第9話 悪夢の後じい様は暴走する

悪夢の後じい様は暴走する

 机の上に、明治時代の紙幣と露西亜の金貨、そして二十五両の切り餅が並んでいる。

 熟睡の後の爽快な目覚め。心地よい満足感。躰の奥底に、幽かに残る、気怠けだるい眠りの残滓ざんし。朝の光への憧憬が、躰を揺り動かす。

 目をこすりながら、時計を見る。十二時十七分。

「朝じゃない」

 宗次郎は飛び起きた。寝汗で躰がぐっしょり濡れていることに、やっと気付く。宗次郎はうなだれ、呻きを発した。昨日の長い夢のせいだ。祖父さまだけじゃなく、修三まで出て来た。昨日の夢は、誰が誰だか訳の分からない夢だった。段々、夢が複雑になっていくなあ。宗次郎は立ち上がり、書斎の窓を開けた。暑い。昼過ぎの夏の陽射しが、容赦なく庭の土を焼いている。

 シャワーを浴びよう、振り返った宗次郎の目の端に、ちらりと気になるものが映った。

 明治時代の紙幣。露西亜の金貨。二十五両の切り餅。

 ぬるい時間が、宗次郎の体内を流れていった。

「夢じゃない」

 宗次郎はもう一度、腹の底から呻いた。

 残りの半日は、夢の中のように、朧気で頼りなく、物憂げに過ぎていった。

「昨夜は済まない。酔っ払って、いつの間にか書斎に行ってたみたいで。驚いたろう。俺もあんなこと初めてで、驚いたよ」

 修三の言葉さえ、くぐもった洞窟の中の木霊のように、当てもなく宗次郎の胸の中で泳いだ。修三は、あの異変を覚えていないらしい。何が起きているかは分からない。分からないが、祖父さまを中心に、何かが起きていることだけは確かなようだ。この先、何が起こるかも分からないままだ。

 帰郷最後の夜を、宗次郎は用心深く過ごした。

 何も起きなかった。

 何も起きなかったにも係わらず、寝起きは悪かった。ぐったりと疲れている。神経の疲れだ。東京へ戻れば癒やされる。帰ったら、クロベエを思い切り可愛がってやろう。宗次郎は自分を慰めた。

「荷物は全部持ったか?」

 修三が外で叫んでいる。何の屈託もない声である。

「ああ」

 答えながら、宗次郎は小さめの旅行鞄を手に持った。旅行慣れしている宗次郎には、四、五日の帰郷に、大仰な荷物は必要ない。机の上の紙幣や切り餅、それから祖父の肖像画も鞄の中に収められている。

「おはよう、宗次郎」

 靴を履いて外に出た途端、頭の中であの声が聞こえた。

 来た。祖(じ)父(い)さまだ。選りに選って今この時に来るのか。勘弁してくれ、祖父ちゃん。

「気持ちの良い朝だな、宗次郎」

 宗次郎の背筋がしゃんと伸び、胸を張った美しい姿勢になる。

 昨日一日の猶予が、祖父さまが自分の中に入ることについて、少しは冷静に考えられるようになった宗次郎である。だけど、これは不意打ちだ。幽霊とか憑依霊とか、そう言うものは夜やって来るんじゃないのか。朝一番で訪問するのは、ルール違反だよ祖父さま。

「おはよう、祖父ちゃん」

「お前は姿勢が悪い。今のように、私のように胸を張って歩け」

「好きにしてください」

 宗次郎は投げやりに答えた。今日は疲れそうだ。

「宗次郎、あれは何だ?」

 蔵之介が指さしたのは、修三の愛車アウディである。

「あれは、アウディです。車です」

「どうした、宗次郎兄、アウディです、車ですって、指さし確認して」

 修三に、宗次郎の声が聞こえたらしい。宗次郎は、感情のない薄い笑いで答えた。

「これは、修三の車なのか」

 祖父さまが訊いてくる。

「そうです」

 宗次郎は、殆ど声にならない声で、出来るだけ唇を動かさず答えた。こりゃ、まるで腹話術師だよ。

「行こうか」

 修三が促す。

「待て、私が運転する」

 宗次郎の意思と関係なく、蔵之介が言った。

 冗談じゃ済まないよ、祖父ちゃん!

「いや、それは駄目だって」

 修三が答えている。

 何か喋ろうとする宗次郎の口は、完全に封じられ、主導権は蔵之介が握っているようだ。修三、もっと強く言え。駄目だともっとはっきり拒否するんだ。宗次郎は声にならない声で叫び続けた。

「黙りなさい。私が運転する。早くエンジンを掛けろ」

 有無を言わせぬ、威圧感たっぷりの、蔵之介の声が響いた。

 これは、どう見ても部下に命令する時の声に違いない。藪坂大尉の真骨頂だ。

 言われた修三は、怯えた顔になり、ぼんやりと宗次郎を見ている。

 蔵之介、修三に見えているのは宗次郎だが、声にも態度にも、ずしりとした貫禄と威圧、そして強い意志力が漲っている筈だ。

 蔵之介は左のドアを開けて、運転席に座った。

「修三、早くエンジンを始動しろ。クランクはどこだ?」

 修三は更に混乱している。狐につままれたような顔で、宗次郎を見ている。

「祖父ちゃん、今の車は、クランク棒を差し込んで、エンジンを始動することはないんだよ。その黒いボタン、ハンドルの右下のボタンを押せば、エンジンは掛かるから」

 宗次郎は精一杯の精神力で、蔵之介の重圧を押しのけて言った。

 クランク棒を差し込んで、ぐるぐる回してエンジンをかけるなんて、一体いつの時代の車だ。それは、初期の自動車の構造だ。T型フォードだ。

「宗次郎、お前は運転出来るのか?」

「運転免許はあります。運転出来ますよ」

「よし、分かった。お前の知識を許に、私が運転しよう」

 どう転んでも、嫌な予感がする。宗次郎は、慌てて言った。

「止めて下さい。祖父ちゃんが知ってる自動車と、現代の車の性能は、帆掛け船と戦艦の違い以上に大きな差があるんですから。到底無理です」

 脳の中央に、ぐりっと何かが差し込まれた。痛みではないが異物がねじ込まれた感覚に、宗次郎は頭を両手で押さえた。

「騒ぐな。お前の脳に、私の脳を同化させているところだ」

「何てことするんですか!」

「色々と不便だからな。私の時代と随分変わったようだ」

「そりゃそうでしょうね。明治から何年経ったと思っているんですか。汽車は煙を吐かないし、飛行機だってプロペラありませんから」

 と、車の外で、突然修三が笑い出した。腹を抱えて笑っている。

「宗次郎兄、分かったから、もう良いって。兄貴がこんな小芝居が出来るとは思わなかった。しょうがない、運転して良いよ」

 まだ笑いながら、修三が助手席に乗り込んできた。

「言っとくけど、無理な運転はしないでくれよ」

「ああ」

 車はゆっくりと動き出した。

 古い町家の通りを、車はゆったりと走る。

「その感じで、のんびり走ってよ」

 修三が、軽く宗次郎の肩を叩く。

(俺もそう願うよ)

 宗次郎のハンドルを握る手には、いつになく力がこもっている。

 見た目は宗次郎でも、運転しているのは蔵之介なのだ。

(そうか、声に出さずとも、こうやって頭の中だけで話せるのか)

 蔵之介の独り言が聞こえてきた。

 宗次郎は返事をせず、蔵之介をひとりにしておいた。

 宗次郎が意識しなくても、車は高速のインターに向かって走って行く。

(これが信号で、これが停止線か。なるほど、自動車の数が多いな。これでは、色々規制しないと危険な筈だ)

 蔵之介の独り言は続いているが、宗次郎は無視した。

 祖父さまは、宗次郎の頭の中を徘徊し、色んな知識を引っ張り出している。宗次郎の意識で止めることは出来ないのだから、蔵之介がやりたいようにやらせるしか手段はない。

「なあ、兄貴。本当にまだ結婚しないのか?」

 修三が訊いてきた。

 修三は結婚して、二人の子供がいる。

「また結婚の話か。今のところ、当てはないよ」

「宗次郎兄、お前、大丈夫なのか?」

「大丈夫なのかって、何が?」

「ほれ、あれだよ」

「あれって?」

「兄貴、女に興味あるのか? 別の方に興味があるとか」

「馬鹿言うな。それに今時、女だ男だと区分けして、どっちが正当でこっちはおかしいとか、差別的な考え方はしない方がいい。イギリスとかは男同士の夫婦なんて当たり前になってる。アメリカはまだ州によって違うようだけどな」

「そう言えるのは、都会の考え方だ。田舎じゃそうはいかん。いまだに昔ながらの村社会だ。色んな意味で、新しいものは敬遠されるんだよ」

「そうだろうな。だが、いずれ変わる。時間の問題だ」

「そうか、相手がいれば、結婚する気はあるんだ」

 修三は、宗次郎の言葉を無視して、話を結婚に戻した。

「ああ。あるよ」

 宗次郎は苛立ってきた。今更、結婚の話を蒸し返すな。これは俺の問題で、弟に言われることじゃない。第一、俺だって恋愛はしたし、童貞でもない。

(ほう、そうなのか)

 蔵之介が、ニヤニヤしているのが分かる。

(祖父ちゃんは、俺の何を知ってるって言うんですか)

 宗次郎の口調が荒くなる。

(今、探査しているところだ。他人の頭の中は面白いな)

「兄貴は、ひとり暮らしで、気楽でいいよ。俺は子育てで毎日仕事だけじゃ済まないからな。でも、子供がいなきゃ、この苦労も、幸せも分からんだろうな」

 ああ、分からんよ。きっと子供より大変なものを、俺は今頭の中に住まわせているんだ。宗次郎はそう言いたかった。

 脳の中にねじ込まれた何かが、次第に膨らんでいく。痛みや悪寒はないが、脳ミソが風船のように膨らむ感じだ。宗次郎は、自分の頭が、内側からバルーンのように異様に大きくなるイメージを描いた。

(そんな馬鹿なことがあるか)

 途端に、蔵之介の冷笑が響いた。

(駄目だ。俺の頭の中は、丸裸だ……)

 宗次郎は痛烈に思っている。

 このまま、気を失いたい。

(うむ、お前の意識がない状態で私がどうなるか。それも一度試してみる価値はあるな)

 蔵之介が呟いている。

 好きにしてくれ、祖父さま。

 車は高速に入った。

(高速自動車道とは?)

 祖父さまが、宗次郎の頭の中を掻き回している。

(成る程、自動車専用高速道路か)

 祖父さまが、何やら醜悪な笑いを浮かべたように感じる。

「ひゃっ、ひゃっひゃっ」

 運転しながら、蔵之介は躰を左右前後に揺らし、子供のような歓喜の声をあげた。

 メーターは、百三十を指している。

「宗次郎兄、やめろ。無茶苦茶だ」

 修三が必死に叫んでいる。

(俺じゃない)

 必死でハンドルを握りながら、宗次郎は、心の中で呟いている。

 修三が見ているのは、気が狂ったとしか思えない宗次郎の姿なのだ。俺じゃないと言ったところで、誰も信じてはくれない。

 足がアクセルを踏み込み、スライドするように追い越し車線に出た車は、走行車線の車を七台追い抜き、一度走行車線に戻りそのままのスピードで走り、横の追い越し車線の車を抜き、また追い越し車線に出た。

(祖父ちゃん、やり過ぎだ。速度は八十キロまでだ! 交通法規を守ってくれ)

「そうか、詰まらんな。あれは何だ?」

 祖父さまは、頭の中だけで話すことをすっかり忘れたか、放棄してしまっているようだ。

(パーキングエリアだよ。車を停めて休憩する場所だ)

「行ってみよう。何事も経験だ」

「それが良い。早くパーキングエリアに入ってくれ兄貴。運転を代わるぞ」

「五月蠅い奴だ。静かにしろ」

「何だと! 兄貴でも許さねえからな」

 修三が叫んだ。怒っている。当然だ。

「お前じゃないよ、隣のトラックに言ったんだ。あわてるな、すぐだから」

 宗次郎は、やっとの思いで蔵之介を押しのけ、それだけを言った。すぐに祖父さまが前に出て来て、宗次郎の意識は押さえ込まれてしまった。

「行くぞ」

(待て、祖父ちゃん。パーキングエリアへ入る時は、四十キロだ。速度を落としてくれ!)

「分かった」

 それでも、車は六十キロでパーキングエリアへの坂道を上り、パーキングエリアの端に出た。

「練兵場の三分の一ぐらいの広さだな」

 今日は平日だし、サービスエリアじゃないせいか、端の方にぽつぽつと長距離トラックが停まっているだけで、駐車スペースはがらがらだった。

「よし」

 蔵之介が言って、足がアクセルを踏んだ。

「宗次郎!」

 修三が叫び、

「祖父ちゃん!」

 同時に宗次郎が叫んでいた。

 車は速度を上げる。エンジン音が車を震わせる。

 がくっと急ブレーキがかかり、ハンドルが切られ、次の瞬間、焦げた後輪から白い煙が吹き出し、ハンドルが曲がる方向と逆に切られた。車がスライドしている。ドリフトだ。車はスライドしつつ、進行方向と逆へ向かって向きを変える。

 車はぴたりと、駐車白線の中におさまって停まった。

 目の前に、半円形の黒いタイヤ痕が見えた。ドリフトのスライドの跡だ。修三と宗次郎は茫然として、黒いタイヤ痕を見つめた。

(ふん、要領こつが飲み込めてきたぞ)

 そのひと言を残して、蔵之介は宗次郎の中から消えた。

 何の要領が掴めたって言うんだ? まさか運転の要領なんて言わないでくれよ。宗次郎は泣きそうである。がっくりと宗次郎の頭がハンドルに落ちた。

「この野郎! どう言うつもりだ。何とか言えよ、兄貴!」

 修三の目が充血し、唇が震えている。涙が目の中で膨らんで、今にもこぼれそうだ。

「喉が渇いた」

 宗次郎はこわばった指を、ハンドルから引き剥がした。

 福岡空港まで、修三はひと言も口を利かず、宗次郎を降ろすと、顔も見ずに走り去った。さもありなんだ。

 宗次郎は空に向かい、出てこい祖父さま、と心の中で叫んだが、祖父さまは何の返事もしなかった。

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