第10話 下宿先は故郷のように優しいと思う

下宿先は故郷のように優しいと思う

 電車の中の人いきれ。やけに白く明るい、狭いホーム。出口へ向かう、少しぬめったような階段。

 外へ出た途端に、街の騒音とクラクション、排気ガスと饐(す)えた側溝から立昇る歓楽の名残の臭いが、宗次郎を迎えた。

「帰ってきた」

 宗次郎は、立ち食い蕎麦の醤油くさい出汁の匂いを、胸いっぱいに吸い込みながら、安堵の呟きを漏らした。ドトールのコーヒーが飲みたい。

 玄関の式台に立った時、その思いはさらに強く、何物にも代えがたいものとなった。

「俺の家だ」

 単なる下宿先なのだが、宗次郎にはそう思えた。

 気配を感じる。宗次郎は振り向くことを躊躇った。

 式台の前の広い石畳を、パタパタと尻尾で叩く音が響いている。

 宗次郎はそうっと靴を脱ぎ、式台に上がった。

「ばおぅん」

 の鳴き声と、宗次郎の振り向きが同時だった。

 振り向いた時、宗次郎の眼前いっぱいに、クロベエの腹が広がっていた。むしゃぶりつくクロベエにのしかかられ、宗次郎は廊下に倒れた。後頭部がごんっ、と鈍い音を立てた。

 クロベエは、宗次郎の後頭部の心配など一切しない。ぐふぐふと鼻息荒く宗次郎の臭いを嗅ぎ、大きくて厚い舌で宗次郎の顔をべろりと舐め上げる。べろりと舐め上げた舌が、ぺたりと宗次郎の顔に落ちる。そしてまた、べろり。べろりのぺたりのべろりのぐふぐふである。

「まあっ」

 時子さんの声が廊下に響いた。

 時子さんのまあっは、今の宗次郎の姿を見て発せられたものなのか、帰ってきた宗次郎に向けられたものなのか、今の宗次郎に判断する余裕はない。

「まあ、まあ、まあっ」

 時子さんの今度のまあは、喜びを惜しみなく響かせている。

「ただいま、帰りました」

 宗次郎は、クロベエの下から、精一杯の笑顔で言った。

「宗ちゃん、何やってんだい?」

 麦わら帽子を片手に、式台から廊下へ上がった小西老人が、上から宗次郎を覗き込んで言った。

 冷たいおしぼりが出る。熱くて濃いお茶が並ぶ。

 土間ではクロベエが尻尾を打ち鳴らし、テーブルの向こうでは小西老人が団扇を使っている。背中の方では、時子さんの鼻歌が聞こえた。全てが、懐かしい匂いに包まれている。

「田舎でも食べたろうけど、暑いからついこう言うのになっちゃうのよ。ごめんね」

 時子さんが、宗次郎と小西老人の前に江戸切り子の器を置いた。

 器の底に氷が入っていて、その上に素麺がくるりと置かれている。

「いえ、何よりです。東京の暑さは、独特ですからね」

 久し振りに、舌にぴりっとくるような、濃いつゆで食べる素麺は美味かった。浅(あさ)葱(つき)ではない、白い根が混じった葱の薬味も、鼻をくすぐってくる。宗次郎は一番に食べ終えた。

 あ、そうだ。宗次郎はテーブルに田舎の土産を出した。

 博多通りもん、塩屋の娘、筑紫もち、辛子明太子、それから自家製の高菜漬と、沢ガニを潰し、塩と唐辛子で漬け込んだ、がん漬け。

「まあ、こんなにいっぱい。気を使わなくてよかったのに」

 食べようと持ち上げた素麺を器に戻して、時子さんが済まなそうに頭を下げた。

「何言ってんだい。宗ちゃんが選んでくれた土産だ。有り難く頂こうじゃねえか。ありがとう、宗ちゃん」

 小西老人も丁寧に頭を下げる。

「有り難う、宗ちゃん。嬉しい」

 時子さんが言った。

「俺は土地っ子だしさ、時子の田舎も代替わりして、田舎って呼べるものがないからさ、嬉しいよ」

「そう、田舎があるって、いいものよ」

 時子さんが、宗次郎の土産をためつすがめつしている。

「どうぞ、開けてください」

 宗次郎が言うと、時子さんは博多もんの箱を大事そうに胸に抱いて、小さくかぶりを振った。

「宗ちゃんのお土産よ。奥様にお見せして、私達はそれから頂きましょう」

「そいつはいいや。社長も奥様も喜ばれること請け合いだ」

 そうね。時子さんは、宗次郎の土産を全部胸に抱いて、いそいそと仏間へ急いだ。時子さんの背中を見ながら、宗次郎の胸は熱くなっている。三人で食べたら、どれだけ楽しくて、どんなに美味しいだろう。それを思い描いて選んだものばかりだった。

「で、田舎の方はどうだったんだい?」

 小西老人の鼻がむずむずしているようだ。

「ええ、まあ、変わりはありませんでした。父も母も元気にしてましたし。色々と大変でしたけど」

「宗ちゃんの、結婚の話出ただろ」

「まあ、そんな話も」

「田舎は、結婚しなきゃ一人前じゃない、みたいなところがあるからさ。昔、田舎から帰った友達が、よくぼやいてたもんさ」

 お茶をすすると、小西老人がちょっと改まった顔で、

「それがさ、宗ちゃん。帰って来るのが、早くなっちまったんだ」

「僕の帰りがですか?」

 宗次郎の頭がこんがらがる。

「もう、お父さんったら、すぐに話を端(は)折(しよ)っちゃうんだから」

 時子さんが、笑いながら台所へ入って来た。

「そうかい?」

「そうですよ。あのね、琴美ちゃん、明日帰って来るんです。帰るのが早くなったって言うのは、そのことなの」

「ああ、こちらの孫娘さんのことですか」

「そう。俺、そう言ったよな?」

「ええ、言ったような言わないような」

 宗次郎、曖昧に答える。

「言ってないわ。それはどうでもいいけど、実はやきもきしてたのよ。宗ちゃんが間に合わなかったらどうしようって。ねえ、お父さん」

「うん。六年ぶりの田舎だから、引き留められるかも知れないとは話してたんだ。その時にゃ、仕方ないだろうってさ。こいつが、宗ちゃん予定通り帰ってくるかしらって、心配しててね」

「そうなの、やっぱり私達だけじゃ、心もとなくて。宗ちゃんがいない間も、琴美ちゃんとは毎日のようにスカイプで色々話してたのよ。宗ちゃんのこともちゃあんと話しといたから。頼りにしてるからね」

 ちょっと首をかしげるようにして、時子さんが言った。

「ああ、そうですね。この屋敷の問題がありますからね」

 宗次郎も頷いた。

 屋敷を壊してマンションを建てるのか、全面リニューアルなのか。この屋敷の取り扱いがどうなるのか。小西夫妻や宗次郎にとって重大な問題であり、運命の鍵を握っているのが、孫娘の琴美なのだ。

 八月末に帰る予定が早まり、十八日の明日帰るから、宗次郎にも居て欲しいと言うことになる。宗次郎に異存はない。この居心地の良い下宿先がなくなることは、極力避けたい宗次郎なのだ。

「僕で良ければ、話し合いに参加しますよ。僕にとっても緊急事態ですから」

「そうかい。そう言ってくれると嬉しいね。これでひと安心だ」

 ちょっとトイレ。と言って小西老人は立ち上がり、廊下へ出て行った。

 首を伸ばして、足音が遠ざかるのを聞いていた時子さんが、

「勿体つけてるけど、ウチの人大変だったのよ」

「えっ?」

「二日前からね、今日は宗ちゃん帰って来るんだよな。明日だっけ。早く帰って来ないかねえ。田舎なんか帰んなくったっていいのにさって、毎日ぶつぶつ、ぶつぶつ言い放しだったんだから。ウチの人、宗ちゃんのことすっかり頼りにしてるのよ」

「そうですか」

 満更でもない宗次郎だが、こんな時祖父さまが居座ってたら、大変な騒ぎになるぞ。宗次郎は背筋が寒くなった。

「時子、今日は早めに風呂を立てなよ。明日に備えて、宗ちゃんにはゆっくり休んで貰って、英気を養って貰わねえとな」

 トイレから戻った小西老人が、鋭気満々の顔で言った。

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