゃんのお祖父さまが争うなんて、私、見ていられないもの。良かったわね、お父さん」
時子さんの言葉に、小西老人は何度も頷いている。
「昨夜、お祖父さまが言われてた、相棒って、そう言うことだったんですね」
琴美が納得した顔になった。
「そう。だけど、この脱獄者を元に戻すやり方が、どうも乱暴でね。相手を、意識がない状態にしないといけないんだ。つまり、僕と琴美さんが、戦わなきゃならないんです」
「お祖母さまが、私の中にいる状態で?」
「そうだと思う。意識は祖父でも、躰は僕ですからね。琴美さんも同じ事だろうな」
気分が重くなってきた。新たな問題だ。弟の修三に乗り移った北川から、琴美を守れるだろうか。
「戦う以外に、方法はないんだ」
琴美が目を伏せ考えている。だが、不安の色はない。
「祖父は軍人でしたから、武道の心得はあると言ってました。でも、琴美さんのお祖母さまは、戦うのは無理でしょう」
「いいえ。奥様も戦えますよ」
時子さんの顔は、自信ありげだった。
「そうだ。奥様は、薙刀の名人だった」
小西老人が、薙刀を振る格好をした。
「薙刀ですか?」
「そうなんだよ、宗ちゃん。奥様はよく、庭で薙刀の稽古をされてたんだ。そりゃあ、凄いもんだったね」
(そうだ。結希子さんが薙刀を使う時の姿は美しかった。私達の出会いも、武道場だった)
祖父さまの声が、頭の中で響いた。
(良い時に来てくれたね、祖父ちゃん)
(結希子さんも、来ているようだ)
(えっ、そうなんですか。全くその気配がありませんが)
(お前に分からないだけだ。結希子さんは、少し引っ込んで、みんなの話を聞いているようだ)
「今、祖父が、僕の中に戻って来ました」
「そうなの? 何にも変わらないけど」
時子さんが、宗次郎の目を覗き込む。
「時子さん、僕の目に何か?」
「目つきが変わるとか、顔つきが変わるとか思ったから、ちょっと確かめたかったのよ」
「おば様、私の中にも、まだお祖母さまいるんですよ」
琴美が、悪戯っぽく笑う。
「奥様が、いらっしゃるの? でも、琴美ちゃんも普通にしか見えないけど」
「だからさ、ゾンビじゃないんだからさ」
小西老人、呆れている。
「時子さん、実は私も、ゾンビ映画大好きだったの」
突然、琴美の中で、結希子さんが前に出て来た。
「奥様」
「大丈夫よ。私が中にいるからって、琴美を乗っ取ったり、壊したりすることはないんです。それだけは、安心して頂戴」
「はい、奥様」
「私ね、ロンドンゾンビ紀行って映画が好きだったのよ。それから、ウオーキングデッドも」
「まあ、奥様ったら。そんな話初めてです」
時子さん、目を丸くしている。
「私と蔵之介さまは、道場でお会いしたのよ。私が薙刀、蔵之介さまは剣術。何度かお手合わせもしました。蔵之介さまには、勝てなかったけど、楽しかった」
「いや、結希子さんの薙刀は、美しくて、そして優雅で鋭いものだった。何度もやられたじゃないか」
祖父さまが、嬉しそうに喋っている。
「道場があったのは、市ヶ谷で、四谷の辺りもよく歩きましたね。お壕を見ながら」
結希子が遠い目になった。と言っても琴美だが。
「ああ。あなたは、雪の中のお壕が好きだった。あの時は、溜池のh方まで歩いたなあ」
二人はどうやら、昨夜に続き二人だけの世界に入っているようだった。
「祖父ちゃん、小西さんが驚いてます。それくらいで」
宗次郎が釘を刺すと、
「これは失礼した。宗次郎の祖父、藪坂蔵之介です。不肖の孫がお世話になっています」
蔵之介が、丁寧に頭を下げた。
「あ、いえ、こちらこそ、この度は、色々とその……」
小西老人、しどろもどろである。
そりゃそうだ。喋って頭を下げているのは、宗次郎なのだから。
「小西の家内の時子と申します。こちらこそ、宗ちゃんには色々助けて頂いています」
時子さん、何か珍獣でも見るような目だ。
「いやあ、驚いた。見た目には何も変わらないんだねえ。驚いたけど、安心したよ」
小西老人が言うと、時子さんが手を振った。
「いつもの宗ちゃんとは違うわよ。目がきりっとして、背筋がしゃんと伸びて、まあ、お祖父さまの立ち姿の凜々しいこと」
時子さんがすっかりその気になっている。女性は、目の前の現実には実に強く、順応が早い。
結希子さんが、くすくすっと笑う。琴美も笑っているんだろうな。
「まあ、ご覧になった通り、祖父の特徴が表に出るくらいで、後は何も変わりません。こうやって、全員が顔を合わせて記念すべき日になった訳です。そのうちに、小西さんも時子さんも、どちらが前に出ているか、すぐに分かるようになりますよ」
「私も、お祖母さまに慣れてきました。何となくですけど、楽しいような、くすぐったいような気持ちです」
琴美も、祖母が自分の中にいることが、満更でもない様子だ。
宗次郎もその気持ちが分かる。宗次郎だけの時より、今は祖父が一緒の方が、何か安心感があるのだ。自分だけだと、どこか薄っぺらい気もする。
「そうだ。実は、祖父の部下だった、北川義明ですが、僕の弟の修三に取り憑いているんです」
「宗ちゃんの弟に、向こうの中心人物が?」
小西老人がまたぎょっとなった。
「ええ、ですから、敵も一筋縄じゃいかないってことです。もしも、弟の修三が現れたら、用心が必要ですね」
宗次郎が言うと、入れ替わりに祖父さまが前に出た。
「では皆さん。新しい情報だが、北川は、自分の部下を何人か引き連れて逃げたようだ。これも、警戒しなければならない」
「油断ならない様子になって参りましたね、蔵之介さま」
「そうだ。部下を使って、非常手段に訴える可能性が高い。それに、単に私に対する意趣返しだけとも言い切れないところがある」
蔵之介が難しい顔になった。
「会社の乗っ取りじゃないんでしょうか?」
小西老人が言うと、結希子さんがかぶりを振った。
「それは、表だった動きでしょう。私に付きまとった時の北川のやり方は、もっと陰湿で執拗なものでした。蔵之介さまがおっしゃるように、私達に危害を加えるような、直接的な行動を起こすように思います」
「私達が戦うしかないんでしょ、お祖母さま」
「ええ。あなたには、大変な役目を押しつけてしまって」
「そうじゃないから。お祖母さまがいてくれたら、私やれそうな気がする。ううん、私やります」
琴美と祖母の結希子さんが溶け合い、ひとつになり始めている。宗次郎にはそれが分かった。俺と祖父さまと同じだ。
「奥様、どんなことでも言いつけて下さい。私達も琴美ちゃん守る為に頑張ります」
時子さんが、琴美の手をしっかりと握った。
「表は、高山さんにお願いして、裏で動く北川達は、私達で対応するしかない。宗次郎、頼むぞ。うむ、念のため、今日から少し、手ほどきをしてやろう」
「それは良い考えです。私も琴美に」
蔵之介と結希子が顔を見合わせた。
宗次郎と琴美も顔を見合わせる。こちらは、何が始まるか判らない顔だ。
「それともうひとつ心配なのは、北川の姉だ」
唐突に祖父さまが言った。唐突、突如は祖父さまの特許みたいなものだが、祖父さまの顔は至極真面目なものだった。
「北川の姉がなにか?」
「北川の姉は、ちょっとした有名人でな」
「有名人?」
「北川の姉は稀代の超能力者だと騒がれた女性だった」
「超能力者? ほんとうですか?」
「いや、真偽は分からないままだ。しかし、当時の学者たちがこぞって北川の姉を調査し審査している」
「それでも結論はでなかったんですね?」
「うむ……真実は霧の中だが、それなりの霊力はあったといわれた。それはたしかだ」
「なにか能力を裏づける証拠があったんですか?」
「思い出しました。何度か新聞の記事になりましたものね。当時としては珍しいことでした」
結希子さんが蔵之介に頷いた。
「そうですか」
「だが面白い話じゃない。能力を否定した学者のうち二人が奇怪な死に方をした記事だった。死因は結局分からずじまいで、北川の姉に関する記事はそれが最後だった」
霊力を持つ超能力者。嫌な予感がする。また面倒なことになりそうだ。
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