第8話 宗次郎祖父様と弟に襲われる

宗次郎祖父様と弟に襲われる

 宗次郎は、暗い部屋の中で目を覚ました。

 耳鳴りがするくらいの深い静寂が、宗次郎を包んでいる。

(ここは何処だ?)

 酒でぼんやりした頭で、宗次郎は暗い天井を眺めた。

 躰が重く、吐く息は酒臭い。

 この部屋の臭いは、どうやら書斎のようだと、宗次郎は見当をつけた。書斎には独特の臭いがある。古い書籍と遠い面影の臭い。

「よっこらしょ」

 起き上がった宗次郎は、重い首の後ろを揉んだ。

 肩で息をして、浅い深呼吸をすると、少し頭がはっきりした。

「もう、宴会は終わったかな?」

 手を突いて躰を支え、やっとのことで立ち上がる。

 暗闇の中で手を左右に動かし、明かりの紐を探す。

「あった」

 紐を引っ張ると、部屋は眩しい光に照らされた。

 酒に濁った目が、光を殊更に眩しく感じさせる。

 時計を見ると、既に十二時を過ぎていた。

 もう、起きている者は殆どいないだろう。

(やれやれ、これでやっと宴会から解放されそうだ)

 大きく息を吐いて、宗次郎は力なくにやりとした。

 それから右に目を巡らせ、祖(じ)父(い)さまの肖像画を見た。

「祖(じ)父(い)ちゃんのお陰で、大変な三日間でした。しばらくは、東京で暮らしますよ。勘弁して下さい」

 今夜の祖父さまの顔は、何処かもの悲しげだった。

「そんな顔しないで下さい。田舎が嫌だってことじゃなくて、僕にも仕事があるんです」

 もの悲しげな肖像画を見ながら、つい弁解じみた言葉が出てくる。

 待てよ、ある発想が突然浮かんだ。

(祖父さまの肖像画、東京へ持って行こうかな)

 宗次郎はなんとなくだが、確実にそう思った。

 明後日、東京に帰る予定の宗次郎だった。

(うん、なんだか分からんが、それも良いな)

 肖像画に向かって毎度繰り返される、無慈悲な親族達の攻撃に晒されるより、祖父さまも気が楽かも知れない。何故か宗次郎はそう思った。そう思うと、何処か祖父さまが可哀想にも思えてくる。

 酔いで痛められた目が、光でぼやけた。宗次郎は目を閉じ、目頭を揉んだ。東京に戻れば、もう無茶な酒を飲むこともない。ほっとした瞬間、あの感覚が戻ってきた。

(まずい!)

 目を開けようとしたが、目は閉じられたまま言うことをきかない。

 足許に光の深淵が開く。

 あの時と同じだ。気付いたら蔵の前に立っていて、その前後の記憶がなかった、あの夜と同じ感覚だ。やがて、光の深淵から何十万本もの手が伸び上がり、宗次郎を深淵の底に引きずりこもうとするのだ。

 宗次郎は、精一杯の力で抵抗した。と言っても躰も動かないのだから、精一杯の精神力で抵抗した。これが、噂に聞いた金縛りか?

(ほら、来るぞ、来るぞ。ほら、来た、来ちまった)

 何十万本もの手が来る。宗次郎は抵抗を続けた。

(うん?)

 来ない? 手が来ない。

 ふっと心が緩んだ瞬間、どんっと何かが宗次郎の中に入った。

 躰が金縛りから解放され、宗次郎は壁に叩きつけられた。

 目眩めまいがして、宗次郎は動けなかった。

 壁に叩きつけられた衝撃ではなく、躰の中に受けた衝撃は、前回の何倍もの衝撃だった。けれど、今回は意識が飛ぶ気配はない。意識ははっきりしているし、ちゃんと壁にぶつかった痛みも感じる。宗次郎は気持ちを落ち着かせ、次に何が起こるかを待った。

「どうやら、勢いが付き過ぎたようだな」

 宗次郎の頭の中で突然、誰かが喋り出した。

「誰だ?」

 宗次郎は反射的に訊いた。

「私だ」

 聞き覚えのある声が答える。

「私って、誰だよ」

「名前を尋ねる時は、自分から先に名乗るものだ」

 何だこの間抜けな問答は。しかも相手は突然自分の中に入ってきた誰かだ。これが、話に聞いた憑依霊なのか。宗次郎は妙に冷静な心で思った。よし、何が起こっているのか、全て見定めてやる。宗次郎は決心した。

「僕は藪坂宗次郎」

「……」

 沈黙が降りた。いつまで経っても答えはない。

「貴方は?」

「……お前が宗次郎か」

 と言う返事が返るまでに、さらに十秒ほどの間があいた。

「だから、そう言ったじゃありませんか。今度は貴方が名乗って下さい」

「……私は、藪坂蔵之介だ」

「……」

 今度は、宗次郎が黙り込む番だった。

 あり得ないことだ。藪坂蔵之介。祖父の名前だと分かっていても、頭にも心にもその言葉はしみこまず、意味もなく揺れている。

「宗次郎!」

「はいっ」

 蔵之介が叱責し、宗次郎が答える。

 すとん、と宗次郎の心の底に何かが落ち、ふわっと花が開くように、頭の中に光が満ちた。

 そうか、祖父(じい)ちゃんが、俺の中に居るのか。

 今度は、はっきりと、宗次郎の中に祖父がいることが認識出来た。

 憑依された悍(おぞ)ましさはない。

 夢の中の感覚と同じで、自分の中に祖父が居て、宗次郎と祖父の蔵之介が混然一体となっている。

祖父じいちゃん」

「暫く待て、宗次郎」

 問いかける宗次郎に、祖父が答えたが、答える祖父の声も宗次郎である。

 それはそうだ。祖父さまは俺の中にいるのだからな、と宗次郎は可笑しくなった。けれど、暫く待てと言われても、この尋常でない状態で待てる訳がない。

「祖父ちゃん、何故、俺の中にいるんだ? 何があったんだ?」

「私にも分からない。突然、お前の中に飛ばされたのだ。いや、落ち込んだと言うべきかも知れない。だから、暫く待てと言ったのだ」

「祖父ちゃん、ひょっとして混乱してる?」

「お前はどうだ」

「パニックだよ」

「パニックとは何だ?」

「失礼、祖父ちゃんと同じで、混乱してると言うことです」

「そうだろうな」

「そうだね。祖父ちゃん、どうするんだ、この状態を」

「分かれば、混乱はしない。宗次郎、お前はどうにか出来ないのか」

「無理だと思います。飛び込んだか、落ち込んだか知らないけど、飛び込んで来たのは祖父ちゃんの方でしょう。飛び込んだものだったら、また抜け出ることも出来るんじゃないかと思うけど」

「宗次郎、お前が私を呼んだのではないのか? 他の者に入った時も突然だった」

「冗談じゃない。何が楽しくて、祖父ちゃんを俺の中に憑依させなきゃならないんですか? それでなくったって、祖父ちゃんは七十年前に亡くなっているんですよ。そこのところの認識はあるんでしょうね」

「ある、と言えばある」

「ちょっと待った。まさか、ないと言えばない、なんて言わないでくださいよ」

「では、ある、と言うことにして措く」

 やれやれ、困った祖父さまだ。宗次郎は溜め息をついた。

「溜め息なんかついてる場合か。しっかりしろ」

 途端に、祖父の叱責がとんだ。

 宗次郎は観念して目を閉じた。

 目の前に祖父さまの顔がある。

「おおぅ!」

 しかし、目を開いても、目の前に祖父さまが立っていた。

「ああ、良かった。祖父ちゃん、俺から抜け出せたんだね」

「違う」

 祖父さまの返事は、にべもないものだった。

「だって、俺の目の前に見える祖父ちゃんの姿は、それじゃ一体どう説明するんだ?」

 宗次郎、声がうわずっている。

「お前の中で、私がお前とどう向き合っているか、心象が映っているだけのことだ。どうやらお前の頭脳と精神に、私の心気が馴染んできたらしい」

「ああ、もう、そう簡単に馴染まないで欲しいな」

 その時、宗次郎はあることに気がついた。

 祖父さまを見る。

 息を詰めて、祖父さまを見る。

 やはりそうだ。

 祖父さまが、若い。宗次郎より若い。

「祖父ちゃん、若いですけど、どう言う仕組みになってるんですか」

 宗次郎は、ぽかんと口を開け、しげしげと蔵之介を見た。

「私にも分からない。が、分かるような気もする」

 蔵之介は、邪気のない顔で、にこりとした。

 祖父さま、若い姿に戻れて、満更じゃないんだな。宗次郎は苦笑いを返した。

 祖父さまが、軽く咳払いするのが見えた。

 最初の驚愕が少しずつ収まり、ある程度冷静に異常な状況を把握することが可能になったようである。

 と、祖父さまはくるりと背を向け、後ろで手を組み、書斎の中を歩き出した。当然、宗次郎も歩き出している。祖父さまの躰は宗次郎自身の躰なのだから、当たり前と言えば当たり前のことなのだ。宗次郎は抵抗した。

「こら宗次郎、私の邪魔をするな。素直に動け」

「勝手に僕の躰を操らないで下さい」

「操っている心算はない。ないが、仕組みとしてそうなっているらしい事を、私は感じることが出来る」

 蔵之介が、右腕を真っ直ぐに振り上げた。宗次郎の腕も真っ直ぐに振り上げられる。

 蔵之介が、両手で頬を掴み思い切り引っ張った。

「いた、いたた、痛い」

 宗次郎は、自分の頬を引っ張りながら悲鳴をあげた。祖父さまは意外と力がある。

「面白い。痛みも感じることが出来る」

 蔵之介は、ひとり悦にいっている。

「祖父ちゃん、一体何がしたいんだよ。ちょっと待った。祖父ちゃん、僕に入り込もうとしたのは、これが初めてじゃないんじゃないですか? 変な風景を見せたり、夜中に僕を勝手に操ったりしませんでしたか? だいいち、なんのためにこんなことするんですか」

 頬をほぐしながら、流石に宗次郎は声を荒げた。

「問題はそこだ。この摩訶不思議まかふし》な状況は何故出来しゅったいしたのか。理由が解明出来れば、動きようもあるのだが。何度か入り込もうとしたが、それがお前かどうかはわからんのだ。たしかに、私にゆかりの者だとは言えるのだが。こうやって同調できたと言うことは、お前と私の霊波は同調しやすいことは分かった」

 とそこで蔵之介は初めて気付いたように、書斎の奥の机を見た。

「私の愛用の机だ」

 蔵之介はすたすたと机に近寄り、古めかしい金華山張りの椅子に座ると、愛おしげに机を撫で回した。

「無事に残っていたか」

 机に頬ずりせんばかりの顔である。

 問題解決は何処に行った? 宗次郎は感情を抑えつつ、蔵之介に悟られないよう恨み言を言った。

「そうだ」

 蔵之介は机の引き出しに手をかけ、引き出しそのものを引っ張り出した。引き出しがあった空洞の奥に手を突っ込み、何かを引っ張り出す。古びた財布だった。

「宗次郎、これはどうだ?」

 蔵之介は財布から紙幣を取り出して、宗次郎の前に置いた。

 紙幣には、十圓とか二十圓とか刷られている。

 宗次郎は無言で首を横に振った。

「お前の小遣いだ。遠慮するな」

「祖父ちゃん、これはきっと明治時代の紙幣です。今は使えません。ただの紙屑です」

「何と! そうか」

 財布を探り、蔵之介が取り出したのは、五百円玉より一回り大きな金貨である。

露西亜ロシアの金貨だ。貴重品だぞ」

 宗次郎はかぶりを振った。

 うつむいた蔵之介が勢いよく立ち上がり、後ろの袋棚を開け、奥の隅を探った。奥の一部が外れ、ぽっかりと穴が開いた。蔵之介がにやりとする。

「どうだ」

 蔵之介は、取り出した物を、自信満々の顔で机の上に置いた。油紙に包まれた、十センチ四方の大きさの小さな物だ。

「開けてみろ」

 言われるままに、宗次郎は油紙を開いた。かなり話が横道に逸れている。苛々しながら、二重になった油紙を剥ぐと、出てきたのは小判だった。二十枚ほどが重ねられ、紙の封印でまとめられている。

「今度は江戸時代ですか? 僕に小遣いをやるだの何だのの話をしてる場合じゃないでしょう? もっと大事な話をしてたんですよ」

 宗次郎は、うんざりした顔になった。

「俺はこれからどうなるんだ」

 黒檀の机の前に座り、こめかみに指を当て、宗次郎は考え込んだ。

「すまなかった。この事態を解決する方策を話し合おう」

 蔵之介が、すまなそうにちょっと頭を下げた。

 蔵之介と宗次郎は立ち上がり、部屋の中をぐるぐると回り始める。

 次第に、どの行動が蔵之介なのか、宗次郎なのか分からなくなってきている。

 高く小さな軋みを響かせて、書斎の扉が開いた。

 ぎょっとして振り向いた宗次郎と蔵之介が見たのは、修三の姿だった。

「修三……」

 場合が場合だけに、宗次郎は修三に警戒の目を向けた。

 と、修三が無言で、歯を剥いて笑った。

「誰だ!」

 直感が、蔵之介と宗次郎を同時に叫ばせた。

 立っているのは修三だが、中身は違う。二人の直感である。

 修三がずいっと二人の前に踏み出し、仁王立ちになった。

 顎を上げ、見下ろす目線でこう言った。

「俺を忘れたとは言わせませんよ、薮坂大尉。北川です。北川義明です、大尉」

 声は修三の声だが、はっきりと別人だと宗次郎には判っている。いや、宗次郎と言うより、祖父の蔵之介が認識しているのが、宗次郎にも感じられると言うべきなのだろう。

「北川少尉、君が何故ここにいる」

 宗次郎の声で、祖父の蔵之介が喋っている。

 いつの間にか宗次郎の背筋がぴんと伸び、穏やかだがものに動じない、ずしりとした貫禄に満ちた姿に変わっていた。

「お分かりになりませんか大尉。……貴様の為に、俺は全てを失ったのだ。借りを返す為に戻って来たんですよ。今度は貴様が全てを失うことになる。覚悟して措け、薮坂蔵之介」

 修三、いや、北川義明の顔が、醜悪な笑いに彩られた。

「君は勘違いしていないかね。君は小隊長として、命令を無視した戦闘を行った。それを君は、機密任務だと主張した。違うか?」

「貴様が、結希子ゆきこを俺から奪ったのだ。それだけは許せない」

 その声は、腐敗した肉のようなぬめりを帯びている。

「貴様とあの人が? 何を言ってる」

 蔵之介が狼狽している。

 蔵之介の心が、激しく動揺しているのが、宗次郎にも伝わってきた。

「ここで、全てを終わらせるつもりはありませんよ、藪坂大尉。いずれ、貴様が後悔しても仕切れない遣り方で、決着をつけようじゃありませんか。今日は……」

 言いかけた修三の顔から生気が消えた。

「これは、何だ……」

 その言葉を残して、修三はぺたりと座り込んだ。

 蔵之介と宗次郎は、ほうけた顔で突然の修三の変化に見入っている。

 一分は経っていないだろうか、また突然修三が、がっと顔を上げた。蔵之介と宗次郎は、おっ、と一歩跳びさがり、身構えた。

 顔を上げた修三の目が虚ろだった。

「うん? えっ? うん」

 疑問だが納得だか分からない声を発し、修三がふらふらと立ち上がる。

「宗次郎兄、何してるの?」

「お前こそ、何をしてるんだ」

「えっ? ありゃ、ここ、書斎じゃないの。俺、いつここに来たんだ?」

「覚えてないのか」

 宗次郎は、自分の最初の体験と重ねながら、用心深く訊いた。

「覚えてないんだよな。かなり飲んだからな。俺、もう寝るよ」

「うん。その方が、良さそうだな。おやすみ」

 修三は返事もせず、書斎を出て行った。

 蔵之介と宗次郎が、安堵の息を吐く。

「祖父ちゃん、今の男は誰なんだ? 北川って男は。それより、あの男が何故修三に取り憑いたんだ?」

「……」

 蔵之介は、厳しい顔で考え込んでいる。

 宗次郎の質問を受けつけそうな顔つきではなかった。宗次郎の中に居ることさえ、忘れたような顔である。

 暫く放っておこう。宗次郎は、急に重い疲れを感じた。祖父さまと修三と、続けてふたつの異常現象に見舞われたのだ。これは超常現象と言った方がいいのだろうか。宗次郎は椅子に座りこんだ。ぐったりとする。宗次郎は眠気に身を委ねた。

「うん? えっ?」

 すうっと、蔵之介の存在が薄くなっていく。

「祖父ちゃん、祖父ちゃん?」

 祖父を呼びながら、宗次郎は意識を失った。

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